八.求めしもの

   八.求めしもの


 レイジは、ソラの体に順応するまで、多大な時間が必要だと痛感した。


 手始めに、ナガレに数メートル歩いてみることを提案され、四足歩行を試してみたが、アニマロイドには皮膚感覚がなく、力の入れようがわからなかった。圧覚センサは搭載されていたが、なにぶん、その場にいた誰もアニマロイドの中に意識を移された経験がなかった。そのために、普段、無意識に行なっていた動作にさえ試行錯誤が必要だった。


 今、レイジの元の体は、装甲車両の中で眠っている。


 ニカイドウとナガレのバックアップにより、なんとか人格を形成するだけのデータを吸い出せたところで、完全に心停止状態に陥ったのだという。現在は、ニカイドウが部品を急遽組み換えた、生命維持装置により生き長らえている。それは、本来ハセクラの頭部のみを内包して機能するよう作成されたものだ。


「んなわけでよう、レイジ。栄養も酸素も供給できる限界が元々の設定値よりかんなり短いわけだ。全身用にゃ作ってねェからな。もって一日と半分、よくて二日。それ以上は耐えらんねェぞ」


『装置の機能を底上げする方法はないのか』


「物資が足んねェよ。そんなんが見つかりそうな、めぼしい施設の見当もつかねェ。とりあえず存命で万々歳な状況だかんな」


『そうか』


 ソラの内部で彼が目覚めるかは、賭けであったとナガレは語った。それも、かなり分の悪い。


「君の人格を再構築できる保証はなかった。今だって、君が君自身であるという確証がない。本当に、君は……もし君だとして、“いつ”のレイジなんだ?」


 質問の意図を汲み取りかねて、首を傾げるレイジ。


『俺は自分が倒れたことと、東京にいることは把握しているつもりだ』


「ガーデンのことは?」


『園芸趣味はない』


「ちゃんと答えてくれ。重要な質問なんだ」


 レイジが引き続き首を傾げたままいると、ナガレの表情は愕然としたものに変わった。


 記憶の照会が始まった。


 レイジは自身が何を喪失したか、その重要性に気付けないほどに、記憶を欠落させていた。彼の記憶にはハセクラに迫った事実がない。東京には多くて片手で数えられるほど少人数のグループしかいないと認識している。巨大生物に至っては、彼にとって荒唐無稽に過ぎて、逼迫した空気の中で一笑に付したほどだ。


 全てが手詰まりだ、という雰囲気を醸すナガレの横で、ニカイドウが思案を続けていた。その様子を低い視点から見ていたレイジは、やれやれ、といった風に声を発する。


『俺の意識がある限り、行動は続ける。ハセクラにもう一度接触すれば、少なくともこれ以上事態が悪化するということはないはずだ』


「それはハセクラが再生臓器抽出物を使って、君の体をどうにかしてくれるってことかい? あれは魔法みたいな薬だが、万能じゃない。細胞を再生することと、ニューロンネットワークを再構築することはイコールじゃないんだ。時間だって限られている」


『何を言っている。俺の目的はハセクラを利用してエマを救うことだ。体がどうなろうとそれさえ果たせればいい』


 ナガレが唖然として、口を小さく開いたまま固まった。


『この考えを理解した上でお前たちは協力していると思っていたが、違うのか』


「……馬鹿なことを言うなよレイジ。君はどうかしてるんじゃないのか! 君がそうなってしまって、誰が彼女を真に救えるって言うんだ!?」


 怒りを露わにして打ち震えるナガレの声は、未だ感じたことのないほど大きなものだった。ニカイドウが一瞬思考するのを止めて顔を向けるほどの声量であったが、しかし、レイジは落ち着き払ってこう応えた。


『もう俺は忘れられた人間だ。彼女にとって俺は誰でもない。ただ、俺にとって彼女は唯一の存在だ。それは変わらない』


 エマはこの瞬間にも記憶を新しく上塗りし、古いものを抹消している。思い出の中にはレイジの姿はもはやない。名前さえもだ。何度も、何度でも彼は彼女の側に寄り添った。忘れ去られ、虚無の内側にあっても、それを止めはしなかった。なぜなら、彼の語った通り、エマがかけがえのない存在だったからだ。


