洲崎遊郭編 2

 数日後、蓬莱が数名と買い出しに出ると、スーツ姿の中年紳士が話しかけてきた。

「蓬莱さまですね? 私の主人、武本がお目にかかりたいと申しております。まことに勝手な申し出で恐縮ですが、ご同行いただければ幸甚です」

 そう言うと頭を下げた。その物腰の柔らかさとは異なり、かなりの腕前であることがわかった。それにおそらく一人ではあるまい。周囲にそれらしい者がいる気配を感じた。

「承知しました」

 蓬莱はそう言い、他の片目衆にはそのまま買い物を続けるように指示する。

「おひとりで大丈夫ですか?」

「気にするな」

 蓬莱はそう言うと、男に案内されるままついていった。


 洲崎遊郭にほど近い路地の奥に武本の屋敷はあった。新しく建てたらしく木の匂いがする。門を抜けると立派な庭園が広がっている。予想していた以上に立派だな、と蓬莱は警戒を強める。

 玄関で錐刀と苦無を取り上げられた。当然のことだと思ったが、いささか心細い。

「こちらでお待ちください」

 邸内に通され、客間らしい和室で待たされた。小半時ほど経つと、女たちが次々とやってきて卓を並べ宴の準備が始まった。蓬莱の前にも卓がしつらえられ、料理が並ぶ。

「なんの騒ぎでしょう?」

 蓬莱が訊ねると、

「あんたの歓迎に決まってるでしょう」

 と女たちが笑った。どういうことかわからないままいると、小柄ながらもいかつい男が入ってきた。

「よく来てくれた。礼を言う」

 蓬莱を見るなりそう言うと、蓬莱の正面の卓についてあぐらをかいた。

「わしは武本申策。あんたは最近こっちに越してきたみたいだから一度話をしてみたいと思っていたんだ。忙しいとこに失礼だと思ったが、こうやってお誘いした次第だ」

 そう言うと頭を下げる。

「ありがとうございます」

 蓬莱も頭を下げた。武本はそのままこの地のことについて勝手に話し始めた。その間に続々と五人の男たちが入ってきて、卓につく。

「あの、申し遅れました。蓬莱霞と申します」

 武本がずっと話し続けていて名前を名乗る機会を逸していた蓬莱は、武本が一息ついたところで名乗った。

「うん、知ってる」

 武本がそう言うと、他の者が笑った。

「武本さんは昨日から、蓬莱霞と会うんだって騒いでたからな」

 なぜ、そこまで自分に固執していたのだろう? 蓬莱が訝しく思った時だ。

「おい」

 何気なく武本が言うと、音もなくすっと蓬莱の後ろの襖が開き、日本刀を構えた男が現れた。男が踏み出す前に、蓬莱は身体をひねって不思議な動作を見せる。すると男は刀を振り上げたまま動かなくなった。

「”惑いの蓬莱”の名は伊達じゃなかったな。なるほど、これはすごい。百人斬りも噂だけってわけじゃなささそうだ」

 武本は両手を叩いて喜んだ。どうやら本気ではなく、悪戯だったらしい。

「ご存じでしたか、試したのですね」

「すまん」

 武本は鷹揚に頭を下げる。武本ほどの男が簡単に蓬莱のような素性の知れない者に謝ったことに蓬莱は驚いた。予想していた以上の人物かもしれない。

「これは返しておく。手元にないと落ち着かないだろう」

 武本はそう言うと玄関で取り上げられた錐刀と苦無を差し出す。

「ありがとうございます」

 蓬莱は二本の錐刀を受けとって、傍らに置く。

「ちょっと見たが、変わった得物だな」

 武本は錐刀を指さす。

「蛇腹剣の錐刀にございます。操作をすると刀身がいくつもに別れて長さや形が変幻自在になります。銀昏錐刀と呼んでおります」

「蛇腹剣? なんだ。そりゃ?」

「ちょっと言葉では説明しにくいのですが……」

「じゃあ、なんかやってみせてくれ」

「では、"蝶の夢"という技を披露いたします」

 おかしなことになったものだ、と思いながら蓬莱は銀昏錐刀を両手に持って立ち上がった。とはいえ、室内でできる技ではない。窓に面した障子が開け放たれていたので、そちらに移動する。

