第1話 昏き森に眠る呪い 三


 怪鳥たちから逃げ切ってから、どれほど歩いただろう。

 周囲の景色は明るくなるどころか、益々暗黒の世界へと変貌を遂げているように思う。


 今朝の晴天の姿はどこへやら。頭上には、今にも激しいスコールが降り注いできそうな鈍色の空がある。

 ……今見上げている空は、そもそも人間の世のものなのであろうか。もしやここは魔界で、見上げた先にあるあの禍々しき曇天は、魔物たちの世を睥睨へいげいする天にたなびく袖の一端なのではなかろうか。と、そこまで考えて、初歩的な矛盾に思い当たる。大地の遥か底にあるとされる魔界に《空》は存在するのだろうか。


 そんなことを考えながら、ようやく呼吸が整ってきた頃、レオノーラの前に再び分かれ道が現れた。

 山勘で右を選んで進んだ。何か目新しい変化があることを期待していると、視線の先に、大きな人影が視えてくる。


 微かに葉音を立てながら、レオノーラは木陰に身を隠した。ちら、と覗いた先にある人影はぴくりとも動かない。何やら妙なポーズをとったまま固まっている。

 他に誰かいるのかと周囲を観察してみるが、特に目につく姿はなく、話し声等も聞こえなかった。


 近付いてみるべきか? と己に自問する。だがこれ以上、災難が降り注ぐのは勘弁被りたい。暫しの間、見つかるのを警戒してその場に身を潜めていたが、人影は妙な格好を貫いたまま、一ミリたりとも動かない。

 おかしいな、と思い、恐る恐る足音を殺して近付いてみると、それは生きた人ではなく、男の姿を象った白い彫像であることが分かった。


 安堵してその彫像の前に出ていくと、突然、ざああ、と木の葉を揺らす風が吹き込んできた。それは、開けた場所の中央に立ち尽くしていた。先に道はなく、行き止まりになっている。


 どうしてこんなところに像が立っているんだろう。

 レオノーラは近付いて、彫像の顔をじっくりと観察した。傍に来てみると、かなり大きい。彼女も、十六歳という歳のわりに、周りの同年代の子たちと比べて身長は抜きんでていたが、目の前に佇む彫像の青年は、そんなレオノーラがわずかに首を上へ向けないと視線がぶつからない程だった。


 彼の表情は、激しい感情に飲み込まれていた。怒りに見開かれた双眸。何かを叫んでいるのだろう、大きく開いた口からは、今にも怒号が飛んできそうな迫力がある。

 激情に逆立った髪は、燃え滾る炎のように天へ向かって立ち上がっていた。

 男らしく骨張った手が何かを掴もうとするかのように伸び、持て余し気味な長い脚は、正面に向かって一直線に走ってゆくフォームで固まっている。


 頑丈な獣のような男だ。雄々しく、凛々しく、荒くれた顔立ちと共に、どこか洗練された気品がある。顔の造形だけでなく、細部まで拘って彫り込まれた服の装飾は、なかなかに見事な出来であった。


 ――美しい男だ。


 レオノーラは、無意識のうちに男の頬へ手を伸ばしていた。汗ばんだ指先が、冷たい頬に触れる。固い。当たり前だ、彫像なのだから。

 心地いい程に滑らかな肌を、スルリ、と猫の額でも撫でるみたいに触る。細い顎。くっきりと陰影の付いた美しい横顔。ゆるくカールした前髪のおくれ毛が、眉間の辺りに落ちている。


 レオノーラは、身の内が熱くなるような妙な感覚に襲われた。この時ばかりは、怒りも苦しみも忘れて、目の前の荒々しい軍神を思わせる美貌の彫像に心を奪われつつあったのだ。


 ああ、目も覚めぬ、物言わぬ彫像が相手なら、もう少しその美貌に触れていてもいいだろうか。彼女の指先が彼の耳の方まで滑り、掌がそっと頬を包み込んだ。……その時である。