 今頃自身が人間の形を保っていなかったからと言って何が変わるわけではない。そうやって、レイジは考えていた。


『この体になったからこそできることがあるかもしれない。少なくとも、被弾リスクは過去最小だ』


「……ごめん、悪いけど今回ばかりは本気で笑えない冗談だ」


 少し頭を冷やしてくる、と言ってナガレが焚き火の前を離れた。向かっている先は雨が降りしきる海辺だ。レイジは背中を黙って見送り、もう一度体の操作を試そうとして、脚をもつれさせた。ぱたり、と倒れると、ニカイドウにその小さな体を拾い上げられ、装甲車両のボンネットに乗せられた。本来の視線よりは低かったが、ニカイドウと目を合わせるのに苦がないほどには高さがある。


「レイジよう、おめェ、ちィと無神経過ぎねえェか? ナガレの兄さんは、あれはあれで責任感じてんだぜ」


『記憶の損傷が自壊プログラムによるということなのであれば、ナガレが責任を感じる必要はない。むしろ、俺の記憶素子に細工をした人間を断罪して然るべきだ』


 ニカイドウは、わかってねェ、と呟いてから、レイジの頭を指でつつき出した。


「あ、の、な。よっく聞けよ。兄さんは普段話したがらねェが、人間を簡単に死なせたくねェって気持ちが強ェ。本来ならクリーナーに協力することすら抵抗バリバリなんだよ。でもおめェには手を貸してる。その意味考えたことあっか?」


 レイジが、不器用に前足でニカイドウの手を遮ると、もう片方の手が同じように頭を何度も突く。


「レイジにゃ同じ轍踏んで欲しくねェからだ。兄さんは昔、東京で家族を暴徒に殺されてる。幼馴染ともその時に離れ離れ、生死は分かんねェ。だから、誰かの大切に思う人間を奪わせたくないのと同じぐらい、その誰かにも不幸になって欲しかねェんだよ」


『人は誰かの代わりにはなれない。俺がナガレの人生の“たられば”を叶えてやることで、奴の救済になるとは到底思えない。……だが、言いたいことは理解した』


 ナガレの過去を耳にしたのは初めてのことだった。ニカイドウの語る通り、彼は自身のことを話したがらない。あるいは、レイジにも話をしたのかもしれないが、その記憶がなかった。


 ナガレとは、レイジのクリーナーの訓練時代からの付き合いだ。ナガレは先達として所属していたが、担当する分野が違うために手合わせをしたことなどもない。サポート要員の一人として面を合わせた時のことを、なんとかレイジは思い出せた。


 ナガレが笑顔で握手を求めた時、レイジは無視して言葉のみの挨拶を返した。「無愛想な奴だね」とナガレが言った。「笑顔で人は殺せないからな」とレイジは言った。ナガレは、意外にも大声で笑った。


 何を気に入られたかはわからないが、それ以来、ナガレはレイジの後援として動いている。レイジの本当の目的を知ることで、彼はよりいっそう、心血を注いで機器の開発に努めてきた。その動機は彼の過去にあったことが、今になって判明した。


『奴の気持ちも汲むべきなのだろうな』


「おっ、聞き分けがいいじゃあねェか。ほしたらほれ、とっとと行って謝ってこい」


『話はするが、謝罪する意味はどこにある』


「おめェ海に放り込むぞ」


 道半ばの広場までニカイドウに運ばれ、レイジはそこから雨の中をたどたどしい足取りで海へと向かう。そちらには、朽ちてしまった水盆と、階段の向こうに、レインボーブリッジを臨む船着場があった。そこに、ナガレを見つけた。暴雨コートをフードまで被った状態で、暗い海を見つめている。ゆっくりとした歩みで近づき、なんとか声が通る距離まで近づく。


