第19話


「兄上」

 アーサーの歩みは止まらない。

「兄上っ」

 衛士らが警備する廊下を抜けて、奥まったところにある露台のような場所で立ち止まった。

「あに――」

 眺めは良く、視界を遮るものはなにもない。ここならば多分、誰かに狙われることもないだろうが。広大なベインズ領の向こうに連なる山脈を見つめる兄の後ろで、ウィリアムも足を止めた。

「危険です。衛士もいるとはいえ……」

「本望だ」

 つい数時間前に自分が言ったのと全く同じ言葉にウィリアムは目を見開いた。

「本望だったさ。いつか彼女の手の者にこの命を奪われても、その先に彼女の平穏があるなら」

「……」

 まさか、とは思っていた。それが野望めいた、父や叔父らに対する復讐のような思いからでも、そうなってくれたらいいのにと、そうなれば自身はこの重荷から解放されるのにと、なかば諦めながら、わずかな希望を抱いていた。

 それなのに、とウィリアムはうなだれるアーサーの後ろで息を呑んだ。

 アーサーはフレデリカを愛している。

「…… 以前から考えていることがあります」

 つとめて慎重に言葉を紡ぐが、アーサーの反応はない。

「この国の根幹と、フレデリカにかかわることです」

「―― 聞こう」

 アーサーがようやく振り向いた。

「推測の域を出ません」

 薄暗い色をした瞳に見つめられて、思わず後ずさりそうになりながら言う。アーサーは灰色の目でウィリアムをしっかりと見据えたまま、言ってみろ、と促した。

「―― 俺は、建国王クリスティアンは、女性だったのではないかと思うのです。クリスティアンだけでなく、そのほかの、例えば線として濃厚なのは人前に姿を見せなかった王だとか…… 無論、それらの王全てが女性だったとは言いません。けど、半数、いえ少なく見積もっても三割程度は女性だったのではないかと、ずっと思っているんです。俺は。…… 物語の読みすぎではとお呆れになるかもしれませんが」

「それで?」

 アーサーはウィリアムの考えを途中で遮ることも嗤うこともなく聞いて、続きを促した。

「まだ先があるんだろう」

 ウィリアムは頷き、渇いた喉に自らの唾を音を立てて流し込んだ。

「この国は元々金髪碧眼の男神アーロンと、黒髪に銀色の瞳を持った女神ニケスを崇拝していました。二神とも平等に。今でもそういう地域が、あるにはあります。その筆頭が、デュマ領の最南端。王城から最も遠いところです。一方で、多くの王を輩出しているベインズはアーロンを強く崇拝する傾向にある。神殿の壁画などもそうです」

 途中でウィリアムは兄の顔をうかがうように言葉をとめた。表情を変えない兄に、おずおずと続きを口にする。

「これを起点とする、何か大きな確執がデュマとベインズの間にあった。それを父上とデュマ公爵が変えようとした。―― 互いの家に生まれた、同い年の寵愛者同士を結婚させることによって」

「―― つまり?」

「フレデリカは、エリオットの…… ひいては王配候補だったのではと考えます」

 ウィリアムの口から結論までを聞き届けるとアーサーはようやく視線を外し、息をついた。

「それをよく思わない連中は両派閥にいる、か」

 沈黙でもって肯定の意を示したウィリアムの硬い表情とは反対に、アーサーはくっと笑いをこぼした。

「やっぱりお前があそこに立つべきだ。…… 所詮妾の子だな、俺も。正妻の子には敵わないらしい」

 目の前に立つ男は、ウィリアムの知る兄王子ではなかった。長い前髪が頬に影を落として、どこか頼りなく、例えるならそう、まるで迷子の子どもみたいに。

「気付いたさ、勿論。でも確証がなかった。ほとんど勘だった。そんなものでこんなところまで来て、挙句自らの従者にまで疑いの目を向けて、自分が狙われた。滑稽だろ」

 アーサーは露台の柵に背中を預けてそのままずるずると床へ座り込んだ。

「もう、疲れた」

 このとき、ウィリアムは初めてアーサーと対等になったような気がした。ずっと上の方へいるのだと思っていた兄が、今では腰を下ろせば視線を合わせられる位置にいる。

「なあ、ウィル」

 アーサーがこんな縋るような声を出すのを初めて聞いた。

「頼みがあるんだ」





「頼みというのは……?」

 フレデリカの目の前に座る女性が淑女然とした態度で問うた。亡きベインズ公爵が妻、ウィリアムやアーサーの叔母ソフィアはフレデリカの頼みを最後まで口を挟まず黙って聞いて、それからゆっくりと口を開いた。

「駄目よ」

 が、先に声を発したのはコーデリアだった。彼女は紅茶のお代わりが入ったティーポットをテーブルに置くときっぱりと言った。

「継承者としての部分ならともかく、あの子のあの子たる部分に触れる権利なんて誰にもないわ。それとも、同じ神の愛し子で、なおかつ王となる人間ならそれを侵す権利があるとでもお考えなのかしら」

 コーデリア、と母親が諌める声も聞かず、娘は続ける。

「それ以前に、先日の火事で家にあったものはほとんどが駄目になりましたもの。あの子の部屋にあったものそうですわ。本が好きな子でしたから」

「ほとんど、ということは残っているものもあるのではないですか」

「母が助かったのは確かに継承者様のおかげかもしれませんけれど、あの子にだって人並みの権利があるはずですと申し上げているのですわ」

「でも……!」

 なおも食い下がるフレデリカに埒が明かないと思ったのかコーデリアは部屋の出口に歩み寄った。扉に手をかけるのを見てフレデリカは慌てて言う。

「私がっ、エリオット様の婚約者だったとしてもですか」

「だからこそよ」

 コーデリアはフレデリカを見ないまま言って部屋を出た。

(たぶん私は、この人を一生赦すことができないんだろう)

 ウィリアムを。

 アーサーを。

 弟を。

 彼らを平等に苦しめ続けたこの長い回廊は、コーデリアを苦しめることはきっとない。

 コーデリアは階段を降りてアーサーたちの部屋があるのとは反対の西側の棟にあてがわれた客間に入った。母の部屋の真下、たった今出てきた部屋の斜め上。窓の外の景色はあまり良くない。ベインズの屋敷でも、コーデリアの部屋は眺めがいいとは言えなかった。窓の外にある樹木は、エリオットが部屋からの脱走に幾度となく利用したため、エリオットにはそれはそれは眺めの良い部屋が与えられていた。

 寝台の横に置いた小さな棚の、一番下の抽斗を開け、コーデリアは安堵の息を吐いた。部屋の鍵はかかっているし誰に奪われることもないのだが。

 抽斗の中に重ねられているものを一枚手に取る。開けたことはない。やや黄ばんだ、けして貴族が使うようなそれでない封筒の表には幼い文字がしるされている。

 “神に愛された貴女へ”―― と。

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神の愛の在り処 水越ユタカ @nokonoko033

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