探偵 一


    一



 発端は一昨日に遡る


 月曜の夜 五月十五日

 港湾地区のバー〈デッドビート・ホリデイ〉

 揉め事 デモニアスの関係者 三人  ファイル要確認

 相手グループの素性は不明 若い男が何人か 少なくとも四人

 イタリア系が一人

 深夜、リーダー格らしき男を強襲、返り討ちに終わる  場所は? 駐車場


 火曜日 五月十六日

 デモニアスが動きだす

 夕刻、相手グループの男を一名、始末する

 借金から足が付いた男〈リチャード・ベイカー〉

 偽名 身分証も偽造 誤って、始末する  尋問に失敗か? イエス


 水曜日 五月十七日  本日

 警察がデモニアスの補助に付く

 以降、この件では市街地で面倒事を起こさない、という条件で



「情報が少ない」

 殴り書きのメモに目を落とした格好で、探偵は平坦な声を出した。抑揚のない声だった。「もしも巨大な一枚岩が喋り出したなら、きっとこういう風になるだろう」とスタンリーは常々、思っていた。

「悪いなザック。でも、俺たちに文句は言わないでくれよ」

 電力が足りないのか、頭上の電灯は最前から弱々しい光しか生み出していない。いまにも消えてしまいそうな明かりの下で、スタンリーは無愛想に腕を組みながらこう続けた。

「今回は事前に連絡がなかったんだ。担当の警官が現場に着いたときには、そのベイカーはすでに事切れていたらしい」

「そのベイカー氏が相手グループの関係者だとわかったのはなぜだ?」

「ああ、単純な話だ。そいつが向こうのリーダーらしき人物と話し込んでいるのを、バーで揉め事を起こした三人組が覚えていたらしい。なんでも、もっと仕事を回してくれだのなんだの、込み入った話をしていたんだと」

「仕事仲間、か」

「多分な。というより、その真偽のほどを確かめんがために、ベイカーの拘束を試みたんだろうよ」

「なるほど」

 そこでまたしても、低く単調な声が空気中を漂った。その短い響きを境に、狭苦しい部屋中が一切の動きを止めた。

 誰も、何も動かない。古ぼけた家族写真だけが残る本棚も。傾いたままの事務机も。埃を被った簡易キッチンも。針の足りない時計も。

 まるで部屋中の物体すべてが、そこに存在する意味を失ったかのようだった。あらゆる物を無差別に蝕む退廃に、とうの昔に飲まれてしまったかのように。

 ただし、それも薄汚れた窓を除いてのことだった。窓枠のあちこちがひび割れ、歪み、取っ手の金具は赤く錆び付いている。が、それでも、半透明に曇った板ガラスだけは、かろうじて外の世界との繋がりを保ち続けていた。時折そこから流れ込んでくる赤青二色のサイレンの光や、何かを威嚇する犬の吠え声のようなものが、この部屋をどうにか現実の世界に引き止めている。部屋の主の意向など、まるで気にも留めない様子で。

 探偵はメモを見下ろしたままだった。体温や生気といったものを感じさせない、青白い幽霊のような顔。それは人間としては異質であるのだが、それでもこの場所、サウスランドシティの喧騒から切り離されたこの事務所の内側にあっては不思議と、これこそが人間の自然な姿なのだとも感じられた。

 初対面のカイルが困惑するのは当然だとしても、しかしその探偵の半生を知るスタンリーにしてみても、眼前に座すこの寡黙な男がいまこの瞬間にいったい何を思うのかについては、まるで想像が及ばなかった。あるいは「何かを思う」という行為自体を、この探偵は遥か依然に放棄してしまったのかもしれない。この男の顔をじっと眺めていると、どういうわけかそんな気分にさせられるのだ。

