九.繋がれた縁

   九.繋がれた縁


 新たにガーデンの女が、頭ごと脊椎を引き抜かれた。これで都合、死者は三人目。見張りに立っていたはずの女を含めれば、四人だった。残るはカルミアとコルチカム、二名の女たち。


「コル! あんたは状況知らせて増援を呼べ! あたしがここで食い止める!」


 コルチカムが逡巡するが、カルミアの再度の呼びかけで地下へと駆け下りた。


 人型の怪物は当初、カルミアのみに集中して襲いかかっていたが、彼女を庇う女たちに苛立ち、攻撃の矛先をそちらに向けていた。その結果が現状だ。レイジは自身の身の安全を確保できる場所で様子を伺い、ナガレたちへと信号を送っていた。


 怪物が調子の外れた歌を口ずさむ。


「魔女が一匹、子分を連れて、刃物片手に踊ってる」


 引き攣れたような、出来損ないの口唇で声を上げる怪物の動きは、俊敏かつ獰猛だ。そして、長い腕の射程範囲に入った女たちは、凄まじい力により振るわれる爪に深い傷を負っていく。濡れた長すぎる頭髪を翻らせながら、怪物は中距離からの間合いを詰めては開け、中距離からの突進、遠距離からの投擲と、その外見からは想像のできないような戦略的な動きを見せる。


 カルミアはどうやら先に持ち出した数本のナイフしか持っていないらしく、レイジと初めて遭遇した時のようにダートナイフで攻撃を加えることがなかった。敵対者のリーチにどうしても負けてしまうインファイトしか選べない彼女は、度々距離を詰めるが、いずれも浅い裂傷を与えるに留まってしまう。


 怪物はそれを嘲笑った。そして、連撃を繰り出しながら次第に語調を強めて言葉を吐いていく。


「お前が、殺した、レイヴンの、人間の、死体は、どこにも、見つからねえ! 知ってるぞ、お前、誰かに、売り渡したな!」


 ナイフと爪が鎬を削る。肥厚した爪は、少なくとも鉄と同等の硬度を持っていることになる。


「それがどうした! あんたらはあたしの妹たちに危害を加え、暴行し、辱めた! 骸は目も当てられないぐらいに損傷させられて放置されている! それに比べたらまだマシな死に方しかしてないよ、あいつらはッ!」


 カルミアが吼え、横薙ぎの一閃を放つ。だが、それは空を斬り、上空へ跳躍した怪物の遥か下方で振り抜かれた。


 高い。ソラの眼が測定するところでは、三メートル二十八センチの大跳躍。もはやそれは、人間に出来得る行動の範疇を超えている。


 怪物は着地と共に腕を振りながら大音声で喚いた。


「てめえの倫理観を押し付けるんじゃねえ! 誰かと比べたら、だなんて言葉は意味がねえんだよ! 俺たちは俺たちのやり方で生き抜いているんだよ! そこに踏み込んだてめえらガーデンが悪いんだろうが!」


 女二人は咆哮に慄き、身を固めたが、カルミアはそうではなかった。


「それこそあんたらの価値観の押し付けだろうが! 女はお前らの食い物じゃない! いたぶって遊ぶ玩具でもないんだよ!」


 昂り、ナイフを投擲するカルミア。対して怪物は、それをまともに胸で受けた。だが、怯んだのは瞬く間のみ。すぐさま怪物はナイフを抜き去り、溢れた血を手に取ると、低くおぞましい笑いを上げた。傷口は、みるみる塞がっていく。レイジはその負傷部位が修復されていく様子に覚えがあった。


