闇医者 一


    一


 バリー・フィッツジェラルドというのは偽名である。本名を知る者は少ないが、知り合いのあいだではとにかく彼はバリーとして通っている。

 柔和な表情を絶やさぬ男だ。物腰はつねに柔らかく、いつも細い身体を真っ直ぐに伸ばして歩く。六十歳という年齢にふさわしい落ち着きを醸し出しながらも、所作の一つ一つが実に溌剌としていて、優雅である。

 一方で彼の顔かたちというものには、はっきりと近寄りがたい雰囲気というものが漂っていた。表情それ自体は柔らかいのだが、落ちくぼんだ双眸や、肉の薄い頬の辺りには時折、色濃い影が現れる。仕立てのいいドレスシャツでも、北欧製の腕時計でも隠しきれないほどの明確な破滅の印象が、彼の皮膚下から染み出ているのだ。

 以前に一度、ある警察関係者から面と向かって「あんたは違法な薬物をやっているだろう」と訊ねられたことがあった。そんなときですらバリーは否定も肯定もしないまま、ただ穏やかに笑みを返すばかりだった。真相はどうあれ、何を追求されようと困ることはない。実際、そういう立場の人間なのだ。

 名前が本物でないのと同じように、彼の肩書きもまた、やはり嘘で形作られたものだった。正式な医者ではないバリーを、それでも多くの人間が「先生」と呼ぶのである。バリーと同様、それぞれの嘘で塗り固められた裏社会の人間たちがだ。そうした嘘と秘密の積み重ねが、彼にとっての平常の毎日だった。


 この日、彼は自宅の処置室にいた。都市部を外れた郊外の、ほとんど山の中といってもいいような場所に彼の自宅はあった。やや昔風の落ち着いた外観を備えた邸宅。ちょっとしたホテルほどの大きさを持つ屋敷である。

 その屋敷の一室を改築し、種々の医療器具を揃えたこの場所こそが、フィッツジェラルド氏の神聖なる仕事場であった。中央に手術台があり、それを取り囲む形で、道具置きの処置台や天井から下がる無影灯、見るからに複雑な人工心肺装置等々といった器具が、実に整然と立ち並んでいる。違法な医療行為をしているのだから当然、外部の人間がそうそう侵入できるようにはなっていない。ほとんど密室に近い状態だ。そのせいか、絶えず換気扇を稼動させ続けているというのに、息の詰まりそうなほど薬品の匂いが充満していた。

 そういった匂いのことなど気にもかけない様子で、バリーは黒く染めた白髪を撫で付けた。ついで、手術台に寝そべる男の顔に目をやる。そこに横たわっていたのは、どこか作り物らしさを漂わせた四十がらみの男だった。

「また無理をしたなあ、ザック」

 ザックは意識を失ったままだ。バリーは独り言として、小さく零した。

 ザックに治療が必要になることは滅多にない。そうそうへまをする人間ではない、というのも一因ではあるのだが、理由はそれだけではなかった。そもそも、治療が必要な部位が少ないのだ。一言で言い表せば、ザックはサイボーグである。骨や筋肉を始め、皮膚、毛髪、またほぼすべての内臓に至るまで、彼は全身を人工物に置き換えられている。生身のまま残された部分というのは脳、眼球、肺と心臓と、それらを機能させるための最低限の神経と血管くらいのものである。

 この口数の少ない探偵がどういう理由からそんな身体を持つに至ったかというのは、バリーも間接的に知るところではあった。だが、それは決して明るい話題と呼べる内容ではない。それゆえバリーとしても、ザックと顔を合わせる際には極力、そのことについては触れないようにしていた。

 置換手術自体は別人の手によるものであるが、こと日常の整備ということに関しては、少なくともこの十年ほどはバリーが独りで請け負っている。医学的素養のみならず、通信工学や、統計力学に対する造詣をも求められる複雑な作業を、彼は単独で行ってきたのだ。つまり、それを可能とするだけの高い能力が、闇医者バリー・フィッツジェラルドにはあるということだ。

