木場の決意

 霧香が目を覚ましたのはそれから二時間後のことだった。ガマ警部が改めて彼女の部屋を訪ね、事情を問い質したところ、霧香は次のような告白をした。プレゼントを屋敷に忘れて取りに帰ったというのは被害者を一人にするための口実で、実は最初からプレゼントは持ってきていた。そして、被害者が一人になって油断したタイミングで車椅子ごと被害者を突き落としたー。つまり、霧香は自供したのだ。直ちに霧香は逮捕され、署で詳しい取り調べがなされることになった。

 木場は最後まで信じられなかった。だが、あらゆる証拠や証言が霧香を犯人と示している上、本人が自白したのだ。もはや疑いの余地はない。警視庁に向かうパトカーの中で、木場はすっかりしょげ返っていた。自分は最初から騙されていたのだろうか。あの儚げな雰囲気も、慎ましやかな態度も、全ては捜査の目を免れるための演技だったのだろうか。

 だが、これほど絶望的な状況にあっても、木場にはどうしても霧香が犯人だと考えることは出来なかった。根拠があるわけではない。被疑者に入れ込むなとガマ警部にも散々釘を刺された。それでも木場が彼女を信じようとするのは、自分しか霧香を信じる人間がいないと思ったからだ。警部を始め、捜査員はみんな霧香が犯人だと考えている。もし彼女が無実なら、自分の彼女の潔白を証明しなければ、霧香は本当に殺人犯にされてしまう。もちろん自分が騙されている可能性はある。それでも木場は、最後まで霧香のことを信じていたかった。


 署に戻り、木場が最初にしたことは、現場から見つかったもう一つの証拠品である指輪を調べることだった。結局指輪が被害者のものかどうかはわからないままだったが、霧香の自白が取れた以上、捜査官の間では被害者のものとして片づけられたようだった。だが木場は納得がいかなかった。霧香はあの指輪を見て明らかに動揺していた。あれが被害者のものなら、霧香があそこまで動揺する理由がない。自分が疑われたことで気が高ぶっていたのかもしれないが、木場にはそれだけだとは思えなかった。あの指輪には、何かもっと大きな意味が隠されているように思えてならなかった。

 鑑識を訪れた木場は担当者を呼び出した。五分ほど待たされた後、一人の年配の男が現れた。胸のネームプレートには「富岡」と書かれている。その道二十年といったいかにもベテランの風格が漂う男で、擦り切れた鑑識の服が身体の一部のように馴染んでいる。エラの張った顔と太い眉毛が気難しそうな印象を与え、木場は早くも断られるのではないかという気がしてきた。

「あの、お忙しいところすみません。ちょっとした調べて頂きたいものがありまして…。」木場がおずおずと言った。

「あんた、どこの課の人間だ?」富岡が太い声で尋ねてきた。

「え、はい、自分は捜査一課の木場という者です!」

「一課か。何の事件の証拠だ?」

「あの、先日起こった岸壁にあるお屋敷の殺人です。被害者の名前は雨宮宗一郎と言って…。」

「あぁ、あの富豪の事件か。だがあの事件の捜査はもう終わったんじゃなかったのか?」

痛いところを突かれ、木場は言葉に詰まってどうしたものかと頭を巡らせた。

「ええ、実は公式にはそうなんですが、どうしても気になる証拠品がありまして、一つ調べて頂けないかと…。」

「捜査が終わった事件の証拠品をか?あんたみたいな新米の一存で?」富岡が片眉を上げた。

「無茶なお願いなのはわかってます!ですがどうかお願いです!この証拠から新しい事実がわかるかもしれない。それをうやむやにしたまま事件を終わらせたくないんです!」

木場はそう言って勢いよく頭を下げた。富岡は角張った顎を突き出して木場を見下ろしていたが、やがてぽつりと言った。

「…見せてみな。」

「え?」木場が意外そうに顔を上げた。

「俺だってこの仕事は長いんだ。調べられていない証拠があるまま事件が終わるってのは気に食わねぇ。たとえそれが現場の意向だとしてもな。」

「あ…、ありがとうございます!」

木場は勢いよく頭を下げると、ポケットから透明のビニール袋に入れた指輪を取り出した。富岡は袋を受け取ると、目を細めて指輪をじっと見つめた。プロの目つきだ。

「なかなか珍しいデザインだな。現場から見つかったのか?」

「えぇ、被害者の車椅子から見つかりました。イニシャルも一致していますし、被害者のものに間違いないとは思うんですが、念のため調べて頂きたいんです。」

「いいだろう。だが指輪の持ち主を調べるだけなら、ホトケさんの指にはめてみりゃあすぐにわかるんじゃないのか?」

「それが…、被害者の死体は海の中にあった時間が長かったために膨張していて、指輪をはめることが出来なかったんです。」

「なるほどな。それなら被害者の遺留品と指紋を照合することにしよう。そう時間はかからん。すぐに調べてやるからここで待ってろ。」

富岡はそう言うと指輪を持って奥の部屋へ引っ込んでいった。自分の仕事に妥協を許さず、気になることがあれば現場の意見に反してでも徹底的に追求する。そんなプロとしての富岡の姿を木場は眩しそうに見つめた。

 富岡が戻ってくるまでの間、木場は近くの椅子に座り、祈るような思いでその結果を待ち続けた。そうして二十分ほど経過した後、富岡が首を捻りながら奇妙な顔をして戻ってきた。木場は不安な思いでその顔を見つめた。いったいどんな結果が出たのだろう。

 富岡が受付のカウンターに手を突き、視線を落とした。木場はじれる思いで富岡を見つめた。やがて富岡は大きく息をつくと、重々しく言った。

「…結論から言う。指輪の指紋は、被害者の指紋とは一致しなかった。」

木場はぽかんとした。思いがけない結果に、すぐには頭が追いつかなかった。

「え…、本当に!?間違いないんですか!?」

ようやく理解が追いつき、木場が前のめりになって叫んだ。興奮のあまり頬が上気している。

「あぁ、被害者の遺留品といくつか照合したが、どれも一致しなかった。俺もまさかこんな結論が出るとは思わなかったが…。」富岡が思料するように角張った顎に手をやった。

「でも、被害者のものじゃないなら、この指輪は誰のものなんでしょう?」

「さぁな。念のため、他の関係者の指紋とも照合してみたが、一致するものはなかった。事件と関係ないのかもしれんな。」

さすがプロだ。すでに他の関係者との照合も済ませているとは仕事が早い。だが指輪が事件に関係ないとなると、木場は完全に手がかりを失ってしまう。木場は頭を抱えた。何か他に方法はないのだろうか?

「どうしてもその指輪が気になるってんなら、まだ捜査線上に浮かんでいない奴を探ってみみたらどうだ?」木場の様子を見かねたのか、富岡が言った。

「捜査線上に浮かんでいない人間?」

「あぁ、関係者の指紋と一致しなかったのなら、関係者以外の人間が指輪の持ち主ってことだろう?もし関係者以外で怪しい人間を見つけたら、そいつの指紋がついたブツを持ってこい。そうすりゃまた俺が調べてやる。」

「いいんですか?」

「あぁ、俺もこのままじゃ寝覚めが悪い。ここまできたら最後まで協力してやるさ。」

思いがけず頼もしい味方を見つけ、木場の顔がみるみる明るくなっていった。木場は富岡に向かって何度も頭を下げると、指輪を受け取って鑑識を後にした。

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