6

 橘は循環する円を思い浮かべる。迷いを惑いを痛みを意識からふり払う。

 円、回転――橘は回る。相手に、意識を集中する。

 手刀――――まっすぐに伸ばした指先から肘まで、一本の線を、意識の線を通す。

 ふり抜く。すると斬れる。相手は片手で顔を押さえる。すると死角が一気に増える。

 橘は不用意な、と思う。ここは体育館。時間は夜だ。空気は熱い。気合い、うめき、人の動き、空気は熱をもって層を重ねる。

 回る。橘は体重を預けたまま左足を抜いて、回る。自然と腰が落ち、勢いは加速し、右足がしなって相手の足を払う。相手は転倒する、声をあげる、しりもちをつく。

 橘は力を込める。足に、両足に。

 自然と立ち上がる。構える、「きゅうえん」の型、追撃の型、拳を固める、右の拳だ。まっすぐに放つ。バンテージを巻いただけの拳はボクシンググローブと違ってガードを簡単に通り抜ける。拳が相手の顔に吸い寄せられる、肉薄する―――

「そこまで!」

 制止。

 気息を一気に吐いて拳に制動をかけ、身体を引いて、「えんしゅう」の型へ。残心を示し、再度呼気を整える。

「なんだシュウ、また腕あげたんか?」

 審判が肩を叩いた。審判は青砥治といった。オサム、と呼ばれている。橘と同い年で、段位は青砥の方が上だ。橘は残心を解いて言った。「いや相手が」ちらと肩を上下させている相手を見て低くつぶやいた。「……格下だから」

 ぐいと青砥が道着の襟を引き寄せ、下からにらみ上げた。橘の身長は一八○で、青砥は一六〇前半。二○センチ近い身長差は大きい。体格差は如実に、明確に試合結果に反映される。

「言葉ぁ、もうちょい気をつけろ」

 拳、鍛えられたごつごつとした拳。青砥は堅く握った右の拳を橘の左胸に当て、ねじる。橘のろっ骨がぎりりときしむ。表情を変えず橘は言った。

「わかった、気をつけるよ」

 ぱっと身を離して青砥は座り込んでいる相手に駆けよって助けおこし話しかけて、橘を振り返った。打って変わって視線がやわらかい。橘は気がつく。青砥は――いやオサムは、橘の言葉を待っている。何を訊くのかは決まっていた。橘は言った。

「どうしてわかった?」

 橘が、胸を庇っていることを。オサムの拳は正確に橘の左胸、浅黒く変色している打撃痕の上を突いてきた。その正確さに橘は驚いて呻くこともできなかったが、正直に言えば大声で叫んでその場にうずくまってしまいたかった。

 少し笑ってオサムは言った。

「『きゅうえん』は打撃の型、投げ技がウルトラすげぇシュウ先生が得意の『しゃしん』じゃなくてそっちを選んだってことは、なぁ」

 ひとつうなずいてオサムはこちらに歩いてくる。いや――間合いを詰めてくる、オサムの身体に一瞬で気力が満ちて小柄な身体が大きく見えて、咄嗟に橘が構えたのは「久の遠」だ。打撃の、アウトレンジで勝負する型。反射的に構えてオサムとの距離を測って、橘は気がつく。半身になったその姿勢。目前で気を吐いて急停止したオサムは、にやりと笑った。

「牽制で右の拳を突き出して、左の拳は胸の前。基本も基本、攻防一体の基本にいちばん忠実な型だ。攻める型じゃない。守らなきゃいけないものがある、そういうやつの型だ」

 さすがによく見ている。橘はうなずいた。

「ここを」道着の上から橘は左胸をそっと押さえる。「昨日殴られた」

「喧嘩か。珍しいな」

「いや、野試合だ」

「って昨日はサトミちゃんと飯食いに行ったんじゃねぇの?」

「ああ」

「……わかんねぇのな。で、負けたのか」

「いや――完敗だった」

 橘は思い出す。それは昨日だった。本気のスーサイドをロムった、その帰りだった。お決まりになってしまった言い争いを経て、橘は無言のままサトミを家まで送り(サトミは実家生だ)アパートに戻ろうとした、その時だった。

「女の子を泣かせるもんじゃないわ」

 公園を、橘は横切っていた。いつもの近道だ。時刻は九時を回っていた。ジャングルジムは赤錆びて砂場は猫のトイレで昼間でも子供の姿がない公園だ。住宅街の空白だ。隔絶された空間だ。ぽっかりと浮いてそこだけ地面が顔を覗かせている、緑が無作為に繁茂している。そしてその瞬間、そこは試合会場リングになった。戦場リングになった。この戦場で橘は大きく三つのミスを犯す。だから完敗だ、と橘は思う。本当なら全身移植だ、と橘は思う。