『ナガレ』 


「レイジか……。どうしたんだい」


 背を向けたまま、冷たく言い放つナガレ。


『お前が必要だ。行くぞ』


「君が死ぬことを見据えて行くというのなら、僕は同行できない」


 その言い方は頑なで、心の壁を厚く形作っている。 


「なんとかしてホームに戻って、穴ぐら暮らしを再開できるようにするよ。僕にはこれ以上のことはできない。二人で行ってくれ」


『お前にしかできないことがある』


「一体何を?」


『俺が体を取り戻した後、毒入りコーヒーもどきを淹れるやつがいないのでは困る。あれはあれで、紙巻煙草に合うからな』


 ナガレはゆっくりと振り返ると、眼鏡の位置を直し、フードの中で、海に負けず暗い眼でレイジを見た。


「本気で言っているのかい」


『毒は入れなくてもいい』


 しばし間をおいて、彼は表情をにわかに崩した。


「くっ……はは、そうじゃない、そうじゃないよ……」


 そうじゃない、という言葉が、レイジの記憶を刺激した。関連記憶を引き出される時の、人間特有の閃きを生じさせられたことが、レイジの、アニマロイドの眼を見開かせた。


『もう一つ、やはりお前でないとできないことがわかった。すぐに、俺の体をハッキングしろ』


「でも、そんなことしたらまた自壊プログラムが作動するかもしれない」


『今度は心配ないはずだ。現在この体にある俺の記憶に“それ”があるということは、自壊の対象から外れているということだからな。とにかく、来い。お前が必要だ』


 強引だ、とはナガレは言わなかった。普段通りのレイジが戻っただけだという認識だったのかもしれない。あるいは、必要だ、との言葉を内心待っていたのかもしれない。いずれにせよ、二人は装甲車両の停めてある建造物へと戻っていった。


「ニカイドウ、すまなかった。さあ、レイジから提案があるらしい。話を聞こう」


「んお、お帰りなさいませご主人様、ってなァ! レイジのごめんなさいは聞けたか?」


『聞こえなかったか。やるべきことがわかった。無駄話をしていたら体が腐る』


 レイジが行き当たった考えは、残存した記憶の中から導かれたものだった。


『俺は、カルミアについての記憶は保持している。そして、ガーデンと直結した記憶は欠落している。なら、そのような境界線を攻めてデータをサルベージすれば、有益な情報が出てくるかもしれない』


 そこに行き着いたのは、ナガレの言葉による。レイジはカルミアの私室で誰かに対する感情を抱いたことを覚えていた。曖昧な記憶の中で、彼は「そうじゃない」と言った。前後の文脈を繋ぐ出来事は明らかではないが、カルミアの私室にあって、彼は何かを見ていた可能性が高い。


 それに限らず、現在の手持ちである情報から、虫食いとなっている記憶を炙り出すことには意味がある。レイジの中で一体、何が秘匿され、抹消された情報かが分かれば、その重要度が推し量れる可能性がある。


『これを逆手にとって、何が核心に迫る事柄かを知ることができるはずだ』


「改めて聞いたら、なるほど、と手放しには言えない。君は大丈夫とは言ったが、実際何が起こるかわからないじゃないか」


 そう言ってナガレは躊躇した様子を見せた。そこで、ニカイドウが、あー、と声を出して、二人の意識を引いた。彼は、指を立てて、軽く首を傾げながら言う。


「実はオレっちもなんとなーく、その方法は考えてたんだわ。とりあえずレイジの脳にアクセスしようぜってな。けどよう、いかんせん言い出す空気じゃなかったんだよなァ。兄さんの言う通り、本体が完全にやられっちまうリスク考えたら、オレっちの一存じゃあ決めらんねェしよ」


