傷痕

真崎いみ

手の鳴る方へ。

午前11時30分、吉祥寺駅前。バス・ロータリー。

神谷海咲とサヤは初めて落ちあうことになっていた。海咲はバス停近くに立ち、スマートホンで自身が到着していることを告げる。最近の子は本当に返信が早い。30秒と経たずに、『私も、もうすぐ着きます』とメッセージが返ってきた。海咲はそのメッセージを確認し、一人、煙草を口に咥えて火をつける。甘ったるく、少し苦い紫煙を肺一杯に吸い込んで吐き出す。何度か深呼吸を繰り返しつつ、海咲は視線を目の前の人たちに向けた。平日のこの時間でも人数は驚くほど多く、それでも誰一人として自らの世界以外に目を向けていないのが面白い。学生らしい若者の集団、手を繋いだ恋人たち、外回り中のサラリーマン。皆が皆、他人に興味がないのは何だかとても気楽だった。

スマートホンに、着信が入る。

「もしもし。」

『海咲さんのスマホですか?』

「そうです。貴方は…サヤさん、ですね?」

頬と肩でスマートホンを固定して、海咲は煙草の火を携帯灰皿で揉み消した。

『はい。私、サヤです。今、吉祥寺駅前に到着したんですが、海咲さんはどちらにいらっしゃいます?』

初めて聞くサヤの声は小さく、鈴を転がしたかのような声だった。落ち着いた、静かな声質で好感を持った。

「そうですね、今、どんな洋服着てます?探しますから、そこから動かないで。」

『わかりました。えーと、私、水色のカーディガンにストライプのワンピースなんですが…。』

海咲は目を凝らす。鮮やかな水色はすぐに見つかった。小柄な女性が所在無さげに立っていた。

「見つけました。今から向かうので、電話はそのままで。」

ゆっくりと彼女を驚かせないように、近づく。半径5メートルに差し掛かったところで、サヤはふと顔を上げた。視線が交わる。その瞳は大きく、静かに海のように凪いでいた。

「サヤさんで、あってますか?」

海咲の言葉に、女性は頷いてスマートホンを耳から離した。

「はい。はじめまして、海咲さんですね。」


吉祥寺駅北口から歩いて、焼く10分。そこに老舗のラブホテルがあった。窓の少ない外観は個包装されたチョコレートのようだった。

どうやらこのホテルは自販機のように機械のボタンを押すと、ルームキーが出てくる仕組みらしい。選んだ部屋は202号室。二人はルームキーを手にすると、狭いエレベーターに乗って部屋を目指した。

上昇する浮遊感と、耳がおかしくなる感覚を味わっていると不意にサヤが笑みを零した。

「ふふ。」

「どうかされましたか。」

「いえ。私、今までこんなところに縁がなかったのに、死を決意した瞬間に縁ができるなんて、と思って。人生って面白いですね。」

くくく、と鳩のように笑う彼女が急に愛おしく感じられた。


海咲とサヤはSNSで出会った。海咲がサヤを見つけ、フォローしたことから物語は始まった。サヤは感受性が豊か過ぎるぐらい強いのか、日々を生きるのがつらいとよく書き込んでいた。人によれば辛気臭いと言われるSNSだったが、海咲はそれを彼女の生に対する叫びのように感じて放っておけなかった。程なくして海咲はコメントを残すようになり、サヤもそれに応え始めた。最初は一日の終りの愚痴を聞いたり、未来の不安など些細な会話が続いた。


海咲はカメラマンを職業にしていた。学生の時に写真の魅力にはまって、アルバイトから始めた仕事をそのまま本業にした経歴を持つ。

才能があるかなんてわからない。只々、楽しくて、がむしゃらに数をこなした。結果は後からついてきて、今ではありがたいことに仕事のオファーも頂けるようになった。だけれど最近、撮れば撮るほど自分が求めていた写真なのかと自問自答を繰り返すようになった。

可愛らしい花も、清々しい水も、美しい空も、全てが色あせて見えるようになった。あんなにも色彩豊かで、世界は愛で溢れていた筈なのに。


ぼうっとしていたのだろう。サヤに服の袖をつん、と引っ張られ海咲ははっと我に返った。

エレベーターは目的階数にいつの間にか、到着していた。

「行きましょう。海咲さん。」

サヤは楽しそうに、そして蝶々が舞うように、先を駆けていく。ホテルの廊下は毛足の長い絨毯が敷かれ、足音はほとんどしなかった。

部屋の前に辿り着き、ルームキーで扉の錠を落とす。かちり、と控えめな音をたて静かに扉は開かれた。覗くように二人は部屋の中を伺った。

先ほどエントランスホールで見た写真通り、ベッドとテレビ。シャワールームというシンプルな部屋だった。ただ想定外だったのは、ベッドの上の天井が鏡張りになっていた。

「これは、どういった演出なんですかね?」

小首を傾げるサヤに、こっそり耳打ちをするように海咲は告げた。

「あー…。ほら、鏡に映った自分たちの行為を見るためのものです。」

「いやらしいですね。」

サヤは呆れたように呟いた。海咲は苦笑する。

「そういう場所ですから。…さて、どうします。少し休憩しましょうか。」

「ううん。時間がもったいない。」

そう言うや否や、サヤは羽織っていたカーディガンを脱ぎ捨てた。むき出しの肩からするりと化繊の布が滑り落ちる。衣擦れの音と共にサヤはベッドによじ登った。そして胡坐をかいて、海咲に向き直る。