 ──再生臓器抽出物。


「てめえらのやってることはお遊戯さ。第二世代のgarbageをちゃんと教育して立派な人間にしようだ? 殺しを教えた時点でそいつはてめえの駒で玩具だろうがよ!」


 レイジは、ガーデンに住まう子どもたちのことを思い出す。


「自衛の手段はいつの世だってあって然るべきだった、なくてはならなかった! あの子らが生きるためならあたしはなんだってする!」


「なら同類だ! 俺たちも生きるためにこうしてる! 選び取った手段に優劣はねえよなあ!」


 再び交差する互いの凶器が、ぎりぎり、と音を立てる。


 その時、レイジは装甲車両の走行音を遠く聞いた。視界にナガレからの連絡が入ったことを認める。受信コマンドを操作すると、音声の波形が左下に表示された。


『レイジ、目的の物は見つかったんだね?』


『概ねな。それより、今から言うことを実行しろ。ここで奴を逃すと後々面倒だ』


 レイジの注文を受けて、ナガレはニカイドウに状況を伝えた。実行のタイミングは、レイジが作り出さねばならない。できるかどうかは賭けだが、やるかやらないかで言えば、やるしかない。レイジは端末をかたわらに置くと、怪物の背後へと静かに駆けた。


「姐様、退いてください!」


 コルチカムが実弾銃を携えた女たちを引き連れ、戻ってくる。カルミアの痩身が辛うじて怪物の拳を防ぎ、よろめいたところだった。彼女は即座に飛び退き、銃弾の雨から身をかわす。しかし、怪物はその巨体でまともに弾丸を受け止めていく。


「ってえ! いってええなああ! コラアアア!」


 腕を振りかぶりながら、怪物はコルチカムへと迫る。コルチカムも応戦の姿勢を取ってナイフを構えた。双方の距離はすぐさま二メートルまで縮まる。


「来いよ、バケモノ!」


「オラァ!」


 レイジは怪物の背を追うが、彼のアニマロイド操作技術は未だ、ソラのポテンシャルを全て発揮できない。現在の走行速度は時速三十キロメートル。限界値の半分だ。


 コルチカムを守りたいという意識は毛頭ないとレイジは考えていた。ただ、彼の記憶の断片がそうしろと叫んでいる。半ば衝動に任せて、跳躍コマンドを入力し、怪物の肩甲骨周辺に向かって四足を立てた。