「え?」


 固い頬の表面に、ピシッと亀裂が走った。目の錯覚かと思ったが、一瞬にして刻まれた一筋の裂け目は、白い頬に稲妻のような隙間を作り、瞬く間に顔全体へと広がるや否や、天に向かって揺らめく髪を這い上がり、がっしりとした首筋を下り、筋肉質な腹部から下半身へと、全身に広がった。


 レオノーラはぎょっとして手を引っ込めた。何かまずいことをしでかしたのでは、と思い当たるより早く、彫像の顔から石が剥がれ落ちる。――どういうことだ。そこにはあるはずのない、浅黒く日に焼けた肌があった。


「な、なんだ!」


 彼女は目を瞠った。

 彫像の全身が小さく震えている。パキ、パキ、と微かな音を立てて、肌や衣服から石が剥がれてゆくのだ。所々に瑞々しい人間の肌を、所々に彫像の白い石を張り付けた奇妙な姿は、それ自体が一種の芸術作品のような雰囲気を醸し出している。


「うう、うう……」


 が呻いた。膝の横に垂れていた右手が、ぐぐぐ、と持ち上がり、傍にいたレオノーラの手首を掴む。彼女は振り払うことも出来ず、ただ小さく息を呑んだ。


 やがて石の中から、憤怒に彩られた左目が露出した。激情の炎を湛え、レオノーラを射貫くように見つめる。

 その瞬間、彼の全身から無数の石片が飛び散った。レオノーラは反射的に目を閉じ、顔を反らした。


 掴まれていた手が解放される。ゆっくりと目を開けてみると、目の前には、足元に白い石の破片を散乱させ、両腕をこれでもかと伸ばして、全身の関節をパキパキと鳴らす青年の姿があった。「んにゃあ~」と、寝起きの猫が鳴くみたいなくぐもった声が漏れる。


「ふう、なんだか全身が痛いな。衣装ケースの中で丸まって寝たあの朝を思い出す」


 青年は大きな独り言を言って、首を右左に傾けた。そこまで大きな動きをしているわけではないのに、彼がやると些細な動きも大きく見えてくるのは、やはりその恵まれた体格ゆえだろう。しなやかな筋肉が付いた腕に、金のブレスが光る。軽く日に焼けた肌によく似合ってた。


「ん、誰だ、あんた」


 不意に視線がぶつかるなり、彼はつっけんどんに言った。

 ただただ呆気にとられ、眼前の出来事を眺めるばかりだったレオノーラは、瞬きすらも忘れた様子で「レオノーラ……」とだけ名乗る。


 この状況が現実であるか否かをこの場で判断するのは難しいことだった。いくらこの世界には、魔法を巧みに操る魔族という種族が存在しているといっても、目の前で彫像の中から人間が出てくるところを目の当たりにした経験は、未だかつて一度もなかったのだから。


「レオノーラ? 耳慣れぬ名だ」彼はそう呟くと、思い出したように周囲に目を向けた。「俺は一体、こんなところで何をしている。どこだここは」


 記憶が混濁しているようだ。レオノーラは助け舟を出す。


「お前はここで彫像になってたんだ。私が見つけた。頬に触れたら、急に石が剥がれ落ちて、中からお前が出てきた」


「彫像」青年はぽつりと呟き、そして、「そうだ、そうだ、そうだった」と、荒々しくも品のある顔に、再び憤怒の表情を蘇らせた。彫像の時とは比べ物にならぬ、さらに激しい形相だ。否、憤怒だけではない、そこにあるのは、噎せ返るほどの憎悪。それから……殺意。


「思い出した、思い出したぞ。あの糞ババア! 絶対ぜってえ許さねえ!」


 青年は口から火を吐く勢いで咆哮ほうこうすると、レオノーラがやってきた道をずんずんと歩き始めた。

 何に対してそこまで腹を立てているのかはわからないが、彼がこんなところで孤独を過ごしてきたことと関係があるのだろう。――と、大きな背中を見送りかけて、思い出す。この森に吹き溜まる、狡猾な低級魔族の存在を。