 でもよ、と言葉を続ける。


「一歩でも進みゃあ、そりゃ前進に違ェねェだろ? 停滞することに意味がねェならとっとと取り掛かるが吉だぜ」


 ナガレがレイジの目を見、そして、頷いた。


「よし、わかったよ。僕の負けだ。始めよう」


 ナガレは、指を組んで掌を外にし、ぐい、と腕ごと伸ばしてそう言った。



 夜を待って、一行は渋谷駅へほど近い建造物へと侵入していた。すなわち、ガーデン本拠の付近だ。


「それじゃあ、レイジ。気をつけて行ってくるんだよ。音声はソラの鳴き声に変更しておく」


 ナガレがそう言って、レイジを装甲車両の外へとゆっくりと下ろす。


『にあ』


「その方が可愛いじゃねェか、レイジ」


『シャア!』


「いいぞ、それでこそ本物のアニマロイドだ。僕らがこれ以上近づくと不用意に彼女たちを刺激することになる。単独行動は慣れているだろうけど、慎重にやってくれ」


 二人とレイジの体が乗った装甲車両は、電気駆動で静かに走り去った。ここからは一人、いや一体、あるいは一匹だ。


 レイジは多少の汚染を物ともしない体を、なんとか真っ直ぐ歩かせるだけの技術を身につけていた。ある程度の行動なら、ソフトウェアを利用して補助させることでなんとかなった。意識を集中させると、多くのコマンドアイコンが視界に表れた。中でも、跳躍と着地の姿勢制御は重宝しそうだ、とレイジは思考する。


 スクランブル交差点へと差し掛かると、腐蝕の始まった巨大な肉塊が目に飛び込んでくる。今のレイジに記憶がなかったが、怪物というのが本当に存在したことがわかった。切り取られた部位が散見されてはいたが、大部分はそのままにされている。着目すべきはそれらの部位が運び出された先だ。


 有毒雨の水溜りに足先を浸しながらレイジは渋谷駅へと進入する。経年劣化の目立つエスカレータの手摺を伝い、地下へ。すると、ほどなくして見張りに当たっていたのであろう女が背後に現れた。女はどうやら、レイジの姿をどこかで見つけ、確認しに来たようだった。


「これは、やっぱりあのクリーナーが連れていた……姐様に知らせなくちゃ」


『なお』


 “らしく”振る舞うことで、レイジは過度な警戒を抱かせないように気を配った。あくまでも今の自分は“道に迷ったアニマロイド”だ。脅威として認識されることで最奥のカルミアの私室へ辿り着くことを阻まれてはいけない。


「ソラちゃんだ!」


「わー! 戻ってきた!」


 見張りの女が行く道をついて行くと、子どもたちがレイジを見て顔を輝かせた。しかし、最もその表情を明るくしたのは、脱色した髪色の少女、コルチカムだった。レイジ自身の記憶にはなかったが、ソラのデータベースから同じ背格好の人物が視界に躍り出る。それを、首を振ることで非表示にすると、弾んだ声が耳に届く。


「ソ、ソラにゃん! 戻ってきた!」 


『にあ』


「愛い奴めぇ、この、本当に愛い奴めぇ! どこ行ったか心配したんだよ!」


 抱きかかえられそうになったのを避けようとしたところで、脚がもつれてよろめく。すると、コルチカムは甘い声を出しながらレイジを拾い上げた。


「あらあら、大丈夫? おいで、一緒に姐様のところに行こうね」


 結果的には、これでよかったのだ、と思いながらも、レイジはコルチカムの腕に抱かれながら何度か威嚇する声を上げてしまった。しかし、彼女はそれさえも愛おしいと言わんばかりに、強く抱き締めてくる。


