「ジャッカル」と「ゴート」 七


    九


 依然、車内は静かだった。運び屋は身じろぎ一つせず前を見据え、探偵は思考の波に身をゆだねている。彼らは互いに言葉を交わすことなく、ただ冷え冷えとした夜の底で息を潜めるばかりだった。

 だが長くそうしてはいられないということも、彼らは自覚していた。いまこの瞬間にも、最後の獲物となったジョシュア・ハーヴェイの存在を、ギャングたちが血眼になって探し回っているのだ。

 そのことを意識してか、運び屋は自分から口を開いた。

「どうするつもりなんだ、あんた?」

「さあな」

 曖昧な相槌だ。実際、ザック自身も今後の具体的な見通しを持っているわけではなかった。

「なんだそりゃあ。じゃあ奴らを裏切るかどうかも決めないまま、ここでこうして時間を無駄にする気なのか?」

「さあ……いやしかし……そうだ。いつまでも先延ばしにはできない」

 とにかく街を出よう。この青年を車のトランクにでも詰め込んで、堂々と検問を通り抜ければいい。思うに警官側も、この夜を徹して行われる検問の真なる目的を知らされている者はほんの一握りであるはずだ。深夜ともなれば彼らのモチベーションにも変化が訪れるに違いない。あとは生体スキャナー対応型の非合法改造車さえ用意すれば――。

 事が動いたのはちょうど、ザックがそう考えたときだった。

 深夜を迎え、完全に人足が途絶えていたはずの駐車場に、そのとき一台の車両が姿を現した。それはヘッドライトで進路上の闇を切り裂きながら、電気モーターの駆動音を辺りに響き渡らせていた。

 黒い中型SUVだ。それはジョッシュの目には単なる乗用車としてしか映らなかっただろうが、その隣に座す男にとっては、はっきりとそれ以上の意味を持つ一台であった。

 ザックは、ジョッシュに向けて小さく言った。

「降りるぞ」

 慣れた様子で車外に出る。そうするザックに倣うようにして、ジョッシュもまた逆側のドアからあとに続いた。やや戸惑うような様子は見せたものの、さしあたりザックの指示に従うことにしたようだ。

 硬い床を踏みしめた二人の姿に、相手方もすでに気が付いていたらしい。くだんのSUVは速度を最低限まで落としかと思うと、やがて電源を入れたまま停車した。

 左右のドアが開かれる。どうやら相手方も二人連れであるらしかった。ヘッドライトの光を背負い、くっきりとしたシルエットを浮かべたその二人組は、警戒心をあらわにSUVの前方に立った。その足取りは重く、動作は慎重である。

 なにぶん逆光だ。細部までは確認できなかったが、その男たちが揃ってスーツ姿だというのは間違いないように思われた。であれば、デモニアスの三下連中である可能性は低い。刑事か、でなければ上等のギャングだ。

「逃げろ」

 突然のザックからの指示に、ジョッシュも今度こそは完全に狼狽えた。

「なに? ちょっと待て、いったい――」

「走れ!」

 それは怒鳴り声に近かった。

 従わなければならない道理はないが、とはいえ、逆らってどうなるというものでもない。ジョッシュはザック一人を残したまま、とにかくその場から遠ざかるように駆け出した。

 ジョッシュに逃亡の気配を嗅ぎ取るや、例の二人組の片割れもそのあとを追って走り出した。上半身を前のめりに傾け、腕を大きく振り、歩幅を広く取る。追いかけっこなら慣れたもの、というフォームである。

 追う者と逃げる者と、合わせて二名ぶんの足音が慌ただしく遠ざかっていく。やがてザックの眼前には、一対一の構図だけが残された。相変わらずの逆光で相手の表情は確認できないが、その素性というのに関してはザックにもおおよその見当は付いていた。現在のような状況になる、と確信をもって予想していたわけではないが、数ある可能性の一つとして考慮していたことではあった。

「いったいどういうつもりだ、ザック」

 それがスタンリーの第一声だった。スタンは、彼自身の疑惑をそのまま態度で示すかのように、決してザックと正対しようとはしなかった。半身に構えたままのスタンの手には、あるいは銃のグリップが握られているのかもしれない。

 そのスタンに対し、ザックは言う。

「見てのとおりだ。俺は、お前たちを裏切ろうとしている」

「どうしてだ? なぜそんな馬鹿な真似を……いったいどんな相手を敵に回すのか、お前だって充分にわかっているはずだろう」

「ああ」

 あまりにもいまさらな質問である。察するにスタンリーも、いまだどういう行動をすべきかを決めかねているのだ。

 ならば、まずはバランスを取るのが先決だ。ザックは弾かれたように動き出した。相手の不意を突くようにして、真横に飛び退く。すると彼の身体は、居並ぶ車列の影に紛れ込んだ。SUVのヘッドライトから身を隠した途端、ザックの視界は完全な暗闇に飲み込まれた。そのとき聞こえた「ジャリ」というような音は、動揺したスタンリーが立てた足音だろう。

