乙女椿の咲く家

オボロツキーヨ

椿寮

「えっ、私の新婚時代の住宅事情を聞きたいですって。昭和30年頃、もう半世紀以上前ね。当時はまだ、お米を月一回の配給券で買っていた時代よ。結婚してすぐに東京の本社へ転勤になって、東京都武蔵野市の西窪にしくぼで暮らしたの。椿寮つばきりょうという社宅で、戦前に建てられた古い大きな一軒家。門を入ると左側に梅の木。あんなに風情のある大きな梅の木は見たことがなかったわ。飛び石を踏んで玄関へ向かう途中にピンクの乙女椿おとめつばきが何本も植えられていて、可愛くて見とれてしまった。その時は、将来家を建てたら絶対に乙女椿を植えようと思った。でもね、乙女椿はもう見たくない。


 家の北側には、見上げるような高さのやぐらが建っていて、びっくり。

なんと、井戸水をモーターポンプで櫓の上に置かれたタンクへ汲み上げて、それを家の中に引いていたの。それまで住んでいた青森市は水道水だったのに。でも、今も武蔵野市の水道水は井戸水が八割含まれていると聞いたわ。さすが武蔵野台地、美味しい地下水が豊富なのね。

 

 先にもう二組の新婚さんが住んでいて、私たちは三組目の入居者。玄関とお風呂トイレ洗面所は共同。お風呂はまきで焚く。お風呂当番があって、お湯が沸いたら、お風呂どうぞと声をかけ合う。暖房は火鉢ひばちだけ。東京の冬は生まれ育った青森よりも寒いと思ったわ。東北は薪ストーブだから部屋はいつも暖かいのよ。


 一階と二階に二家族ずつ住めるようになっていて、一階は南側の庭に面した部屋が三つ。廊下をはさんで北側に台所が二つ。

玄関を入ってすぐ左手の客間の八畳一間を割り当てられた。東南の角部屋で出窓付き。濡れ縁もあった。窓の外側にある縁側のことよ。いい部屋だったけれど、うちだけ台所が部屋から離れていた。廊下を出て玄関の前を通って、つき当たりに古くて暗い台所。料理を運ぶのが面倒で、三畳ほどの台所に無理に小さいテーブルと椅子を二つ置いた。古い漆喰しっくいの壁がボロボロ剥がれ落ちたり、木の天井板の隙間すきまから、天井裏のゴミが時々落ちてきて気持ち悪かった。隣の家族の台所は新しくて、部屋の前だから食事を運ぶのも楽なのに。

 

 西窪荘はガスを引いていなかったから、石油コンロよ。台の上に四角いテーブル型の石油コンロを載せる。胸のあたりまで高さがあった。私は背が低くいから鍋をのぞき込むように料理したわ。スイッチを入れて石油コンロの芯を出してマッチで火をつける。

 

 氷屋さんが毎日大きな氷を入れかえに来てくれる、氷冷蔵庫を買ったわ。木製の二つドアで二段になっているの。内側はブリキ貼りだったかな。上段に氷を置いて下段に食べ物を入れる。氷が溶けて冷たい水が下へ流れていく仕組み。今の冷蔵庫ほどは冷えないけれど、長時間冷たいのよ。

 

 北側にお風呂と洗面所、北西の角にトイレが二つ。洗面所で大きなブリキの洗濯たらいをかたむけて手洗い。細長い流しだからね。当時、もう粉石けんがあって、浸け置き洗いができて助かったわ。固形石鹸は洗濯板でこすらないと汚れが落ちないから大変。家事は重労働だった。


 廊下をへだてたお隣さんは六畳二間を使っていて、夫婦とご主人の妹の三人家族。二階はうちと同じで、夫婦二人。六畳と三畳を使っていた。階段は玄関入ってすぐ。ふすまですもの。廊下に出るといびきや話声がよく聞こえたわ。

 

 そういえば、玄関の鍵をかけた記憶が無い。夜遅く帰ってくるご主人もいたからね。今なら信じられないでしょう。もちろん部屋に鍵は無い。のどかというか無用心ね。呼び鈴も無かった。

 

 一年の半分近くを雪に埋もれて暮らすのが嫌で、とにかく雪国から逃げ出したかった。でも、当時の武蔵野は東京なのに、田舎でがっかり。賃貸住宅は少なくて、家を借りるのは簡単じゃなかった。西窪荘から少し歩くと、できたばかりの四角いコンクリートの団地が見えた。憧れたけど高嶺たかねの花だったわね。

 

 最寄り駅は三鷹よ。お店は少ないから、よくバスで五日市街道を通って吉祥寺へ行った。小さいデパートがあってね。時々、中央線に乗って新宿へ行ったの。さすがに伊勢丹は大きかったわ。中央線に乗っていて上り電車と下り電車が出会い、すれ違って走る時、ガタンゴオオオオオーって、もの凄い音がするでしょう。あれにゾクゾクしたものよ。ああ、都会に来たんだなって、その時だけ実感できたのよ」


「ところで、おばあちゃん、どうして乙女椿が嫌いになったの」


 来月結婚式を控えた私は新居探しをしている。物件は多いけれど、条件に合う部屋が見つからない。多摩センター駅近くの高層マンションに住んでいる祖母を訪ねた。おみやげの吉祥寺銘菓のざさ最中もなかを食べながら、お茶を飲んで一休みしている。