 初めにレイジを認めた見張りの女が、防毒マスクを着用したカルミアを伴い戻ってくると、コルチカムを見て奇異な表情を浮かべた。


「コル、あんた表情やばいよ」


「え? 本当?」


「あんたは本当にそういうのに弱いよね……。くたびれた汚いぬいぐるみも後生大事にしちゃってさ」


「リリーは汚くないだろ! くたびれてはいるけど!」


 声を上げるコルチカムの様子が、周囲にいた子どもたちを笑わせた。


「コル姉ちゃんが怒った怒った!」 


「怒ったー」


 レイジはそのやりとりを聞きながらも、カルミアの視線が自分に集中しているのがわかった。


 コルチカムと見張りの女の会話が喧嘩に発展しそうな頃、カルミアが、そこまで、と言った。


「コル、そいつはあたしが預かる。レイジの居場所が分かるかもしれない」


「じゃ、じゃあ姐様の部屋まで抱っこしていい……?」


「コル」


 ぴしゃりと名前を呼ばれると、コルチカムはうなだれてレイジの体を床に下ろした。


「あんた、言葉は理解してるね。着いておいで」


『にあ』


 追従する間にちらりと後ろを振り向くと、コルチカムが指を咥えて、口惜しそうにレイジの尻尾を見送っているのが見えた。


 カルミアの私室には、レイジの記憶にはない、いくらかの機材が増えていた。古いパソコンのハードディスクドライブである、とレイジは推察した。どうやらハセクラの拠点にあったもののようだ。ケーブルが繋がっているモニタには、文字列が踊っている。その付近に、目的の物が見つかった。レイジは即座にそこを注視し、画像を撮影した。


「さて、ソラだったね。話は直接できないようだから、なんらかの意思疎通ツールを使えることを期待するんだけど、どうだい?」


 防護マスクを脱ぎ取り、見下ろすカルミアがそう言うと、さて、とレイジは思う。ナガレが何かソフトウェアを用意していることを考え、搭載されたメモリを探ると、簡易的なピクチャ表示アプリケーションが見つかった。レイジがそれを起動すると、眼球を模したレンズからホロスクリーンが投影され、画像が表示される。


 表れたのは、レイジの姿だ。ソラの視点から見たものらしく、仰角で捉えてある。


「レイジだね。もしかして、あんたは何かがあって奴とはぐれたのか?」


 都合のいい解釈をしてくれた、とレイジは思う。しかし、それに答える適当な画像ファイルが見つからず、安っぽいデザインのポップな絵文字を表示した。ライムグリーンのyesだ。黄色の縁取りがセンスもなく明滅している。


「へえ。それじゃあ、あの後、あんたらはどこに?」


 嘘を吐く必要性を感じなかったため、レイジは港区の建物をいくつか選択、投影した。 


「そこで何があった」


 そこで、レイジは躊躇った。どこまで自分の状態を知らせてよいものか、迷ったのだった。ナガレに、自身の体を取り戻すと宣言した手前、下手にリスクを背負うような行動は慎むべきだ。


 しかし、とも思考する。カルミアは自分に執着していた。ならば、万に一つでも協力を仰げるのでないか? コルチカムに語った「レイジの居場所が分かるかもしれない」という言葉を額面通りに受け取れば、そうも考えられる。


「どうしたんだい? うまく説明できる画像がないのか?」


 相手が待っているうちに結論を出す必要があった。レイジは数秒考えたのちに、自身の倒れた場面を短い動画として投影した。


「おいおいおい、なんだってんだい、この状況。そういえばカグラザカ……ハセクラだかの所でも様子がおかしかった──ん? ソラ、あんた、今のムービーをもう一回再生するんだ」 


『なお』


 疑問を抱いて首を傾げるレイジに合わせて、画面が横を向いた。


「もう一回、観せてくれるかい」


 レイジは言う通りに、動画を再び再生する。


「一時停止して、二秒巻き戻すんだ」


 何を求めているのか分からなかったレイジだったが、カルミアの表情はみるみる驚きの色に染まっていく。


「この男を拡大しろ。解像度を上げてだ。こいつは、いや、でも……まさか……」


 カルミアの注目しているのは、ナガレだった。ホロスクリーンの投影を邪魔しないように注意しながら、彼女はナガレの映し出された方に近づいていく。彼女は、はっとすると、跳ねるように壁際のデスクへと移動した。引き出しを荒々しく開けると、ごく小さなメモリスティックを取り出す。そして、小型端末へと挿入し、ホロスクリーン上で何かを参照し始めた。


「確かあの画像はこのフォルダに……。違う、これじゃない。こっちか?」


 そこで、ドアが二度、ノックされた。


「後にしておくれ! 今取り込んでる!」


「レイヴンの使いです! ヤタガラスから停戦協定の話を持ってきたって!」


「……ちっ。わかった、今行くから待たせておくんだ」


 カルミアは端末をテーブル上に置くと、防毒マスクを装着した。そして、用心のためかナイフを数本装備し、歩み出す。


「ソラって言ったか。あんたはここで待ってな」


 彼女は、首だけをこちらに傾けてそう言うと、鉄扉をくぐった。レイジはドアが閉まり切る前に、彼女の言葉に従うかを思案した。この部屋に留まることで得られる情報は多いが、間抜けなことに、今の彼にはドアを開けることができない。ソラの体には重量が足りず、どころか、そもそもドアノブに体高が足りていないのだ。手が届いたところでどうにかすることもできない。閉じ込められてしまえばそれまでだ。