 背後からの明かりに頼っていたぶん、スタンが暗中を見通せるようになるまでには多少の時間的な猶予があるはずだ。事実、相手はザックの居所を見失っているようだった。

 この好機を逃す手はない。ザックは相手の側面に回り込むと、近くに停車してあった適当なセダンの上部を駆け上がった。と同時に、金属板が歪み、ガラスがひび割れ、ボンネットが靴の形に凹んだ。そうした劣化に伴なう音の連なりは、ともすれば出来の悪いオーケストラが作り出す煩雑なメロディのようでもあった。

 完璧に虚を突いた。少なくとも、ザック自身はそういう手応えを感じていた。しかし現実には、状況は際どいところであった。ベテラン警官の手中に見える銃口は、あとほんの少しでザックを捉えようかという位置にあったのだ。

 瞬間、その鈍く輝く銃身を、ザックのしなやかな長い足が蹴り飛ばした。続けざま、彼は体勢を崩したスタンリーの胴体に掴みかかると、それを床面に向かって叩きつけた。

 決して軽いダメージとは言えないはずだ。それが証拠に、スタンは脳震盪でも起こしているような具合であった。立ち上がるべく両足に力を込めようとするも、足がもつれて上手くいかない。そんな状態でなお行動をやめないあたり、「意地でも追撃はもらうまいという」という意思がはっきりと見て取れた。

 だがザックとしてはこれ以上、攻撃を仕掛けるつもりは微塵もなかった。彼の思惑は最初から、敵を討ち取ることではなかったのである。

「悪いが、銃は預かっておく」

 彼は転がり落ちたそれを拾い上げると、いつもと変わらぬ平坦な調子で告げた。バランスを取るとはこういうことだ。

「はっ、いいさ、くれてやる」

 荒い呼吸に肩を上下させながら、スタンリーはなおも強がって見せた。膝ががくがくと震えている。奇しくも、スタンが不安定な姿勢でもたれかかっているのは、さきほどザックが踏み台にしたセダンそのものであった。

 ザックは、いまだ煌々とライトを光らせ続けるSUVを右手にスタンリーと向き合った。それから彼は、ほとんど無感動とも言えるような、どこまでも低い声でこう訊いた。

「来るだろうとは思っていた。お前は優秀な警官だ。しかし、実際にはどうやってここに辿り着いた?」

「GPSだ。知ってるだろう? お前の機械義肢には発信機が埋め込まれている」

 スタンリーがザックに依頼を寄越す理由の一つが、ずばりこれである。たとえば、もしもザックの身に何らかのトラブルが発生した場合などに、いつでも居場所を特定することができる。この事実は双方にとって大きな利点であった。ザックからすればいざというときのバックアップということになるし、またスタンリーの側からしてみれば、この探偵に何かしら怪しい動きが見られないかと監視をする意味でも役に立つ。それはちょうど、今回のような場合にだ。

 またそれと異なる理由としては、これは発信機が装着された経緯にも関わることだが、この探偵が元警官であるという事実が、スタンにとっては信用のもとになっていた。

 ザックは自身の公務に端を発する争いごとによって、人工の肉体で生きることを余儀なくされた。かかる費用には彼の退職金が当てられたが、それでも不足する分は公的機関からの補助で賄わなければならなかった。つまり、ザックの義肢の一部は官給品であり、その管理の一環として、取り外し不可能な発信機が備え付けられているのである。

「それは知っている。俺が聞きたいのは、なぜ俺を疑わしいと考えたのか、だ」

「街の古い空きビルでな、乗り捨てられたバイクが見付かったんだ。骨董品みたいなガソリンエンジンのバイクがな。それで現場に行って話を聞いてみれば、なんとまあその持ち主っていうのが、昼のさなかから暴走行為に励んでいたらしいというじゃないか。しかも、これまたそろって型落ちの古めかしい黒いクーペと一緒に、だ」

「それだけで俺が怪しいと?」

「まさか。いちおう疑いはしたが、確証はなかった。だから、いくつか裏づけを取らせてもらったよ」

 スタンは、ハンバーガーショップでの乱闘騒ぎについても報告を受けていた。黒い革のジャケットを着た男と、取りててて特徴のない青年との喧嘩である。その現場の近辺でも、同じクーペの目撃情報が確認されていた。

 そこでスタンは試しにザックに連絡を取ろうとしてみたが、やはりというべきか電話は繋がらない。続けて携帯電話の位置情報を調べたところ、ザックの電話はまるでその持ち主の追跡を妨げるかのように、自宅に放置されたままになっていた。ここまで条件が揃っていれば、たとえ疑いたくなくても、そうせざるを得ないというものだ。

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