「なんだ!?」


 次いでスタン・テイルを起動。電流のチャージは既にしてある。あとは目標に尾の先端を押し当てるだけだ。


「ソラちゃん!?」


「うざってえぞ、てめえ!」


 怪物の身が素早く捩られ、レイジは跳ね飛ばされた。そして、鋭角に、濡れた路面に叩きつけられる。勢いは削がれずに四度弾んで、彼は瓦礫の山へと衝突した。


『ギャウッ!』


「ソラちゃん! お前……ぶっ殺してやる!」


「止めろコル! あんたじゃ敵わない!」


 何事かを、カルミアが制止する。レイジが激昂するコルチカムを見ると、彼女は無謀にも怪物へと飛びかかり、半身の姿勢を取った目標の首筋に刃を突き立てようとしていた。


「ああん? そんなぬるいのが当たるかよ!」


 怪物はその刃の先端を、がちり、と歯で文字通り食い止めた。そして、レイジは見た。怪物の上腕筋が盛り上がり、力を溜めているのを。


 それを認めたのは彼だけではなかった。コルチカムへの誤射を恐れてまごついていたガーデンの女たちが叫ぶ。


「コル! 離れろ!」


「おっと、そうはいかねえ」


 怪物の空いた手がコルチカムの細い胴を握る。いや、握り締める、というのが適当だ。コルチカムの胴が一瞬で、柔らかい空き缶の如くへこむ様が想像できた。


 コルチカムは二秒だけ腹圧を高めて耐えたが、すぐに、げえ、と潰れた声をマスク内に吐き出した。マスクの首元から赤味の混じった胃液が溢れる。


「コル!」


「あね、ざ、ま……」


 レイジは疲れを知らない体で立ち上がり、平衡感覚の校正と損傷部位の確認を即座に行う。調整完了。まだ走れる。まだ行ける。


「ばいばいさよならまた来世〜ってな!」


 怪物は上機嫌に、溜めた力をコルチカムにぶつけようと、拳を握る。


『シャアッ!』


 レイジは、起き上がりざまのよろめいた足取りを姿勢制御ソフトで整えつつ、地面に弧を描いて雨粒の中を駆け抜ける。


 時速四十五キロメートルから五十七キロメートルへ。限界速度、時速六十キロメートルに到達。スタン・テイル起動、フルチャージ。跳躍コマンド使用、仰角二十七度。 


 レイジが弾丸のように跳ね上がったと同時に怪物の腕がコルチカムの頭部に迫る。刹那、上空に雷鳴が轟く。稲光の下、青い電光が走る。


「ガッ!?」


 レイジの操るスタン・テイルは怪物の頸部に突き立った。その巨躯がびくりと硬直する。その手から取り落とされたコルチカムはまだ、辛うじて息をしているようだった。


『今だ! やれ、ニカイドウ!』


『あいよう!』


 建造物の合間から、電気駆動に併せてガソリン駆動を行った装甲車両が飛び出る。


「なっ、ん──」


『カルミア、コルチカムを離れさせろ!』


「その声、レイジ……!?」


『死ぬぞ!』


 カルミアは状況を素早く判断し、次の瞬間にはコルチカムの体を引きずり、その場から退避した。その間に装甲車両が真っ直ぐに怪物の体躯に迫り、そして、衝突する。


「ぐ、おっ!!」


 相当な重量を持つ装甲車両であったが、怪物を撥ね飛ばすことはなかった。だが、むしろそれが、怪物にとっては地獄だったのかもしれない。


「いでえいでえいでえええええ!!」


 装甲車両に怪物の上半身がしがみついていたが、車体の下部に巻き込まれた脚が荒れた路面との間で削られていく。じゃぐじゃぐじゃぐ、と肉が削げ落ちていき、怪物が絶叫した。そのまま車体ごと、巨躯が、腐蝕された犬の銅像の台座に突っ込んだ。