「あ、ちょっと待て、この森は――」


 危険を知らせるべく青年の後をついていこうとした、その時である。


『ぎゃあああああおおおおおおん!』

『いあああああああああ!』


 脳を揺さぶる絶叫が森の奥から聞こえると同時に、頭上を双翼が羽ばたく。

 空を通過したのはさっきの怪鳥だ。視線の先では木々の間から真っ赤な筋肉組織がちらちらと見え隠れしている。時折見える青い触手も、嫌というほど記憶に新しい。

 見つかってしまった。あんなに大勢仲間を引き連れてやって来られたのでは、いよいよ分が悪いでは済まなくなる。


「まずい」


 レオノーラが焦燥感にかられて呟くと、「なんだ、追われてんのか」と彼が振り向く。


「ああ。しつこく付き纏われてうんざりしていた」

「ふうん。じゃ、あんたはひとまず下がってろ」

 彼は、楽しそうに目を細めて言った。

「どうするのだ」


 青年は返事の代わりに大きな口を三日月型に裂くと、迫りくる怪鳥に正面から突っ込んでいった。

 物凄い速さで前進すると、人間離れした跳躍力で大地を蹴り上げる。彼女が切り落とさなかった方の足を掴んで、羽の生えた背中まであっという間によじ登るさまは、いやに動物めいていた。

 たかが小娘一人と高を括っていたのだろう。予想だにしていなかった新たな獲物の登場に、多眼が動揺したように激しくぎょろついた。青年はそんな反応を楽しむかのように笑みを深めると、その不気味な頭部に筋肉質な腕を巻き付け、思いきり喉を締め上げた。


 急所を捉えられた怪鳥が滅多矢鱈に空中を暴れまわるも、青年は物ともしない。それどころか、より一層きつく巻き付いて、「ハハハ、大人しくしろよ」と、まるで、木に生った果物を捥ぐような感じで、腕力だけで首をねじ切って落とした。

 一瞬の出来事だった。首が地面に転がるのと同時に、渇いた大地にびたびたと血の雨が降る。

 首を落とされた怪鳥は抵抗する力を失い、背中に青年を乗せたまま地上に落下した。


 全身を打ち付ける前に体勢を立て直した青年は、今度は青い触手を操る鰐に向かって走る。ズルルルル、と伸びてきた六本の触手が、怪鳥を屠った両腕に巻き付く。動きを封じられたと思った直後、青年は躊躇なく気味の悪い触手に噛みついた。鮫のそれを彷彿とさせる鋭利な牙が、青いぬめりを食い千切ると、触手はびっくりしたように跳ね上がり、堪ったものじゃないとばかりに彼を開放する。


「うえっ、不味まじい」


 不快だったのか、赤く汚れた口元が不機嫌そうに歪む。

 鰐はのたうち回った。噛み切られた六本の触手も「痛い、痛い」と言いたげに空に身を躍らせる。


「ッハハ! 俺は何年も眠っていたんだ。久々に暴れると、歯止めが利かなくてなぁ!」


 青年は臆することなく鰐に近付くなり、上下に開閉する大きな上顎にするりと両手をかけた。


「おら、てめぇ、どこまで口開くんだよ」


 青年は鰐の口を無理矢理開かせると、下顎に片足をかけ、上顎を鰐の背中側へ、ぐいぐいと力任せに倒してゆく。鰐は暴れまわった。先端を失った触手が背中の穴から出てきてぐねぐねと暴れる度、周囲に血が飛び散った。


「ほら、もっとだ。この俺を丸呑みできるくらい開くんだよ」


 その刹那、レオノーラは思わず目を背けた。物がひしゃげるような……否、形容しがたい、残酷な音が響き渡る。辺りはたちまち静寂に包まれた。


「来な、雑魚共」


 青年は右腕を伸ばして、手のひらを、迫りくる赤い人間たちに向けた。


「ん?」と怪訝そうな声が漏れ、すぐに舌打ちが続く。「そうだった、使んだったな」


 苛立たし気にそう呟くなり、彼は風のようなスピードで駆けだした。それからはまるで、時空がひずんだ瞬間に起こった出来事のようだった。一瞬のようにも感じ、その一瞬が永遠を思わせるほどの長い時間のようにも感じた。


