第五話 雨が降っても君が死んでも、僕らは何も変わらないでいよう

 よく晴れた日だった。五月最後の日曜日、僕はいつものようにあさぎと公園に訪れた。高校二年生になってクラスが離れた僕たちは、ほとんどの週末を二人で過ごしていた。十一時ごろに集合して、公園やバスの停留所にあるベンチなんかで、日が暮れるまで。ただ、とりとめもない話をする。


 太陽が西の空に傾き始めた午後四時過ぎ。僕らの議題は「休日の雨について」だった。すぐ近くの砂場では、四歳前後の男の子が二人で砂山のどこにトンネルを掘るかを真剣に話し合っている。赤いスコップを持った少年が「もう一つ山を作ってから、それらを繋げるためのトンネルを掘るべきだ」と主張して、青いスコップの少年が「そんなことしてたら日が暮れちゃうよ」と空を指さした。彼らの論戦も、なかなか興味深いものだったけれど、僕は砂場から視線をそらして、あさぎと目を合わせる。


「結論は出た?」


 真っすぐに僕を見つめ返す彼女は、力なく首を振って「いいえ」と小さな声で答える。動作だけで十分に伝わるときも、彼女は言葉を添えることを好む。どんな問題も話し合いで解決できる。彼女は、世界がそんな風に優しいものだと信じている。


「私は、やっぱり休日の雨を嫌いになれない。でも、好きでもない」


 あさぎは僕から視線をそらして、空を見上げた。僕も同じように上を向く。五月の空は雨雲がひとつ通り過ぎるたび、夏の色に近づいていく。記憶の中の夏の空というのは、現実味がないくらい青くて眩しい。僕は、それが本物の空なのか、過去の脚色なのか判断できずに、あさぎに視線を戻した。空を見上げたままで、あさぎは言葉を続ける。


「たぶん、私は雨が好きなんだと思う」


 彼女は僕と目を合わせた。


「傘と雨粒があたる音とか、雨の日の空気の匂いとか、内緒話がしやすいところとか。そういう雨の日にしかないものが、好きなんだと思う」


「うん」


「でもね」


「うん」


「休日の雨は、そんなに好きになれないの」


 僕は空に視線を向けて、あさぎに言葉を返す。綿菓子を引きちぎって空に並べたみたいな、薄くて軽そうな雲が、いくつも浮かんでいた。


「それは、どうして?」


「るりに会えないから」


 僕はあさぎに視線を戻す。彼女の頬がほんの少しだけ紅く染まっている。まつげが動いて、瞳が一瞬見えなくなって。少し遅れて、彼女が瞬きをしたのだ、と気が付く。あさぎが、僕から視線を逸らした。結局、青いスコップの少年が勝利したらしく、砂場にはトンネルを掘られたひとつの山が残されている。


 自然と笑い声が溢れて、いつもより少しだけ歪な笑顔を浮かべた僕は、膝の上で頬杖をついて、あさぎと目を合わせた。


「じゃあ、今度は雨の日に公園に来よう。傘を差して、スニーカーも靴下もびしょびしょにして」


 あさぎの口角が少しだけ持ち上がる。


「そうして、いつもみたいに日が暮れるまで話をしよう」


 僕は愉快な気持ちで言葉を続ける。


「雨が降ったくらいじゃ、僕らは何も変わらないよ」


 小指をあさぎの方に差し出しながら、僕はさらに続けた。


「変わらないでいよう、あさぎ」


 あさぎは小さく笑い声をあげて、僕の小指に小指で触れる。僕よりも温かく感じる彼女の小指を絡めると、あさぎが口を開く。


「約束です」


 少しだけ、照れくさそうにあさぎが笑う。


「うん。約束だ」


「さあ、そろそろ帰ろうか」


「そうだね」


 二時間ほど缶けりをしていた小学生の集団も、ブランコをこいでいた少女たちも、いつの間にか公園からは姿を消していた。僕とあさぎは公園を出て、踏み出すたびに小指がふれるくらいの近さで歩く。屋根が青い家で右に曲がって、赤信号で立ち止まる。つい最近塗りなおされたのか、真っ白で綺麗な横断歩道の手前で、僕はあさぎの指先に視線を向けた。


 握ったら、怒るだろうか。

 怒らないけど、びっくりはするかな。


 僕の考えを叱るように、ひときわ強い風が吹く。僕は思わず目を細める。長い黒髪が風に揺れて、白いワンピースが、横断歩道に向かって動く。大きく目を見開いた僕の視界の真ん中で。伸ばした手が届かないほど遠い場所で。



 水仙あさぎは、車に轢かれた。




 あさぎの隣にいた男の子が、被っていた帽子を風に飛ばされたのだ。それを取ろうとして、赤信号の交差点に進入し、車に轢かれた。そう説明してくれたのは、男の子の母親だっただろうか。ぼんやりとした意識の奥で、涙声で謝る女の人の声を覚えている、ような気がする。


 真っ赤に染まったワンピース。

 道路に散らばる黒い髪。

 白くて細い指先が握りしめた麦わら帽子。


 僕が思い出せるのは、それだけ。お葬式のことも、あの日どうやって家に帰ったのかも、僕は覚えていない。


 ぼんやりした意識のまま、僕は図書室に向かっていた。図書室に行けば、いつもと同じように、あさぎがいる気がしたのだ。引き戸を開けて、僕は図書室の中に足を踏み入れる。そこには、佐久間先生しか居なくて。


「先生、どうしたらあさぎに会えますか?」


 佐久間先生は、入り口で座り込んだ僕を咎めることもなく、視線を合わせて、僕の頭を撫でた。


「本当に会いたいと望むなら、魔法の杖を持っておいで」


 魔法なんて馬鹿げている。そう思いながらも僕はうなずいて、次の日、公園で拾った木の棒を佐久間先生に差し出した。いつも通りの笑顔を浮かべた先生は、木の棒を受け取って、僕に椅子に座るように促す。


「さあ、目を閉じて」


 僕は言われたとおりに、目を閉じる。先生が、木の棒で僕の頭を軽く叩く。柔らかくて温かい何かに体が沈んで、セミの声が聞こえた。


 目を開くと、そこには、水仙あさぎがいた。


 ノースリーブのワンピースに身を包んで。青いミュールを履いて。変わらない笑顔を浮かべて、変わらない声で僕の名前を呼んでいた。

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