第34話 武家の患者が現れた

「センセ、センセ、南針先生」

 忙しない声が表戸を押し開ける。数人の男が武家と思しき者を抱きかかえて門戸をくぐった。

しゃくでございます。何時も針にて収めております」従者は、いうが、痛みに震える老人は、右手を忙しく振り「なぁ、な、ならぬ」と何とか呻く。

「信頼なさる鍼灸師どのがおられるのですな」

 南針は、春風のような声をかけた。

「そう、そうじゃ。見知らぬ者の針など、ま、まっぴらじゃ」

「その鍼灸師どのを呼んで来られたら、いかがです?」

 従者に向かって問えば、「ここへお連れしてよろしゅうございますか」と驚きの笑み。

 何で「否や」があろうと頷く南針に、何度も頭を下げて振り返りつつ、駆け出していく。

「針は、使いませぬ。少しツボを押さえますが、如何でしょう」

 額の皺を深め、鼻の頭の歪め、口元をひん曲げて痛みを堪える老武家は、耳だけは痛みに侵されていないのか、南針の言葉に目を剝いた。

 南針は、武家の目の前に長く美しい指先を広げた。何も持ってはおりませんというように、裏表と動かして見せる。

 老人は頷きながらも、患部辺りの手を放そうとはしない。静かに横たわらせ話しかける。

「少し、おみ足に触ります。よろしいですか」

 わずかに首を振る患者の膝下の三里のツボを押し、足裏中央の湧泉ゆうせんに力を籠めれば、患者は呻いて患部の手を放す。とくだん、しゃくに効くわけではないが、痛みに強張った身体を刺激し、肩の力が少し抜けた。

 額の汗を静かに拭くと目を閉じたままの老武士は、「かたじけない」と礼の言葉をこぼした。

 濡れ手巾で、額と鼻の頭を押さえ、「白湯などいかがですか」と尋ねれば、「うむ」と唸る。南針に支えられて、半身を起こし、目を瞑ったまま椀に半分ほど白湯を飲んだ。

 南針は、何となく可笑しい。おれは、何でこの老いぼれに、こんなに優しいのだ?

(何か、思惑があるのか、南針。取り入って、家来に取り立てられたいのか?)

 こんな事を考えるのは、己が自由になったという証しかと、老人の顔を見つめれば、無性に好意が湧いてくる。

 間もなく、かかりつけ医が駆けつけ、針一本。老人は、静かに眠っている。

 眠りつく前に、奥の部屋に移ったもらった。

「いやぁ、お世話になりました。あなたが有名な南針先生ですね」

 穏やかな笑顔だが、いかつい顔の男は鍼灸師らしかれぬ武士のいでたちだ。

(有名? なにが有名なのだ?)と思いつつ、南針は微笑み頷く。

「いやぁ、聖福寺近くに、若いが腕の良い鍼灸師がいて、女子供に人気があると聞きました。貧しい者からは術料を取らぬとも聞きました。わしも、出来ればそのような人生を歩みたいと若かりし昔に思いましたが、今はこの通り刃物を振り回す身の上、思いのままにはなりません」

「鍼灸の修行をなされましたか」

「南宋へ行きました。薬草を学び、鍼灸を学び、南宋画も学びましたぞ。しかし、戦禍に巻き込まれ、命からがら帰国しました」

 男は、額の傷を指先でなぞりながら、遠い目をした。

 表が騒がしい。

「南針先生、南針先生」と、陽針の声に急かされて、南針は表の患者の元に戻った。

 老武士の目覚めを待って、一党は帰っていった。


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