第1話 昏き森に眠る呪い 二

 「あんのくそ爺……!」


 レオノーラは、癇癪かんしゃくを起した子どものように歯噛みしながら地面を踏み鳴らした。

 自分の浅はかさに腹が立ってくる。警戒を怠っていたつもりはなかったけれど、心のどこかに甘い考えがあったのは事実だ。それがこの結果に繋がってしまったのだから。

 過酷な旅になる、と覚悟していたのを忘れたわけではない。人間のダメなところが出た。物事がうまいこと回り出すと、つい気が緩んでしまう。


 レオノーラは、両手で頬をピシャリと打った。気を引き締めろ。


 一分一秒だって惜しい。己の身の内に燃え盛る怒りが、原動力に変わる。早くここを出よう。

 レオノーラは周囲を見渡して、出口に通じる道がないかと模索した。

 この先に何があるかわからない。注意力は感情の先頭に置いておく。


「最悪だ……」


 吐いた悪態は、静寂の中へと霧散した。気だるげに歩を進めて、どこかにあるはずの町の雑踏に耳を澄ませる。


 そうして、どれほどの時間が経ったのだろう。胸の中に生じた違和感は、一向に晴れる気配はなく、むしろ頭上に広がる曇天と同じく、重く暗雲を立ち込めるばかりであった。


 どんどん奥深くに迷い込んでいる気がする。どれだけ歩いても、景色に如何いっかな変化はなく、それどころか視界に映る樹木の本数は、増加の一途を辿っているではないか。


 レオノーラは舌打ちをしながら立ち止まり、


「聞こえているか、ご老体! 私をこんなところに閉じ込めてどうするつもりだ!」


 と、果敢な軍神のような堂々たる声で叫んだ。


 しかし、彼女のその声に反応したのは、あの老人ではなかった。

 上空で、何か大きなものが飛行する気配がした。天を仰ぐと、そこには双翼を広げた巨鳥が悠々と旋回していた。


「私を狙っているのか」


 レオノーラは、頭を擡げた警戒心に従い、腰に下げた剣を抜き放った。この世の音を全て呑み込んでしまいそうな静寂の中で、刃が鞘の内側を擦る音が鋭く反響する。それが合図だったようだ。巨鳥は物凄い速さでレオノーラ目がけて急降下を始めた。


 腰を低く落とす。構えは正眼。ぎらぎらと光り輝く巨鳥の双眸が、彼女と言う獲物に鋭い鉤爪の先を定めた。まだだ、まだ。恐怖に煽られて、やたらと剣を振り回すことはしない。この剣の射程範囲内に引き寄せるのだ。まだ……まだ――。


 今だ!


 眼前にまで迫ってきた巨鳥の腹を思いきり凪いだ。やった、という自信に反して、手応えというものが全く無かった。避けられた。物理法則を無視した動きで、彼女の剣の軌道からその身を躱したのである。


「ああっ」


 大きな双翼によって生み出される強風に、レオノーラは軽く後退った。

 巨鳥は再び大空へと急上昇した。緑に縁取られた暗い空の真ん中で巨鳥は方向を転換し、彼女の視界から姿を消す。


「畜生、どこへ行った」


 巨鳥が再び姿を現すのを待って、レオノーラは暫しその場に留まっていた。

 けれど、いくら待てども、奴は姿を現さない。しびれを切らしたレオノーラは、剣を握ったまま、本来の目的である出口を探して走り出す。おかしな気配がしたらすぐそちらに向けるように腰は低く落としたままだ。


 いよいよきな臭くなってきた。目視できない巨大な手の中に閉じ込められるような感覚。森の中を走っているはずなのに、謎の息苦しさや圧迫感が拭えなかった。


「うわっ」


 その時、レオノーラは何かに躓いて、思いきり前につんのめった。危うく顔面から地面に突っ込みそうになったが、なんとか受け身をとることに成功する。


 こんなところに何が転がっていやがる、と舌打ち交じりにため息をつくと、ぬるりと暖かいものが足首に絡みついてきた。体温を思わせる絶妙な暖かさと、水気を含んだ柔らかさに、たちまち全身が粟立つや、喉から「あっ」と声が漏れた。