 すっとその声は耳に染み込んできた。その声は橘から見て五時の方向、右斜め後ろから聞こえた。

 ここでまず橘はミスを犯す。不用意に振り返ってしまう。

 左のハイキックが迫っていた。咄嗟に橘は腕で耳を守る。衝撃は、貫通した。

 右目の奥で光が弾けて視界がゆらぐ。口の中が切れたのがわかった。牽制で右手を大きく振り回す。時間を稼ぐ。体勢を立て直す。血の味のする唾液を飲み込む。気息を整える。

 正面。黒のパーカー、黒のジャージ。フードを目深にかぶっている。さっき聞いた声から女と判断。橘の緊張が弛緩する。

 これがふたつ目のミス。

 女は笑っていた。フードの下で女は笑っていた。口の端をつり上げ八重歯を剥き出しにして、狗のように笑っていた。

「あたしの名前はササキ・アカネ。覚えてるよね?」

 女の言葉につられて橘は記憶を探る。意識的に思考する。おれは目の前の女を知っているのか――わからない、記憶にない、はずだ――

 目前に拳が迫っていた。

 そうだ、まだ勝負は始まってもいなかったのだ。無意識に弛緩させてしまった緊張感。取り戻すその刹那、橘の反応は当然遅い。目と連結した意識だけが急速に状況を把握する。それに身体がついてこない。純粋に重い。過剰なウェイトを巻いたような遅滞感、滞る動き、せめて首だけでも――

 耳の横を拳が通り抜けていく。熱い、耳が熱い、と橘は思った、と同時に橘は左腕でその拳を絡めとる。細くしなやかで筋肉の締まっている鋼索ワイヤーのような腕、橘はそれを絡めとる。

 一八〇度ワンエイティ、身体を捻る。女の体重と慣性を受けて橘の身体がしなる。関節をめた状態でそのまま投げの体勢へ――野試合で救急車を呼んだ場合、破門となる。移植を前提とした攻撃が行えない。相手の身体を破壊できない。破壊できる技が使えない。

 橘は、躊躇した。

 これがみっつ目のミス。

 その躊躇を女/アカネは見逃さなかった。アカネは関節が壊れるぎりぎりまで自分で腕を捻った。自分で自分の腕を 破壊しようとした。

 橘は力を緩めた、緩めるしかなかった。

 するりとアカネは抜け出した。

 一拍遅れて、橘の腹部に衝撃が弾けた。身体がしびれた、動けない、と橘は思う。蹴りか、と橘は思った。蹴られた――それでも橘はたたらを踏む。倒れまいとする。

 身体が浮いた。足を払われた、と橘は思った。浮遊感、だ。少し経てば尻が地面にキスをする。

 橘は思う。自分ならこうして決着する、そのイメージが瞬間浮かんで、結果そうなった。足を払われて転倒して、正拳が、橘の胸にめり込んだ。呼吸が思うようにできないのに目の奥では、土の匂いが弾けた。見えるほど濃密な土の匂いが勝負の結果を、橘の網膜に焼き付けた。以降、橘は土の匂いを嗅ぐたびに鮮明に思い出す。勝負の結果を、みっつのミスを、完敗の記憶を。

 オサムはうなずき、言った。

「女に泣かされちまったわけか」

 体育館の隅で橘とオサムは胡坐をかいて座っている。練習はまだ続いている。オサムはいきなり鬼の顔で、「おらぁそこ! ちんたらやってんじゃねぇぞ!」怒鳴った。人が転倒するたびに床が振動する。壁に背を当てているとよくわかった。体育館が振動して衝撃を吸収、分散している。

「お前でも泣かされてるよ」

 一拍おいて橘は言い返した。オサムは橘の顔を覗き見て、にやりと笑った。

「いや、俺ならふたつ目から犯さんな、そのミスってやつ」

「どうだか」

「いやマジだって。シュウ先生、たまにあるよなそういう先入観。体格を信じすぎなんだって。身長タッパは天賦だけどもよ、技術テクニックは練習量よ、努力次第で楽勝凌駕よ、女が男に勝つのも道理よ」

「耳タコだよ」

「だっけか?」

「ああ」

 橘は立ち上がった。汚れてもいないのに道着の尻を払ってスパーリングの相手を探して――目星をつけて歩き出す。

「お、おい待てよ、今ので終わりか? その後どうなったんだよ、お持ち帰りか?」

「どうしてそうなるんだ?」

「真顔でつっこむなよ、ったく。ササキ・アカネ、マジで知らんのか?」

「ああ」

 橘はうなずいた。

 オサムは額に手を当てて、唸った。「本気で知らんのか?」

「知ってるのか?」

「あー、まぁな。って目の色変わりすぎですよシュウ先生。リベンジするかぁ?」

 リベンジ、と橘は思った。するのか、と。次は勝てるのか、と。橘は右手で触っている。胸の痣/打撃痕/血の溜まりを触っている。押さえる。弾力を感じる瞬間、鈍い痛みが走る。

 橘は震えた。記憶、これは刻まれた記憶だ。また刻まれた。「こんにちわ、よろしくね」と刻まれたのだ。「橘修はこんなもんなの?」違う、と橘は言えない。倒れたのは、負けたのは橘だ。記憶が証明する、刻まれた傷が。「違うよね、あなたはこんなもんじゃないよね」そうだ、と橘は言えない。しりもちをついて、無様に空気を求めてもがいているだけだ。土の匂いが昨日の夜を再生している。「同位体クローン、殺したら逃げ場なくなって逆に、目の前が広がるよ。あたし待ってるから」滲んだ視界の中で女/黒頭巾/アカネはそう言って狗のように笑っていた。笑っていたのだ。そして橘は土の匂いに溺れていた。

 橘は拳を握った。

師範代オサム

「あ?」

「稽古つけてくれ」

 きゅ、と体育館の床が鳴った。

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