 殺戮。

 レオノーラの目の前の光景を現すに相応しき言葉はこれであろう。

 木々の間を豪奢な獣が疾風の如く駆け抜けると、赤人間の首が刎ね、四肢が舞い、上半身と下半身が生き別れになる。彼の手が、赤人間を屠るたびに森の緑は鮮烈な赤に塗り替えられてゆく。


 レオノーラは、言い知れぬ感情に支配された。恐怖……と、もう一つ、名状しがたい何か。彼女はこの感情の意味と理由を自分のことながらに解決することが出来ず、やきもきした。


 永遠のような刹那が、血の海に沈んでいく。

 ひょおお、と鋭く風が鳴った。気が付けば、一方的な殺戮は収束していた。


「ハハハ、他愛ない」


 青年は、顔に付いた返り血をシャツの裾で拭いながら彼女を振り返る。なんとも退屈そうな顔だ。


「お、なんだよ、その顔。驚いてんのか。俺があまりに強いから」

 悪戯っ子のように言う。


 レオノーラはそっと視線を落とし、鰐の死骸を見た。口が裂けている。千切れた触手たちももうぴくりとも動かない。


 転がった怪鳥の首と胴体。無数の目は、閉じているのもあれば、虚空を見つめたままの物もある。


 そして、赤人間の死体が沈む血の海。まさに地獄絵図。残酷な景色だ。ここに描写するのも憚られるほどに。


 この残虐性を秘めた強さは人間のものではない。レオノーラは、す、と視線を持ち上げて、彼のに目を向けた。


「お前、魔族か」


 レオノーラは、彼の赤い髪の中の尖った耳を確認するなり、剣の柄に手を伸ばす。青年は彼女の警戒心の現れを如実に物語る瞬間を目にしたが、別段慌てる風でもない。長い腕を胸の前で組んで、どうだ、と言わんばかり顎を反らすと、


「如何にも。俺は、魔界の王、ブラッド侯爵の一番目の息子だ」


 その瞬間、レオノーラは物凄い速さで後方へと飛びのき、青年と距離を取ると、激しい音を立てて、剣を抜き放った。全身からオーラのように迸る息苦しい程の殺意は、熱風となって青年の顔面を叩いた。けれど彼は動揺一つしなかった。涼しげな顔のまま、あまつさえ、おちょくるような口調で、「なぁに殺気立っていやがる」とため息を吐く。


 レオノーラは、夜の海を閉じ込めたような暗い瞳を震わせ、


「お前のに恨みがあるのだ」と、地を這うような声で言った。


 彼女の脳裏に、過去の映像が断片的に流れてくる。


 町の人たちの悲鳴。

 逃げ惑う雑踏。

 自分の声。叫んでいる。何を叫んでいる? わからない。

 愛しい男の切迫した顔、そして、己に向かって何かを叫ぶ。

 自分は踵を返して町の外れへと駆けてゆく。

 暗転。

 刹那の静寂。

 町の中心地へと戻る己の足音。


《イオリ!》


 叫ぶ。愛しい男の名前を。

 目の前には男の背中。子どもの頃から大きかった背中。

 しかし、男は振り返らない。

 血飛沫ちしぶきが上がる。男の首――頸動脈が切断され、物凄い勢いで赤い液体が辺りを汚す。


 視界の端で、唇の端を釣り上げて笑う女の顔。


 忘れもしない。あの女の顔。



 柄を握り込んだ手がじっとりと汗ばむのを覚えた。

 口の中が急速に渇いてゆく。湿り気のない舌が、乾燥した唇を舐める。

 脳裏に鳴り響く警鐘が訴えた。殺せ。、後々厄介なことになる前に、と。

 だが、脳裏を駆け巡る物騒な考えを打ち消すように、目の前の男はこう言った。


「へえ、奇遇だな。俺もだ」

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