 見てみると、踝の辺りに、チューブから出したばかりの青い絵具のような色をした太い触手が、幾重にも絡みついていたのだ。


「うわああああ!」


 不快感が悲鳴となって喉を突き上げる。剣を振り上げて、ハカマの裾に入り込んだ触手を思いきり断ち切ると、さほど遠くない位置から、激しい唸り声が聞こえてきた。


 先端を切断された触手は、グロテスクな断面を晒しながら、傍の茂みに引っ込んでゆく。この場に残された先端部分は、痛みに悶えるかのように、うねうねとのたうち回っている。滴る血が、人間と同じで赤いのも気味が悪い。


 レオノーラは、触手が引っ込んでいった茂みの方へそろりと近付いた。がさっと葉が擦れて、下の方で何かが顔を覗かせる。


「わ、わにだと……?」


 どうしてこんなところに、と訝しむ間もなかった。鰐はこれでもかと上あごを持ち上げて、整然と並んだ剣山のような歯を見せびらかす。硬い骨をも断つ強靭な顎は、人間の女など簡単に食い殺せるだろう。


 咄嗟に動けないでいるレオノーラを嘲笑うかのように、鰐の背中から先程の触手が現れる。先端はない。彼女の背後で今なお、陸に上がった小魚のように飛び跳ねている。


 そうこうしている間に、おもむろに口を閉じた鰐は、のしのしと前進を試みた。

 レオノーラは間髪入れずに踵を返して駆け出す。逃げ出したわけではない。触手を出させるためだ。たった一振りの剣で固い鰐革を相手にするより、柔らかな触手を断ち切る方が容易い。触手あれに足をとられる心配をしながら、本体である凶暴な肉食獣と相対するのは遠慮したかった。

 最も、触手をどうにかしただけで、あの強靭な鰐があっさりやられてくれるとは思っていないが。


 後ろを振り返ってみると、鰐はちゃんと後を追いかけてきていた。一定の距離を保たれている。遊ばれているらしいことは、なんとなくわかった。

 でこぼこした背中に空いた丸穴から、触手がにょろにょろと顔を出したり引っ込めたりしている。穴は全部で六つ。今は二本しか出していないが、本気を出すと全ての穴からあの気味の悪いぬめぬめを出すのだと思うと、胸が悪くなる。


 はやくその触手を伸ばしてこい。引っ張り出して根元からぶった切ってやる。


 息まくレオノーラの心でも読めているのだろうか。鰐はいっかな触手を伸ばしてくる気配がなかった。このまま体力勝負に持ち込まれるのは、あまり好ましくはない。鰐を仕留めたとしても、彼女はまだ、この森から抜け出すための体力は温存させておきたかった。


「ちっ、しつこいな……」


 苛立たし気に舌打ちが漏れた、その時である。


『ぎゃあああああぐうううううう!』


 この世のものとは思えない絶叫が激しく鼓膜を打つや否や、レオノーラの身体は勢いよく地面に引き倒された。何か、人のようなものが突進してきたと思った瞬間には、全身でもがいてマウントを取ることに成功する。


 女だった。ぼさぼさの金髪を狂ったように振り乱し、顔の半分の皮膚が剥がれ落ちた全裸の女。骸骨のように痩せた身体は、鎖骨の下からちょうど鳩尾のあたりが刃物で切り裂かれたかのように、縦に真っ直ぐ深い傷がある。そこから、ちら、と中が見えた。白い肋骨があるばかりで、あとはがらんどうだ。肺も心臓もない。

 耳まで裂けたガサガサの唇の中には、二股に裂けた舌と、所々抜けて穴が開いた歯茎。黄ばんだ歯は肉食獣のそれのように尖っている。


「邪魔をするな!」


 レオノーラは女の首に剣を突き刺した。


『ぐえええええええええああああああ!』


 脳を揺らす慟哭どうこく。辺りの空気が激しく振動し、軽い眩暈めまいを誘発した。


「うう……!」


 鼓膜が破れそうなほどの声量に、レオノーラは思わず女から退く。それでも何とか立ち上がって、剣を構えることは忘れなかった。

 一撃で仕留めるつもりだった。刺した剣を真横にスライドさせて、首を落とそうとしたのだが、世界を揺るがすほどの耳障りな悲鳴を真正面から受け止めてしまったが故に、それが叶うことはなかった。