「あぎゃあああ!」


 胸が潰され、斜めに走った口から大量に吐血する怪物。間髪入れずにレイジが叫ぶ。


『ニカイドウ、一旦退いてから完全に圧死させろ! これでもまだ死なない可能性がある!』


『マジかよ、明らかなオーバーキルだろ!』 


『早くやれ!』


 装甲車両が一度怪物の体から離れると、削れ、ひしゃげた下半身と潰れた腹腔が露わになる。


「ぐぞ、がっ、殺す、絶対ごろず、ゆるさね──」


 それが、怪物の最期の言葉となった。


 装甲車両から降りたナガレとニカイドウが、小さく痙攣を続ける怪物を見るなり、マスクの下で眉を潜めた。


「レイジ、これは?」


『分からない。たった一つ明らかなのは、再生臓器抽出物が投与された人間だった、ということだけだ』


「にしたってこんなのが人間だったとは思えねェな、おい」


 悲鳴が上がるのを、聞いた。


 見れば、ガーデンの女たちが続々と地下鉄入り口へと姿を現していた。


「姐様!? 一体こいつは……」


「レイヴンの使いだ。きっと、そうだと、思う」


 歯切れの悪い物言いに、レイジは、怪物が彼女にとっても想定外の闖入者であったことが窺える。


「コル! 姐様、コルを早く助けないと!」


「まだ助かります、早く処置を!」


 騒然となった駅前の広場跡で、コルチカムは横たわったまま荒い呼吸を続けていた。


「あね、ざ、ま……みんな……」


「もう喋るんじゃない。まだなんとかなる。いや、なんとかする。誰か車を! 残りの燃料はここで使う!」


『カルミア』


「レイジ、訊きたいことは山ほどあるが問答は後だ。時間がない。この娘はまだ死なせるわけにはいかないんだよ」


 切迫した空気の中で、しかし、カルミアは言葉の端にレイジへの嫌悪感を滲ませる。ナガレがここで口を開いた。


「カルミア、だね。いいかい、落ち着いて聞いてくれ。きっとレイジが言おうとしたのは、こうだ。『早く車に乗れ』ってことだよ。だろ?」 


『ああ。まだ諦めるつもりがないのなら、早くこの車にコルチカムを乗せろ』


 カルミアが逡巡した。


『目的地はおそらく病院跡だろう。俺たちもそこに向かうつもりだ』


 レイジがそう言うと、ニカイドウは腕を組んで大きく頷いた。


「つーかよ、こっちもまあ、レイジがこれなもんでなァ」と、後部ドアを開け放ったニカイドウは、ベルトで固定されたレイジの体を親指で示しつつ「あんま時間ねェんだなこれが」と締めた。


 そういうわけだ、とレイジは言葉を繋ぐ。


「……あんたたち」カルミアはガーデンの女たちに振り向いて言う。「コルを運ぶのを手伝ってくれ」


 レイジが建造物の中に置いてきたカルミアの端末を取りに戻ると、それを 咥えたまま装甲車両に飛び乗った。すでにコルチカムとカルミアは乗車済みだ。


 助手席でナガレが眼鏡の位置を直しながら、後部へと顔を出す。


「カルミア、僕らにどんな感情を抱いているかは知らないけれど、今は信用してくれ。僕らにも、誰かを守りたいという気持ちは理解できる」


 そこでカルミアは、マスクを外す素振りを見せたが、しかし、思い留まったように手を下ろした。


「……急ぎで頼むよ」


「さあて、腕が鳴るなァ、おい! シートベルトはそこそこに発進すっぞ!」


 レイジは装甲車両が走行を開始する振動を感じながら、横たえられたコルチカムを見ていた。マスクは外され、荒い呼吸の中、時折吐血をしては体を跳ねさせる。カルミアがそれを抑えつつ、髪を顔から払いのけている。


「しっかりするんだよ。あたしが倒れたらあんたがガーデンをまとめるんだ。こんなところで死なせはしない」


『再生臓器抽出物……いや、クスリはどこにある』


「もう手元にはない。……クソッ! こんなことなら一本でも残しておくべきだった!」


 レイジはその言葉を受けつつも、たとえ再生臓器抽出物が手元にあろうと、コルチカムを簡単に救うことはできないことを予感していた。彼は当該薬品を用いた応急手当の訓練を受けていたが、彼女の状況から見るに、肋骨が折れて肺を突き刺している。ならば、外科的な技術を用いてそれを取り除いてからでないと、負傷部が不本意な形で塞がってしまうことだろう。


 しかし、彼は問う。


『今、あれはどこにあるんだ』


 カルミアが手を振り払う。


「そんな話をしている場合じゃない! 黙ってろ!」


「ああー……カルミアさんよ、ちょっとその娘しっかり抑えてろ。だいぶやべェ」


「おいおいおい、ちょっと待ってくれよ……これは本当に……」


 レイジが助手席に座るナガレの膝へと乗るとフロントガラスから前方の様子が臨めた。そこを闊歩する異形たちが、こちらに向かっている。即座にニカイドウがハンドルを切り、脇道へ入る。 


「何事だい!」


「さっきの怪物が一体だけじゃあねェってこった! 二桁はくだらねえ!」


 その時、装甲車両の上部に何かが着地する。確認などせずとも、それは──。


「いいもんに乗ってんなあ! おい!」


 上から覗き込む醜悪な顔は、見間違いでなければ笑みを浮かべていた。レイジが叫ぶ。


『ニカイドウ、振り落とせ!』


「おう! 無賃乗車許す気はねえからな!」


 蛇行を開始した装甲車両にはさらに二回の振動。すなわち二体目三体目の怪物が着地したのだ。


「目的地へのルートを指示してくれカルミア!」


「次を右、その後は三つ目の交差点を左だ!」


 フロントガラスに爪が立てられ、ぎりぎり、と細い傷がつけられていく。ニカイドウは建造物の壁面に車体を寄せると、一体を押し付ける形で退けた。


「ダメだ、この先にもいやがる! すぐ開けた道に出てぶん回すから皆踏ん張れよ!」


 幹線道路跡には乗り捨てられた車両が多数あったが、その合間を縫うようにしてニカイドウがサイドブレーキを引き、百八十度ターンを行う。上部にしがみついていたらしき怪物が弾け飛び、建造物の中へと突っ込む。残るは一体。


