15

 あたしはもうすぐ死ぬ。

 身体を包むのは軽やかな浮遊感だ。月明かりがくるくると視界の外を回っている。

 融解の速度が上がっていてこのままだと一ヶ月もしないうちに身体の中身が空っぽになってしまう、そう三日前に、六月十三日に、診断された。

 あたしは初めて恐い、と思った。

 死ぬことが恐いと思うのならよかった。それならただ震えていればよかった。けど違った。あたしは気がついてしまった。

 このままだと何もできずに死んでしまう。何も残せず死んでしまう。そう思ってしまった、そう気がついてしまった。

 でも本当は慌てる必要はなかった。その時はまだあたしの同位体は生きていて移植さえ受けられれば、生き延びられたのだから。

 会いに行こう、と思った。これから助けてもらうのだから挨拶のひとつでもしに行こう、そう思った。でも本当は自分の同位体とこの恐さを分かち合いたかったのかもしれない、と今ならわかる。

 あたしは会いに行った。企業体の、厳重に気密処理の施された部屋に入った。もちろん服もそこで渡された滅菌処理が施されたものに着替えている。五分だけだ、と言われた。それ以上は彼女に毒だ、と言われた。そういうものなのか、と思った。

 あたしはベッドにいた。上半身を起こして病的に長く黒い髪の毛を放射状に広げて嵌め込みの窓の、その外を見ていた。あたしが挨拶をしても自己紹介をしてもこちらを向くこともなかった。ずっと窓の外を見ていた。時間はもう三分も経っていた。いたたまれなくなって他に言うこともなかったのであたしは趣味について言った。言って「これからよろしく」といって退散するつもりだった。

 ぐりんと顔がこちらを向いた。きつく目が細められていた。

「あなた、運動できるの? それも……格闘技?」

「そう、だけど?」

「へぇ健康なのね、うらやましいわ」

 そう言ったきりまた窓の外へと視線を転じた。五分が経過していた。

「それじゃあ、」

 次の言葉に困った。またね、なのか、よろしくね、なのか、それとも――お大事に、なのか。

「スーサイドっておもしろそうね」

「え?」

 返事はなかった。視線は相変わらず外を向いたままだった。あたしは、そのまま退室した。

 企業体を出ると、人が集まっていた。

 スーサイドの活気だった。

 だからあたしは自然に、屋上を見上げた。

 あたしは笑うしかなかった。

 そこにはあたしがいた。

 タイミングが良すぎる。仮に今まで挑戦しようと考えていたとしても、その背中を押したのはどう考えてもあたしだった。あたしと会ったからに違いなかった。

 目が合った。

 その時、気がついた。何をしようとしているのか、あたしはわかってしまった。震えた。身体に震えが走った。それでも笑っていた。笑うしかなかった。

 結局あたしはあたしを殺し、自分の首を自分で絞めてしまった。そういうことだ。でもその時のあたしはそこまで気が回らなくて、ただ馬鹿みたいに笑っていた。

 歓声があがった。

 飛んだのだ。

 歓声がひときわ大きくなった。

 落ちたのだ。

 そして、腹の底に残る――嫌な音。鈍く、はじけてくだける、重い音。

 ギャラリーが、オーディエンスが、ロムが一気に増える。増えたロムの中に見知った顔があった。

 そこに橘修がいた。

 二年ぶりだった。

 あたしの背中には地図がある。彼の、最初の傷の記憶の地図だ。地図が背中に広がっているのだ。これはあたしが生まれ変わった記念だった。

 何も、彼は恐がっていなかった。初めて会った時/友人の付き添いで練習試合スパーリングを見学させてもらった時、初心者だったはずの彼は有段者の対戦相手に一歩も引かず前を見すえ拳を握って開始直後に左肩を破壊されて失神していた。すぐに目覚めた彼はまず、肩を、その破壊された構造上ありえない角度にまで曲がる肩を見すえて、苦痛に泣きながらもしっかりと見すえて何度も何度もうなずいていた、あたしにはそう見えた。

 圧倒された。

 彼は恐がっていなかった。

 思わず、あたしは声をかけた。

 そしてそれから、背中に地図が広がった。

 だから、とあたしは思った。だから闘おう、と思った。彼に教えてもらったから。闘うことを教えてもらったから。痛みが世界に色を与えて、刻まれた傷が記憶となることを、闘うということを、その意味を。

 あたしはもうすぐ死ぬ。

 だから、せめて生きていると思いたい。その思いを全身で感じたい。つまらないことで惑わされたくない。あたしを圧倒するような、強い相手と全身全霊で闘ってみたい。

 いや違う、そうじゃない。

 違うことをあたしは知っている。

 でも言わない。そんな情けないことを口にはできない。だからあたしはただ闘う、それを選ぶ。もうひとりのあたしは簡単に飛んだ。もしかすると――方法が違うだけでこれも結局スーサイドなのかも、と思わないでもないけれどそれでも、あたしは目の前の相手に自慢の蹴りを、拳を繰り出す。そうあたしは決めて、いまここにいるのだから。

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