運び屋 四


    四


 いつものように、濁った銀色のバイクカバーを引き剥がす。すると、サウスランドシティではすっかり珍しくなった、しかしジョッシュにとっては親しみ深い、引き締まった排気管の輝きがそこに現れた。

 彼が物心つくころにはすでに、アメリカのバイク市場における主要な動力源はガソリンから電力に移行しつつあった。環境保全のため。政府の方針。あるいはガソリンの価格がどうのこうのと、これまで色々な理由を耳にしてきたが、そのうちのどれが、どのていどまで真実なのかというのは、彼ごときの知るところではない。むしろ、どうだろうと構わなかった。真相が何であるにせよ、彼は父親の形見たるこの古ぼけたマシンを手放すつもりはないし、誰にどんな指図を受けようと、「兄弟」を捨てるつもりは微塵もない。

 革のシートにまたがり、キーを回す。セルスイッチを入れると、キュルキュルとモーターの回転音が鳴り、やがてエンジンが低い唸り声を上げ始めた。それはジョッシュにとって夜を始まりを告げる音でもあった。

 サウスランドシティのダウンタウン。薄暗い路地の頭上に所狭しとネオンサインをばら撒いたようなこの一帯が、彼の生まれ故郷であり、物心ついてからの日常の風景であった。

 青黒い影が壁という壁にかかり、その上から、まるで破裂する花火を写し取ったかのような眩い赤や緑、ショッキングピンク、あるいはカナリアイエローといった無数の光線たちが張り付けにされている。そしてそれらの広告は大抵、肉付きのいい女性の裸体か、アルコールが注がれたグラスを模していた。そういったものを売りさばくために、だ。

 高速で過ぎ行く風景を見送りながら、ジョッシュは慣れた調子でフリーウェイに合流した。ダウンタウンから港湾地区に向かうには幹線道路を行くのが手っ取り早い。一一〇号線をしばらく南下すると、ヘルメットの外に吹き付ける風がだんだんと塩気を帯びてきた。海岸線へ近付くのを皮膚の感覚で感じ始める。「潮風はバイクに良くない」と父親が愚痴を漏らすのを、ジョッシュは幼いころ度々耳にした。塩分は金属を傷める、ということだった。

 それでも、海を目指して走るこの時間に、ジョッシュは無上の喜びを感じずにはいられなかった。退廃とリスクとに晒され続ける日々にあって、この瞬間だけは、自分自身こそが己の人生の支配者なのだと、甘美な思い違いに浸ることができたからだ。

 身体の真下で生まれる振動。エキゾーストパイプを駆け抜ける熱の匂い。汗の沁み込んだグローブと、それを通して伝わってくる、路面を噛むような加速の感触。ヘルメットのバイザーじゅうを染めて流れゆく光の線、線、線。

 たとえすべてが泡沫の夢であろうと、彼はその時間を愛していた。どんなときでも夢中にさせられた。それはこの夜とても例外ではなかった。これから港の倉庫で行われるであろう暗い会合の存在をさえ、一時は忘れられるほどに。


    五


 やがて赤い太陽が水平線に沈み、夜の帳が落ちた。

 ジョッシュが集合場所に到着したときにはすでに、グラフィティと荒廃に飾られたコンクリート外壁の前には、十台ほどの車両が停められていた。それらはすべてボーイズたちの愛車、あるいは単なる仕事道具であった。

 ギャングと運び屋とを見分ける重要なヒントの一つが、これらの車両である。

 ギャングたちが用いるそれは大抵、見るからに厳つい外見をしている。地味で冴えない車に乗っていると、たったそれだけで周囲から一歩の遅れを取るからだ。裏家業に携わる者としてのメンツと尊厳を守るためには、それに見合う実力と威圧感の両方が必須である。

 しかしメンツなど運び屋には必要ない。何よりも彼らに求められるのは、信頼という一点に尽きた。つまり、預かった物を、届けるべき人物の元へ、間違いもトラブルもなく届けるという、その至上命題さえ達成できるのであれば、ほかの部分がどうであろうと、誰一人として気にする者はいないということだ。その点さえ見誤らなければ万事が上手くいく。少なくとも、この街に必要とされるクズにはなれる。いま、ジョッシュの眼前に広がっている、ブラウンカラーのセダンやグレーのバンといったありふれた車両ばかりが並ぶ駐車場の風景は、そうした実態の証明にほかならなかった。ある種の秩序に満たされた姿。ダンの言った「バイクを換えろ」という言葉が、自然と脳裏に蘇った。