 結果的に、そして、反射的に、レイジはドアの隙間に自らの尾を挟み込むことを選ぶ。少しでも退路を確保したいという意識は、クリーナーとしての日々により刷り込まれていた。しかし、そこで想定外のことが起きる。


『ギャッ!』


 挟まれた部位に圧覚センサが集中していたためか、あるいはナガレの“ホンモノ志向”によるものか、彼の意思とは関係なく大きく鳴いてしまう。同時に、防衛システムによって視界に“スタン・テイル”の文字が踊り、尾の先端から電撃を発した。瞬時に、アラートが耳をつんざく。電流が鉄扉を伝い、備えられていた警報装置に誤作動を起こさせたようだった。


 ここはカルミアの私室だ。それだけの備えがしてあって当然と言えば当然のことだ。しかし、今作動してしまうのはまずい。誰かが入ってくれば部屋を物色する時間が失われてしまう。


 すかさず尾を無理やり引き抜くと、ドアは閉まり、自動施錠が行われた。


「侵入者だ! レイヴンの手の者か!?」


 ドアの向こうではカルミア含め複数名が慌ただしく動いている気配がする。


 コマンドを操作してテーブルの上に跳躍し、何から探るかを選択するために周囲を見渡した。ハセクラのハードディスクドライブ、壁に貼られた地図の類、壁に掛けられたナイフに銃器、そして、カルミアが再生臓器抽出物を保管している低温保存庫。端から記憶情報に刻み込んだ内、本来の彼が選ぶのは情報。すなわちハードディスクドライブだ。だが、彼の今の目的には自身の体の延命も含まれる。


 けたたましいアラート音の中で、レイジは保存庫を選び、尾の先端から端子を剥き出しにした。生体認証を行うパネルに、果たして、メンテナンス用のハッチを発見する。そこへ爪を引っ掛け、こじ開けると、幸いにしてポートがあった。


 ドアが激しく叩かれる。


「クソ! 早く解錠コードを!」


「姐様、ダメです! エラーが起きています!」


「ドアを破壊します! いいですね!」


 急げ。


 端子を挿し込むと、コマンドを選択し、ハッキングを開始する。そこからは自動でプログラムが起動し、掌紋、声紋、虹彩の認証を潜り抜けることができた。ここにかかった時間は正味四秒。


 ソラの処理能力の高さに驚く暇もなく、レイジは保存庫に飛びついた。とにかくこれを開けて、一本でもシリンジを確保しなければ、早くて明日には彼の体は生命活動を停止させてしまう。端子の細い先端を挿し入れ、隙間を開ける。前足を押し込み、全身を使ってようやく扉を開けることに成功した。


 だが、そこには、シリンジは一本も残されていなかった。


 がんごん、と部屋の鉄扉に重たい何かが衝突する音がする。


 これはどういうことだ? レイジは素早く思考する。カルミアは確か再生臓器抽出物を利用しないと言っていたのではないか? それは、自身の記憶を口伝していたナガレたちの言葉から知っていたことだ。追放以前に遭遇した時も、彼女はシリンジを回収のみを目的としていたようだった。


 奪われていた? それは考えにくい。万に一つも誰かが痕跡を残さず盗み出していたとしても、カルミアが気付かないわけがない。これほど分かりやすく厳重に保管している代物だからだ。


 鉄扉の蝶番が外れかかっている。


 答えは一つだ。カルミアは自身でそれらを持ち出した。だが、何のために? 蘇生のためでなく利用するとしたらどんな用途があるというのか?


