第54話 臨安の子供って誰だ

 何やらザワザワと苛立つている謝涛屋の店先だ。

 もうとうに戻って来ているはずの謝涛丸がまだ姿を現さないのだ。もちろん確かな到着日が分かるものではないが、後から出航した他店の船が戻って来て、舟山群島の沖で帆を上げ東に向かう謝涛丸を見たという。

「旦那さま、何か不測の事態が起こったやも知れません」と、店の差配が主に向かい心配顔を拵えた。

 先立って届いていた船便書簡に記されていた出発日、到着予定も大幅に過ぎている。

 南宋貿易に限らず、その前の時代も後の時代も海外貿易や海運商売には、天候による災難や海賊による略奪は付きものだった。如何に謝涛屋が豪商といえども、これらの災害から逃れることは出来ない。

 待つしかない謝涛屋だが、も少し詳しい話を聞こうと差配は出かけた。謝涛丸を見かけたという同業者の船乗りたちを訪ね回った。さして、目新しい話は聞けない。だが中に一人、他の水主とは違う話をする老爺がいた。

 臨安の城内で倭人の少年に会ったという。謝涛丸に乗って来たが、帰り船には乗らず、臨安に残って勉学に励んでいるというのだ。

 謝涛丸に子供が乗って行ったなどと、そんな話は聞いていない。


 久方ぶりに向き合った男二人は、あまたの因縁があるのだが、懐かしさもあり、穏やかな気持ちで裏庭に通じる通路の雑草の緑を眺めている。もちろん、眺めているのは勝次だけで、南針は薄明りを感じているだけだが、勝次のいたわりも十分に感じられ、柔らかな気分で夕方の風を捉えている。

 謝涛屋に行っていたらしい吉郎が、「シェンシェイ、シェンシェイ」と駆け込んできた。

「ああぁ」と、今だ腰を据えたままの勝次を見て、言葉を飲み込んだような塩梅だ。

 邪魔者だなと、勝次が立ち上がる。

「先ほども申した通り、明日は大宰府へ行ってきます。紹介状と土産もありますので、止める訳にもいきません。戻りましたら、また寄せて頂きます」

「それまでに、留吉が戻ると良いのですが、どうぞ気をつけてお出かけください」

 吉郎は、二人の会話を首を竦めて聞いている。

「お送りいたします」という吉郎をとどめた勝次は、ゆっくりと姿を消した。

 聞こえるほどのため息をついた吉郎に、「どうした吉郎」と、南針が声をかけたが、言葉は消えたままだ。

「あの、その、やっぱりお客さまをお送りしてきます」と、足音を立てて出て行ってしまった。

「なんだ、吉郎は‥‥‥」と、声に出した南針だ。

 勝次の後ろ姿が港の方に確かに消えるのを見届けてから、吉郎は戻った。

 どうやって話そうかと思案した。何時もと違い足取りは、ぐずぐずだ。

「吉郎か、どうした?」

「はあ、あのぅ、今、謝涛屋で、みんなが騒いでいて‥‥‥」

 それだけで、南針の顔が曇り出す。

「早く教えてくれ、何が起こったのだ」

「へぇ、まだ確かな話ではないのですが、謝涛丸が戻って来ません。後から行った他所の船が戻って来て、謝涛丸が博多に向かうのを見たようでして、それ以上は分かりません」

 嵐に揉まれる謝涛丸が留吉が思い浮かび、南針は小さく首を振った。

「おれが、また謝涛屋へ行って、どんな具合か聞いてきます。ひと月もふた月も遅れて戻って来る船もありやす。南の方に流されて、それでも何とか戻るんです。積荷なんかなくっても、こっちとら留吉つぁんさえ戻れば良いんですからね」

 もうすっかり南針先生の家の者だ。吉郎は、謝涛屋には聞かせられない言葉を吐いて出かけて行った。

「シェンシェイ、心配いらんけん。留吉は運の強か子だぁ。地獄からばってん帰っちくる」

 客がいる時は、決して表に出て来ない爺さんが、路地から顔を出し南針を勇気づける。

「そうだな、そうだ。わたしもそう思う。きっと帰って来る。きっと」

 南針は、気弱に微笑んだ。


 吉郎は、謝涛屋に戻ると船の行方を聞き回った。

「変な爺さんがいてよ。臨安城内で謝涛丸に乗って来たという子供に会ったとさ」

「いやいやいや、おるんだよおるんだ。それは南針先生のお弟子でよ。留吉っていうのさ」

「へぇ、それがどうして謝涛丸に」

「ああ、それは後にして、その爺さんは何処にいおる? 教えちゃんない」

「裏手の長屋だ」

 半分も聞かずに駆け出す吉郎だ。

 くだんの爺さんをとっ捕まえて、子供の話を聞かせてくれと喚いた。

「名前は、名前は何といった。留吉か?」

「ふん、名前なぞ、聞いたかなぁ」

「おいおいおい、爺さん‥‥‥」

 航海ボケか、何とも頼りない返答だったが、日ノ本の少年に会ったのは確かで、謝涛丸で渡海したのも間違いないようだが、それは最近の事なのか、何年も前の事なのかは、定かでない。身形良く金持の息子のようだったという。それでは、留吉では無いだろういう思いも持って南針先生の元に帰る吉郎だった。


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