「こちらのお庭をお借りしてもよろしいですか?」

 武本に尋ねると、「自由に使ってくれ」と返ってきた。懐から足袋を出してつけ、庭に出た。

 武本と取り巻きは縁側に立ち、蓬莱は庭木のない場所を選んで立つ。

「では、まいります」

 そう言うと両手に銀昏錐刀を構え、大きく波のように振る。錐刀はいくつも刃に分かれ、さながら銀色の鞭のようになる。それから空中に広がり、波打ち始めた。夕陽を反射して光が降ってくるような幻想的な風景が広がった。

 武本の取り巻きは手を叩いて喜んだが、武本は真剣な眼差しで見ていた。

「お目汚し、失礼しました」

 一同がその声に振り向くと蓬莱がさきほどまで座っていた位置に戻っていた。足袋まで脱いでいる。びっくりして庭を見ると、さきほどまでの景色は消えていた。

 静まりかえった。もしこれが斬り合いだったら全員背中から刺されていた。

「命拾いしたな」

 武本が苦笑した。

「私をここで仕留めるつもりだったのですが?」

「違う。お前じゃない。わしのことだ。あんたを怒らせたら、わしは死んでただろうなってことだ。さしずめ百一人目ってことか」

「いえ、他の方を含めて百六人目にございます」

 蓬莱は武本の周囲の者を目で数えて答える。

「はっ、こりゃ一本とられた。だが、全員死んでいたのは間違いねえ」

 武本は豪快に笑い、つられて周りの者も笑う。蓬莱はほっとした。

「呑もう。今日の酒はうまいぞ」

 武本がうれしそうに叫ぶと、さきほどの女たちが酒を持って現れた。


 杯を重ねても顔色を変えず、平然としている蓬莱を見て武本はえらく感心した。実際のところ蓬莱はそこそこ酔いが回っていた。そのせいでうっかり本屋を仇として狙っていることを話してしまった。武本は想像とは違ってかなりの知識人で、政治家や文化人とも交流があった。蓬莱の本屋についての説明にいちいちうなずき、感心し、本を使って人心を惑わし混乱を招く輩は放置できないと蓬莱に同意した。さらには去り際には困ったことがあれば相談に来いと言って、金子までもたせてくれた。

「遊郭を仕切ってるのは生井一家で、知らない仲じゃない。だが、借金を返して店を辞める女を止めるのは筋が通らない。かといって表だって、それを止めるのもわしのすることじゃない。そういうことだ」

 どいうこととだかわからないが、要するに救世軍にも蓬莱にも敵対しないということなのだろう。

 洲崎の殿様と呼ばれていい気になっているちんぴらと思ったが、武本は言葉使いや態度は荒っぽいが、非常に紳士的でていねいだ。そして驚くほど博識で人脈も広い。洲崎から日本全体を見通している。殿様と呼ばれるだけのことはある。

 人の縁とは不思議なものだと少し酔いの回った頭で蓬莱は考えた。天上には下弦の月が輝いている。片目の冷たい目を思い出して鳥肌が立った。会いたいと痛切に思う。

 武本申策と酌み交わしたことで蓬莱たちは一目置かれる存在になった。武本が正体を秘密にしてくれたおかげで、さまざまな憶測が乱れ飛んだ。「伊賀の抜け忍」というのは笑ったが、結局「事情があって身を隠している忍者だか武家の女どもらしい」に落ち着いた。目立ちたくはなかったが、否応にも目立つこととなり、その後も娼妓たちの足抜けを手助けすることになった。

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