第十八話 遠い憧憬
「ミサキ?」
「え? あの……すいません」
ヴァスィルと別れてから、エゼルバルドとの会話に身が入らない。今も何を話していたのかわからない。
「大丈夫か? 何か希望があれば……」
「……早く帰りたいと思っているだけです」
そう告げればエゼルバルドが沈黙すると分かっている。
別れの言葉もなく、突然置いて行かれたことは捨てられたのだとしか思えなかった。ヴァスィルは悪くない。私が淡い想いを抱いていただけで、まとわりつく子供をあやすように優しかっただけだ。
そうだと分かっていても辛い。
あの美しい赤い竜は、きっと遠くの国で美しい
異世界に呼ばれたというのなら、どうしてヴァスィルの番じゃなかったのか。
手に入れられなかった綺麗な竜を何度も繰り返し想う。
窓から見える青い空には、赤い月と緑の月が浮かんでいる。二人で作った花畑が無残に壊された光景を見ていたのに、ヴァスィルが迎えに来てくれるのではないかと期待する自分がいる。赤い輝く竜の姿を空に探してしまう。
「もう少し食べなければ駄目だ」
空を見ていた私に、隣で座っているエゼルバルドが声を掛けた。そうだ。食事中だった。
「ごめんなさい」
私には、もう、何もかもがどうでもよかった。
■
異世界での失恋は、私の精神を不安定なものにしていた。夜中にふらりと温室に向かってしまう。毎回エゼルバルドが止めても、私は泣き叫んで振り切った。
抉れて荒れた地面から、小さな芽がでても心が動かない。
倒れてこのまま小さな花になれば、ヴァスィルが戻って来て、あの笑顔を向けてくれるかもしれない。そう思って何度も地面に倒れ込んだのに、目が覚めると何故か部屋のベッドに寝かされている。
「ミサキ、おはよう」
エゼルバルドが優しく微笑んで、私をふわりと包んだ。
「……ごめんなさい」
「謝らなくていい」
エゼルバルドの優しい声も、温かい腕も、私の心には届かなかった。
■
私は竜の
番がこの世界のどこかで発生すると、竜族は感知して迎えに行く。
一生番と出会えない竜もいるという記述に心が揺れる。番がすでに他の者と婚姻している場合は諦めるしかなくても、発情期には無理矢理奪ってしまうこともあるらしい。
戻ってこないと分かっていても、それでも戻って来て欲しかった。
■
ある日私は高熱を出した。医者を呼ぶという提案を私は拒否した。
「……イダとサミルの葉とカラキの根、リジドの地下茎、ラガの花を生のまま煎じたものを飲めば、この熱は下がります」
高熱にうなされながらも、私は薬草の名を口にする。すべて魔女の知識。
「それは……」
エゼルバルドが困惑顔になる。サミルとラガは本来は高山にしかない。
「全部、塔の温室にあります」
「わかった」
エゼルバルドが席を外し、戻ってきた時には薬を携えていた。薬を飲んで熱が下がっても、エゼルバルドはずっと手を握ってくれていた。
■
夢の中、私は男と温室で薬草を育てていた。
水の入った重い木桶を持とうとすると男が笑って取り上げる。
『少しくらい重くても平気よ?』
「これぐらいはやらせてくれ」
『体がなまったらどうするの?』
「洗濯の方が重労働だろう?」
ひしゃくで水を撒きながら、薬草の名前と効能を確認し合う。男は、いつかこの薬草で作った薬を国民に配ることができるといい、と夢を語った。
『そうね。それは素敵な夢だわ』
私が微笑むと、男が少し恥ずかし気な笑顔を見せた――。
■
私は居間の窓際に置いた椅子に座っている。青い空には赤と緑の二つの月。中庭の景色は相変わらず雪の壁で出来た迷路のようで、時折歩く人を目で追う。
「ミサキ、食べてくれないか?」
「え?」
いつの間にかエゼルバルドが私の横に立っていた。
「随分やせた。見ているのがつらい」
「そうですか?」
自分では全然わからない。ただ、体が軽くなったようには思うので、気分はいい。
「ラドゥルの実だ」
そう言って差し出された木の皿には、赤いラズベリーに似た実が盛られていた。
「綺麗な赤色ですね」
「そうだな。綺麗な赤だ」
一粒摘まんで光に透かしてみると、綺麗な赤色。ヴァスィルの赤とは違うけれど心が囚われる。
私はあの赤色に憧れていた。自分はその隣に立てないとわかっていたのに、どうしようもなく好きだった。
口に入れて舌で転がす。ひやりとした温度がぬるくなってきた頃、噛み潰すと爽やかなラズベリーに似た果汁が喉に落ちる。
エゼルバルドが安堵の息を吐いて私の肩を抱く。少し強い手の力に釣られるように私はエゼルバルドを見上げた。
「……エゼルバルドの目は綺麗な色ね」
今、気がついた。エゼルバルドの目の色はヴァスィルと同じ紫色だ。
「そうか?」
手を伸ばせばエゼルバルドが屈んでくれた。そっと頬に両手を添えて、ヴァスィルと同じ紫水晶のような瞳を覗き込む。
そういえば、あの日から深いキスをされていない。頬や額、髪に軽いキスばかり。夜も優しく抱きしめてくれるだけだと気が付いた。
「……私、もう要らないの?」
口にしてから馬鹿な質問をしていると思った。あれだけ心の中で拒否しておきながら、深いキスをされなくなったことに不安を感じている。
ヴァスィルに捨てられて、エゼルバルドにも捨てられたら怖い。自分勝手な話だけれど、たぶん、それだけのことだ。
「俺はミサキが必要だ。ミサキが好きだ。俺のことを好きになってくれないか?」
エゼルバルドが優しい笑顔で頬にキスをする。
紫の瞳に真っすぐに見つめられると、ヴァスィルを思い出して心が痛い。
「でも、私、ヴァスィルが好きなの」
私は初めてエゼルバルドの前で火竜の名を出した。
「それでもいい。その竜が迎えに来るまででもいい」
「迎えになんて来ないわ」
口にして涙が溢れた。絶対にヴァスィルは迎えにこないことはわかっている。煌めく火竜は番を見つけてしまった。私のことなんて忘れてしまっているだろう。
ふわりと優しく温かい腕に抱き込まれた。エゼルバルドの心臓の音が聞こえる。
「ミサキ、我慢しなくていい」
エゼルバルドの腕の中で、私はヴァスィルを想って泣き続けた。
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