「もう少しです、姐様!」


「コル! 構えな!」


「分かりました!」


 時間がない。もう鉄扉は破られる。ハードディスクドライブは、持ち出すにはソラの体にとって大きすぎる。データの吸い出しも間に合わない。次に取るべき行動は、逃走の一択だ。何か役立つものはないのか。持ち出せるものを探れ。


 があん、と轟音を立てて鉄扉が部屋の中へと倒れ込む。その直後、カルミアとコルチカムを筆頭に、女たちが実弾銃を構えて抜け目なく進入した。それを鉄扉横でやり過ごし、レイジは頃合いを見て線路上へと飛び降りた。口には、カルミアの端末を咥えて。


「誰も、いない……?」


 女の一人が言うのを背に聞きながら、レイジは出来得る限りの速度で出口へと急ぐ。


「猫だ、猫がいない! クソッタレ! 油断した、あいつが何かをしたんだ!」


 カルミアの怒号が耳に届く頃、レイジはホームに上がり、階段へと到達していた。跳躍コマンドを何度も繰り返し、四段飛ばしで駆け上げる。


「アニマロイドを探せ! 逃すんじゃないよ!」


 ソラの銀の体色を目の端で捉えたガーデンの子どもが不思議そうにこちらを眺めている。ソラちゃんが何か悪いことをしたのだろうか、という目で。


 カルミアの声が何度も響く。逃すな、捕らえろ、と。


 レイジは四足走行で軽やかに女たちをすり抜けることなどできない。できるのは跳躍のみだ。スタン・テイルで女たちを攻撃することは選ばなかった。飛びつき、尾を当て、電撃を加えるなど、今の彼には難度が高すぎる。


「見つけました! 今、改札階にいます!」


 大声で状況を伝える女が腰を落として両手を広げる形でレイジを待ち構えている。彼は、出来るだけ距離を詰めてから跳躍し、女を避けた。体が天井に接触するほど大きく跳びはねたので、バランスを崩して頭から地面に落ちる。姿勢制御コマンドを実行。片前足で衝撃を和らげ、もう片前足で体勢を整え、両の後ろ足が着地した途端、さらに駆ける。


「すみません姐様! 逃しました! 八番出口に向かっています!」


 柱の続く通路へと差し掛かり、貸しロッカーの横を通り、さらに現れた女二人を跳躍して躱すとさらに階段を上った。夜の有毒雨の下に躍り出ると、真っ直ぐスクランブル交差点へと向かおうとする。


 だが、レイジはそこで走ることを止めた。否、止めざるを得なかった。


 眼前に、何かがいた。人型をしているが、普通の人間よりもふた回りは大きな何かだった。足元には衣服だった物らしき布切れと、防毒マスクが落ちている。


「ああ、クソッ。もう“転化”しちまった。もう少しもつって話だったじゃねえか」


 人型のそれは、人語を使って悪態を吐く。そして、何かを口元──斜めに引き攣れた裂け目──に運んだ。くちゃり、くちゃり、と咀嚼音。


「中で何やってんだか知らねえが、魔女ぶっ殺してえのによお。待たせんじゃねえよ」


 でもよ、とそれが言葉を続ける。


「雨の中でもマスクがねえってのは気持ちがいいもんだ。ああ、頭も冴え渡ってやがる。最ッ高だな」


 高精度の暗視状態を起動したレイジは気付いた。それが食べているのは、人間だ。人間の脚を食っている。そばに落ちている布切れの下に、捻じ曲げられた実弾銃が隠れていた。それは、おそらくその持ち主の、ガーデンの女を食っている。


「ああ? 猫型アニマロイドか? なんかどっかで見たような……ああ、クソ思い出せねえ……」


 それがだらりと腕を下ろすと、指先が地面に着くほどに長い。太い脚、爪の伸びた巨大な手、同じく伸びすぎた頭髪。レイジに毛穴があれば、立毛筋が全力で働き出すほどのおぞましい姿だった。


「いた! 姐様、外です! レイヴンの使いがいる辺り、に……!?」


「どうした!?」 


 出口方面から聴こえたカルミアの声に、それは口を嬉しそうに歪めた。


「さあて、魔女狩りだあ!!」

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