 喉元を押さえた化け物が、ふらふらと後退りながら、レオノーラを睨みつける。

 攻撃してくる気配はなかった。こちらは悠長にしている暇などない、とばかりに、レオノーラは剣を閃かせる。


「はあっ!」


 裂けた胸元へ、真横に剣を薙ぐ。


 切っ先が化け物の胸に新しい傷を刻み込んだ。肉のない、骨と皮ばかりの胴に十字の傷が出来る。新たな傷の方から血が流れた。真っ赤な血。肋骨がより鮮明に露出する。元々あった傷よりも深く切れたらしく、骨にまとわりついた白い皮膚がべろんとめくれて、だらしなく垂れ下がる。女の手は胸元の皮膚を掬いあげるように動く。


『あああ、うう……』


 弱っている。確実に仕留めるなら今だ!

 レオノーラは女の首を狙って剣を構えた。


 かつて、師に説かれた教えに従い、レオノーラは魔物を相手にするときは一撃で首を刎ね、その脅威を殲滅してきた。一度めは失敗したが、今度こそは――!


「はっ!」


 銀色の一閃が、薄闇の中で煌めいた。

 ぱきゃ、と普段は耳にしないような湿った音が反響し、唸り声は唐突に止む。


 女は、目まぐるしく揺れる視界の中に、首のない、十字傷のついた己の胴体を見た。

 渇いた地面を生首が転がる鈍い音が響く。汚らしく絡まった金の髪が、死した女の表情を完全に覆い隠した。


 迸る血潮の中、一息つく間もなく、レオノーラは背後に迫る新たな気配に気が付ていた。

 振り返る。即座に剣を構えなおす。

 

『あああああああ……』


 生きた屍のような足取りで、皮膚のない人間が三人ばかり歩いてくる。

 剥き出しになった筋肉組織と、滴る血の色が混じったその外見に、思わず背中が寒くなる。


 今、あの奇妙な造形の鰐は、恐ろしいことにどこかに姿を晦ませている。不意打ちで背後から襲いかかられるのだけは勘弁被りたいところだったが、今は目の前の敵に集中することを余儀なくされた。


「まとめて切り伏せてやる」


 レオノーラは不気味な見た目に惑わされぬよう、腹の底にぐっと力を入れ、瞬く間に亡者たちを切り伏せていった。見た目がグロテスクなだけで、戦闘能力はさして高くはないらしい。自らに振り下ろされる剣の一閃を目視したまま、亡者たちは彼女に危害を加えることなく、正しき死の世界へと還っていった。


 だが、安心する間も与えられず、すぐに仲間が集まってきた。

 見えているのかわからない細い目をこちらに向けて、真っ赤な人間はレオノーラを追いかける。


 斬る。

 現れる。

 斬る。

 現れる。


 段々と数が多くなってきた。

 弱いが、こうも群がられては分が悪い。


「邪魔だ!」


 レオノーラは剣を大きく薙ぎ、己を取り囲むように迫って来ていた四体をいっぺんに斬った。

 その刹那である。


「うっ……わ!」


 不意に身体が浮いた。ジャケットの背中が引っ張られるような感覚と、だんだんと遠退く地上。取り残された赤い人間たちが、レオノーラという獲物を失って、右往左往する様がよく観察できた。


「な、ん……」


 振り返って、言葉を失う。そこには、いくつもの目があった。先ほどの巨鳥とは違う。無数の目と、四本の腕を持った不気味な怪鳥。ぎょろぎょろと定まらなかった視線が、次の瞬間、一斉にレオノーラを見下ろす。


「は、放せ!」


 肩甲骨の柔らかさには自信があった。背中に向かって勢いよく剣を振り上げる。剣先は、怪鳥の足を切り離した。


 巨鳥はビリビリと響くような雄叫びを響かせ、空中でのたうち回った。レオノーラは、ジャケットの背中に血まみれの怪鳥の足を食い込ませたまま、地上へ向かって真っ逆さまに落ちていった。


 さほど高くない位置から落下したレオノーラは、上空から多眼の怪鳥が、地上では今までどこに隠れていたのか、触手を持った鰐が悪夢のように追いかけてくるの目にし、一目散に逃走した。

 右手に下げた剣からは、今まで切り伏せてきた魔族たちの血が滴っている。


「クソ、しつこいな……」


 レオノーラは策を巡らせながら、肩越しに背後を振り返った。

 そして時は、冒頭へと繋がる。

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