「私、どうすればいい?」

「何をしていてもいいですが、まずは服を脱ぎましょうか。」

「そうね。ちょっと暑いわ。」

サヤは躊躇せず、ワンピースの裾に手を掛けて捲り上げるように一気に脱いだ。可愛らしいピンクの布地に白いレース。ワンポイントに水色のリボンが付いた下着を身に着けている。

海咲はカメラのレンズをサヤに向ける。レンズ越しのサヤは恥ずかしそうに、少女のようなはにかみを見せてくれた。海咲は早速、カメラを抱えて身構えた。カシャッと小気味よく、フォーカスが絞られてシャッターが落ちる。


何処にでもいる、私だったかもしれない普通の女の子。

髪の毛を掻き上げたり、こらえきれない欠伸をしたり。自然体のサヤの仕草一つ一つを写真に残したかった。

「海咲さん。アイスを取ってくれる?溶けちゃう。」

サヤがホテルを決める途中で立ち寄ったコンビニで買ったアイスを求めるので、海咲は撮影をいったん中断してアイスを手に取りサヤの隣に座った。安っぽいベッドが二人分の重みに耐えきれず、ギシ、と軋む。

サヤは嬉しそうにチョコレートバーのアイスを頬張った。海咲も、バニラのアイスクリームを口に運ぶ。聞えるのは咀嚼する音と、時計の秒針が時を刻む音。そして人通りの多い道路に面しているのだろう、通行人の会話が僅かに聞こえてくる。


最後の一口を食べて、空の容器をごみ箱へと捨てた。そして、さて、とサヤに向き直る。

「そろそろ、裸になろうか。」

「そうね。丁度いい頃合いだわ。」

海咲の言葉にうなずいて、サヤは下着に手を掛けた。ノンワイヤーのブラは形を崩して、ベッドから床へと滑り落ちていった。小さなショーツも脱ぎ捨てられて、サヤの肌が全て露わになる。小ぶりな胸と肉付きの良いお尻がコンプレックスと言っていたが、そんなことはない。とても美しかった。


サヤの左腕には、無数の切り傷の痕があった。癖なのか、過去を語るときに度々その傷痕を指でなぞっている。桃色の線状に膨らんだ傷痕は、サヤの白く美しい肌を蝕むようだった。リストカットを経験していることも聞いていたから、さっき服を脱いだ彼女の肌を見てもさほど動揺せずに済んだ。

「初めて手首を切ったのは、中学一年生のとき。13歳の頃ね。死にたいわけじゃなかった。ただ、いつでも死ねるって思えることはひどく魅力的だった。」

「痛かった?」

海咲はカメラのシャッターを切りながら、レンズ越しに訊ねる。

「うん。生きてるからね。」

当たり前のことを、サヤは教えてくれた。生きているから痛くて、この傷が愛おしかったと言う。

サヤは戯れにシーツを頭から被ってしまう。ちょこんと覗く乳首が可愛らしい。しばらくベッドの上をごろりと転がっていた。サヤのその視線は天井の鏡に注がれていた。角が少しだけ剥げかけている鏡は一体、何組の愛の行為を見守ってきたのだろう。

窓ガラスにこつん、と何かが当たる。海咲とサヤがふっと見上げるように窓を見ると、どうやら小粒の雨が降っているらしいことに気が付いた。サヤが四つ足になって窓に近付いて、カラカラカラ、とサッシを開ける。雨は優しく、白い光を伴って大気を包み込むように降っていた。サヤは一身にその恩恵を受けるように、目蓋を閉じて空を仰いだ。カシャ、とシャッター音だけが響く。海咲はカメラをベッドの隅に置いて、自らも窓辺に這っていった。

「レンブラントの光が降りているね。」

「レンブラント?」

「そう。見てみて。」

海咲はサヤの丸い肩をそっと抱いて、天を仰ぐように誘う。同じ目線になって、光を追った。その先には、雲の隙間から一筋、二筋ほどの光が地球に注がれていた。ビルが額縁のように景色を裁断している。

「あれが、レンブラントの光。天使の梯子ともいわれてるよ。」

「そう…。きれいだね。」

リストカットの痕。バースマーク。桃色の足の爪先。冷たい手。そして、柔らかな乳房から続くなだらかな下腹部。彼女は私に全てを曝け出してくれた。

シャッターを切る音が重なっていくたびに、彼女の自然体の美しさが増していった。

霧雨も止んで、陽が差してきた。シーツが乱れたベッド、脱ぎ捨てられた衣服と下着。甘いチョコレートバーのアイスの残り香。

「サヤの心に雨が降るとき。」

「え?」

「…傘を持っていくから。」

言葉が気持ちより先に口から滑り出た。甘やかで、慈しみと愛情が籠った言葉だった。家族愛でも、友愛でも、恋愛でもなく。ただ、その感情の名前は愛だった。

過去の傷は消せなくて、時々まだ酷く痛むけれど、いつの日か歌ったように手の鳴る方へ歩き出せればいい。

「二人で一つの傘に入ろう?」


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傷痕 真崎いみ @alio0717

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