 そのまましばらく時間が流れたあと、ようやく静寂は破られた。

「わかった」

 探偵がそう口にしたのに呼応して、スタンリーは窮屈そうに身体を捻りながら立ち上がった。

「じゃあ、任せていいんだな?」

「ああ」

「オーケイ。何か必要なときは連絡してくれ。何がしかの進展があったときにもだ。俺のほうも、何か新しい情報を仕入れたときには、なるべく知らせるようにはする」

「ああ」

 それらの言葉が行き交うあいだも探偵は目線一つ動かさなかった。針の足りない、壊れた時計と同じように。


    二


 海岸線を少し外れた商業地域にその店はあった。辺り一帯には多くのパブやダイニング、またラウンジ等といった店が軒を連ねていたが、〈デッドビート・ホリデイ〉という名の店は、そこ一軒しか存在しなかった。

 例の探偵は、近くの駐車スペースに型落ちの2ドアクーペを滑り込ませた。ついでエンジンを止めた途端、加熱されたボンネットの下で咳き込むような音がした。

 陽はすでに傾き始めていた。だが通りの様子を見るかぎりには、バーのたぐいが騒がしくなるまでには、まだもう少々の猶予があるような具合だった。道路脇の駐車スペースにも空きが目立っている。彼は車から身体を引き出すと、目的の店に向かってゆっくりと歩き始めた。


 やがて扉の前に立つと、「準備中」と書かれた札が視界に入った。しかし彼はその文句を気にしないまま、扉を開き、店舗の内部へと足を進めた。

 薄暗い店内には中年の男が一名いるのみだった。丸首のシャツにジーンズ姿の砕けた格好をした男が、床にモップで円を描いている。この店の従業員だろう、と見当が付いた。

 その従業員は突然の訪問客を認めると、いかにも「面倒だ」というふうに表情を曇らせ、作業の手を止めた。

「ああ、悪いねお客さん。まだ営業前だからさ、もう少ししてから出直してもらえないかな?」

「呑みにきたわけじゃない」

「客じゃないんなら、なおさら出てってくれよ。こっちは開店準備で忙しいんだからさ。トラブルなら余所に持ち込んでくれ」

「ああ、そうだな」

 口ではそう言いつつも、探偵は従業員の男の苦情を無視し、ゆったりとした足取りでバーカウンターに近付いた。その流れのまま丸形のスツールに腰を落とす。

 続けて、探偵は訊ねた。

「訊きたいことがある」

「わかんないやつだな、勝手に座るんじゃない――」

「リチャード・ベイカーが殺された」

 言うと同時に、探偵は相手の顔を正面から見据えた。そこに表れるであろう、なんらかの反応を捉えるためだった。

 表情筋の動き。目線の向けられる方向。声の大小や音色の調子。もっと単純には、発汗や身体の震えなど。得られる情報は無数にある。幸い、くだんの中年男は明瞭なサインを出した。

「なんだって?」

 返事はたったの一言に過ぎないが、その一言を発すると同時に、男は反射的に背筋を正していた。同様に、はっきりと白目の部分を確認できるほどに見開かれた両目の表情も、何やら尋常でないものを感じさせる雰囲気だ。いずれも、「どこぞの知らない人間が殺された」という無感動な反応とは思えなかった。

「知っているな? ベイカーを」

「さあな、いや、わからないね。ありふれた名前だ。リチャードも、ベイカーだってそうだ」

「そうだな。だが俺は、あんたの知り合いの話をしている。あんたの知っているリチャード、あんたの知っているベイカーだ」

「馬鹿を言うな。だいたいお前は何なんだ、薄気味の悪い奴め。勝手に来て、ごちゃごちゃとややこしいことを言うんじゃない」

 額と耳とを真っ赤に高潮させつつ、男は唾を飛ばして叫んだ。

「帰ってくれ! まだ言いがかりを付けるつもりなら、警察を呼ぶぞ」

「その警察に頼まれてきたんだ」

「なに?」

「ザックだ。ザック・フィッシャー。これ以上、余計な人死にを出さないために捜査をしている」

 彼のその言葉の裏側では、決して交わることのない嘘と真実とが、渾然としないままに肩を並べて潜んでいた。

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