 そのバリーが、顔馴染みの男の首に慎重にメスをあてがった。続けざま、一思いに頚部を切り開く。一見したかぎりでは、ザックの身体は生身の人間と見分けがつかない。機械義肢にも色々なタイプがあるが、この男の場合はとくに素のままの人体に寄せて造形されている。筋力もリミッターで制限されているうえ、度を越して造りが頑丈ということもない。そういった特徴に関しては、「法による規定の遵守する」という意味合いが強かった。凶悪犯罪の増加を抑制するため、特別な許可を持たない人間はインプラントによる能力強化を禁止されている。言い換えれば、ザックの義肢は人力でも壊せるていどの強度しか備えていないということだ。

 ところで、その手の人体再現型サイボーグと普通の人間とを見分けるというのは、存外難しいことではない。どんな環境に置かれても汗の一滴もかかず、肌荒れの一つも起こさないというような人間とは、そうそう頻繁に出会うものではないだろう。

 しかしながら、ときには肌の下まで除いてみないとわからないこともある。バリーによって切り開かれ、固定された人工皮膚の下には、あまりにも無残な状態の首関節があった。歪み。折れ。破れ。断裂。真っ黒い人工体液に染まる空間には、様々な損傷がひしめき合っていた。

「まったく、この身体じゃなきゃ死んでるぞ」

 バリーはまたも独りごちた。そうしながら、几帳面に並べられた器具を物色する。メスにしろ鉗子にしろ、あるいは鉗子立てしろ、それぞれがきっちりと磨きあげられ、金属の地肌を鏡面の如くに輝かせている。手入れの行き届いた道具を前に、彼は人知れず胸を躍らせた。

 いつでも仕事が楽しいわけではない。どこの馬の骨かもわからぬ小悪党や、「こいつは死んだほうが世の中のためになる」と確信できる相手に処置を施すような場合には、(いっそこのまま灰に返してやろうか)と半ば本気で考えることもある。医行為に従事する者としては許されない思想だが、そう真摯に職業意識を保てるのであれば、彼は始めから闇医者などに身をやつしてはいない。

 反面、心から有意義だと感じられる時間も時折は彼に訪れる。それは概して、親しい友人の命を救うときなどに、だ。そしてこのザックという男は、バリーにとっては唯一とも言える、個人的で対等な友人なのだ。

 声高に友だと主張する必要もない。友好的関係を取り繕う義務もない。ほんの少しの歩み寄りと、心からの敬意があれば、それに見合うだけの誠意をもって応えてくれる。それも、ごく自然に。ザック・フィッシャーとはそういう男だ。

 そうした態度は一見、大の大人としては当たり前の態度だとも感じられるが、次なる世紀末を目前に控えたこの時代、こういう人間は事実、希少である。

 ゆえに、このザックなる人物の一助になろうとするたび、バリーの心は弾む。それこそ、無垢な子どもが警察官や消防士の手伝いをする機会を得たときのような、誇らしげで、純粋な正義を感じるひと時だ。

 簡単な作業ではない。そのぶん、意義のある仕事だ。気付けば、バリーは身体中の神経を己が目と両手に集中させていた。得難き無類の信頼関係を、自らの才能と能力で守り抜くために。


    二


 ザックが自由を取り戻したのは、それから丸一日が経過したあとのことだった。傷だの何だのということは問題にならないが、術後に行われる各部の調整に、まとまった時間が必要だったのだ。

 その後、ザックが最初に望んだのは、仕事への復帰ということだった。より具体的にいえば、「自分と同じタイミングで運び込まれた男と面会がしたい」という内容だ。いうまでもなく、ダンフォールを指しての要望である。

 付き合いの長いバリーとしても、ザックの仕事熱心を知らないわけではない。それゆえバリーは、ザックから頼まれるよりも前に、あらかじめ面会の手筈を整えていた。ただし、条件付きで。その条件というのは、オブザーバーたるバリーを同席さえたうえで、面会中はお互いに安静を必ず守る、というものだった。

 幸い、ダンフォールの怪我は重篤な状態には及んでいなかった。現時点ではすでに意識も無事回復し、他人と言葉を交わすだけの体力も戻りつつある。

 そうなると、残る問題はダンフォール自身の意向である。はたして、自分たちを付け狙うギャングの回し者と、喜んで顔を突き合わそうという人間がいるだろうか? しかし、そうしたバリーの憂慮をよそに、ダンフォールは二つ返事で面会を了承した。何を思ってそうしたのか、バリーもその点では、この男の存在に強く興味を引かれる思いだった。

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