 古びた事務室の扉をくぐると、ジョッシュはすぐに怒声を浴びせられた。

「遅いぞ」

 声の主はダンだった。彼の言葉が示すとおり、時刻はすでに二十時を回っていた。

 一見、普段と変わらないダンの、その左腕を吊るす包帯を目にしたとき、ジョッシュは初めて、襲撃に対する実感を抱いた。単なる脅しや、趣味の悪いジョークではない。昨夜、この男の眼前にはたしかに、命の危険があったのだ。

「すいません、交通状況が悪くて」

 出任せに言い訳をしたジョッシュの傍ら、通用口の真横には、呆れたように首を振るレイモンドの姿があった。

 彼らを含め、室内には全部で十五人の人影があった。ジョッシュの知るかぎり、それはスパイクボーイズの全メンバーだ。いつになく張り詰めた空気が漂うなか、その場に身を置く誰もが、充満する沈黙に息苦しさを覚えているようだった。


    六


 部屋の最奥に陣取ったダンは、一通り部下たちの顔を見渡すと、厳かに沈黙を破った。

「よし。それじゃあ、始めるぞ」

 そこで一度、やや長い呼吸を挟んでから、ダンはまた言葉を続けた。

「まず初めに伝えなきゃならんのは、運び屋は当面のあいだ休業するということだ。俺を襲ったのがどこの誰なのかというのはまだわかっていないが、相当に執念深く、何をするか予想のつかん連中であるのは確かだ。仕事中に襲われでもしたら目も当てられん」

 あいつらを逃がしたのは不味かったか――。

 とダンはいまさらに考えた。闇討ち、それも三対一であったのだから、腕一本で済んだのは上々と思うべきなのだろう。しかし、それは表の世界に生きる人間の考え方だ。この手の場合にはたとえ一度、悪意ある敵を退けたとしても、それは一時的な勝利に過ぎない。というのも、その次には大抵、さらに苛烈なる攻撃が待ち構えているからだ。それが裏路地のやり方というものである。

「以後、仕事を再開するときは、今日と同じように特別に連絡を入れさせる。いつでも呼び出しに応えられるよう、携帯の通信状況には気を付けておけ。待機中は目立つ行動をするなよ。収入がなくなるのはキツいだろうが、手足を失くすよりはマシだと思え。機械義肢に頼る羽目になったら、金なんか幾らあっても足らんぞ」

 そこで再び言葉を区切ると、ダンは腕を組んだ格好で訊ねた。

「ここまでで何か質問は?」

「なあボス、そいつら――まあ例の三人組という意味だが――そいつらの素性は全く見当をつけられないのか?」

 と、手を上げるのとほぼ同時に訊いたのはレイモンドだった。

「ああ、いまのところ手掛かりはない。それに関しては俺が調査を続けよう。あいつらの顔は覚えたからな、知り合いに当たってみる」

「手伝おうか?」

「いや、いい。ひとりの方が都合がいい」

「まあ、あんたはたしかにそうかもしれんが、しかし……」

 そこまで言うと、レイモンドはいかにも気まずそうに顔を背けた。その後に続く言葉を、できるかぎり口にしたくないのだ。

「もしもだ、もしもあんたに死なれたら、困るのは俺たちだぜ」

「俺がへまを踏むってのいうか?」

 ダンは怒りに燃える目でレイモンドを睨んだ。この男は部下に手を上げるような人間ではない。それは付き合いの長いレイモンドとても当然、知るところではあろうが、それでも、こういう具合に真正面から睨みつけられると、やはり臆せずにはいられないらしい。レイは肩をすくめると、そのまま口をつぐんでしまった。

「ほかに質問のある奴は?」

 その問いに応える者は誰もいなかった。さしものジョッシュも、このときばかりは大人しく話を聞いているようだった。広い事務室の出入り口付近に突っ立ったまま、彼はただ不安げに、眉を歪めるばかりであった。

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