『カルミア、やれるか?』


「やるしかない時に野暮なこと言ってんじゃないよ!」


 ナガレの前から無理矢理体を窓から乗り出させると、カルミアが手にしたナイフを振るう。


「邪魔をするなッ!」


 その刃が的確に怪物の指を切断し、車体から離れざるを得なくなる。


「発進すっぞ!」


 バックで装甲車両を繰るニカイドウが再び車体を反転させると、最高時速で道を駆け抜ける。カルミアはその勢いでナガレと密着することになるが、何事も言わず、後部へと戻っていった。


「どうすんだ、お姉様よォ!」


「今のでドクターのいる方向からは遠ざかっちまった。瓦礫で塞がっていない道はおそらく連中が張ってる。奴らの進行方向は渋谷駅跡地……。これじゃあ、もう……」


『もしもこのままお前が諦めたら、残されたガーデンの人間は即座に攻め込まれて全滅するだけだ。お前にとっての最善手はなんだ。示せ』


 耳を疑ったかのような表情でナガレが振り返る。


「君、本当にレイジかい? 自分の目的達成以外に興味があったなんて驚きだ」


 カルミアはニカイドウに停車するよう指示すると、しばし口元に手をやり、思案した。そして、旧い携帯端末を取り出す。


「……こいつで一か八か、カグラザカとコンタクトを取る。これを見ろ、レイジ。覚えがあるだろう」


 レイジにハセクラと対面した記憶が欠落していたため、彼は言葉を返さなかったが、端末に表示された文字を代わりに読み上げた。


『【See you soon.】』


「ここに示された座標に向かえば、何かしらの解決策に辿り着くかもしれない」


 ナガレが車両後部へと移動し、手を差し出すと、端末を受け取った。


「これ、経度と緯度じゃないね……。カルミア、君はこの数字に何か心当たりは?」


「……」


「カルミア?」


「……あ、ああ。どうもこれは映画館跡の含まれる建造物を基準にしてあるようだ。ガーデンの拠点からの移動距離を考えると──」


 示された数字から、レイジはソラの記憶ストレージに撮影した地図の情報を探りつつ、推論を言葉にする。その中で、彼は目的地を考えた。


 そもそも、彼がガーデンに再潜入しようと決めたのは、病院のような立場を取る組織との接触をはかるためだった。彼らは再生臓器抽出物の使用を是としない。医師は当然必要だ。東京には陽光が足りず、免疫機能すら危ういのだろう。だからこそ、その需要があって然るべき存在だ。しかし、今はそこにすぐ頼ることができない。ならば。


「病院とどっちの方が近いかで決めよう。レイジ、地図情報は投影できるね」


『単館系の映画館も網羅してあるようだ。すぐ見せよう』


 投影された地図情報には大小問わぬ映画館のピンが示された。レイジは記録上にカルミアの知る、崩壊した、あるいは封鎖されてしまった道を指さすよう指示を出す。彼女はすぐにそれに従い、両目的地への最短ルートが次々と変更されていく。そして、ナガレが淀みなく、こう結論付けた。


「病院は、諦めよう。移動に時間がかかりすぎる」


「姉さんよォ、不服はねェな?」


 カルミアは、静かに頷いた。


『分の悪い賭けが続くな、ナガレ』


「二つも命がかかっているのでなければ、燃えてくる展開なんだけどね。ニカイドウ、頼むよ」


 ニカイドウがエンジンをかけ、装甲車両は発進した。カルミアの脚が小刻みに揺れている。苛立ちが見て取れた。


 レイジは考える。彼女の人生は今までもそうだったのかもしれない、と。求める時に求める物が手に入らない。欲する所で欲する物に手が届かない。そして、失われていく事柄に対して見切りをつけていくしかない。そのような状況下で生きてきたのだろう。


 抑圧されてきたのだ。全てを。この雨に抑え付けられてきたのだ。


 彼は自らの過去を想った。幸せだった過去を。そこには全てがあった。衣食住に問題はなく健全な環境があり、そして、何よりも、空があった。それは、抑え付けられていない自由の象徴に、今は思えた。


 レイジはフロントガラスの前まで跳び乗り、空を仰ぐ。雨粒の向こうに広がる、鉛色の空を。重くのしかかる色合いが、機械の体にさえ重たく感じられた。


「座標は?」


 ナガレがカルミアに尋ねる。


「もう少しで三つの数値がゼロになる。近い。とにかく、急いでくれるかい」


 コルチカムは既に言葉を発さなくなっていた。吐血も止まっている。ただ、息をしているだけだ。小さく、ごく、小さく。


 その様子を認めると、ナガレは気遣わしげに言葉を続けた。


「すぐだ、すぐに着くよ、カルミア」


「あたしは……」


 ニカイドウはハンドルを緩やかに切りながら、不意に口を開いた。


「あのよォ、カルミアの姉さんよ。あんた本名はなんてんだ? まさかすげえ噛みまくるような言いづれェ名前じゃねェんだろ?」


 カルミアは虚を突かれたように、ぴくり、と体を動かした。


「いやな、すまねェ。ちィとばかし気になっただけなんだよ。ほら、オレっちは張り詰めすぎた空気ってのが苦手でよ。あとあれだ、乗車賃代わりにな」


「……ステキな、名前さ。ステキな、ね」


 濁された言葉に対してナガレが何かを言いかけたところで、ニカイドウは装甲車両を停めた。すると、カルミアの端末が彼女の手を離れ、慣性に従ってナガレの足下へと滑っていく。端末の縁に仕込まれたスイッチが車内の壁に当たり、先程ホロスクリーンに投影されたものを映し出した。 


 そこには、少年の顔が表示されていた。眼鏡をかけた癖毛の少年だ。年の頃は十二か、十三。レイジはその面影を、すぐそばの人間に見た。


 カルミアは反応し遅れ、ナガレがそれを認めることを阻めなかった。ナガレが狼狽する。


「な、なんで、僕の画像を君が……?」


 カルミアは、答えない。


「こんな昔の画像、僕だって何枚も持ってないのに、こ、これ」


 無言のまま、カルミアは端末へと手を伸ばすが、ナガレが腕を掴んで制した。 


「マスクを、外してくれないか」


「今は、そんなことをしている場合じゃない」


「大事な」ナガレは助手席から腰を浮かせて言う。「大事な、事なんだ」


 こうなると梃子でも動かないことを、レイジは知っていた。ナガレはカルミアの腕を放さず、じっと、マスク越しに目を合わせようとする。反して、カルミアは顔を背けた。


「変わらないね。あたしはこんなに手を汚してきた、こんなに変わっちまったっていうのに」


「……やっぱり、君は」


 観念したように、カルミアの手先から力が抜けていくのを、レイジは見た。


「手を放してくれるかい、コウタロウ」


 カルミアはガーデン内ですらほとんど外さなかった防護マスクを脱いだ。多層マスクの機構が彼女の顔を少しずつ露わにするにつれ、ナガレの目が大きく開かれていく。


「これで、満足だろ」


 ナガレは、一言だけ、名前を呼んだ。『リュウコ』と。


 そして、カルミアは下唇を噛みながら、顔を伏せるのだった。

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