「それはね、乙女椿を見ていると悲しくなるのよ」

深いため息をついた。

「え、でも優しいおじいちゃんと結婚して、その家で幸せに暮らしていたんでしょう」

「まあね。自分のことじゃなくて、西窪荘のお隣りさんを思い出すの」

沈んだ顔をする。

「あ、共同生活だから、人間関係大変だったとか」

「いいえ、皆同年代だし、まあまあ上手くやっていた。隣の奥さんの弓子ゆみこさんは、私よりも二歳年上で体格のいい、明るくて健康的な人。義理の妹のかおりちゃんは、華奢きゃしゃで丸顔のお人形さんのような、長い髪の可愛い人。私と同じ二十歳だった。でも、もっと若く見えた。ご主人の名前は忘れちゃったけど、細身でハンサム。香さんによく似ていた。弓子さんと香さんは、静岡県の同じ女学校の先輩と後輩で、香さんが弓子さんにお兄さんを紹介したそうよ」


「へえ、でも新婚家庭に小姑こじゅうとがついてくるなんて、変なの」

「そうよね。香さんは吉祥寺の洋裁学校へ通っていた」

「ふうん、花嫁修業中だったのか」

「実は、弓子さんと香さんは、どうやらただの先輩後輩じゃなくて、エスだったみたい。いつも二人で一緒にお風呂へ入っていたし、乙女椿の陰で抱き合っているのをよく見かけたわ」

祖母は苦笑にがわらいをした。


「びっくり。エスって昭和のガールズ・ラブだよね。ご主人は知らなかったのかな」

ハートにもカマキリの顔のようにも見える、不思議な形の小ざさ最中をほおばった。


 相変わらず元気でおしゃべりだけれど、すっかり年老いてしまった祖母の玲子。レトロなセピア色の写真を見ると、切れ長の目が印象的な和風の凜とした美人だった。若き日の祖母が部屋の窓辺にたたずみ、困惑している姿が目に浮かぶようだ。



 ある春の夕暮れ時に、玲子は庭に出てぼんやりと満開の乙女椿を眺めていた。

まるで甘い洋菓子みたいで、美味しそう。


「香ちゃん、お帰りなさい。あら可愛いスカート、ご自分で縫ったのね」

「そうよ、似合うかしら」

「ええ、とっても」

「今朝、お姉様も似合うって言ってくださったわ。私のこと乙女椿によく似ているって」

「え、ああ、そういえば、乙女椿色のピンク」

「ねえ、乙女椿の花言葉をご存じ? 」

香は玲子に腕をからませた。

「そんなの知らないわ。花言葉って何」

腕に香の体温と柔らかな胸のふくらみが心地良い。

「教えてさしあげる。乙女椿の花言葉は<ひかえめの愛>よ」


 長いお下げ髪にクリーム色のジャケット。ギャザーがたっぷり入った、どこかお姫様めいたスカートのすそを揺らしながら、玄関の奥に消えた。

玲子は、ふっとため息をつく。

「ずいぶん、のろけるのね」

 

 乙女椿は一体、何枚の花びらが重なっているのかしら。ぽってりとして細密で華麗なのに、清楚にも見える。花びらを一枚ずつめくっていったら、最後には何が出てくるの。ふと、花の中心の丸い部分には、裸の香ちゃんが膝を抱えて座って隠れているのではないかと思う。


「ふふふ、ばかみたい。親指姫じゃあるまいし」

部屋に飾るために、枝を一本パチリと花バサミで切った。


 

「しばらくすると、弓子さんに赤ちゃんが生まれたの。香ちゃんは叔母さんになったと大喜びよ。赤ちゃんのオムツや肌着を作ってはりきっていた。でもいつの間にか、お隣から赤ちゃんの泣き声と怒鳴り声ばかり聞こえてくるようになった。それは女同士だったり、ご主人を交えての言い争いだったり、修羅場よ。

 

 きっと弓子さんが疲れちゃったのね。赤ちゃんを育てながら、恋人とご主人の両方を相手するのは無理よね。ご主人に二人の関係がばれたのかもしれない。香ちゃんは洋裁学校を卒業して、東京で働きたがっていたけれど、隣の夫婦は地方へ転勤になるからと言って、静岡の実家へ帰してしまったのよ」

祖母は寂しげに笑う。


 

 玲子は夕飯の支度をしていた。あの人はどうせ今夜も帰りが遅い。暗い台所のテーブルに煮物と焼き魚を並べた。部屋へ運ぼうか、それともここで一人で食べようか迷っていると、ポタリポタリと何かが天井から落ちてくる。テーブルに白い米粒のような物が。

「キャーウジ虫ー 」

 

 天井裏でネズミが死んでいるのかしら。慌てて新聞紙をテーブルの上に広げた。

すると、廊下から誰かが台所をのぞいていることに気づく。顔を上げて、さらに悲鳴を上げそうになる。


「ああ、香ちゃん。どうしてここにいるの? いつ静岡から来たの? 」


 互いに数秒見つめ合うが、香は無表情のまま、くるりと後ろを向く。音も無く廊下を歩き、玄関から出て夜の闇に消えた。三つ編みをほどいて長い髪を垂らしていた。玲子は体の震えが止まらない。

まさか、香ちゃんの幽霊? でも足もあったし、玄関の戸を開けて出て行った。どうして何も言ってくれないの。触れてくれないの。


 


 多摩丘陵の空に浮いたようなリビングの窓から外を眺める。緑をバランスよく配した同じ形の建物がどこまでも続いていた。ここは一千万人が暮らす武蔵野台地のはずれ。


「もしかして、香さんという可愛い人は若くして亡くなったの? 本当は、香さんは、おばあちゃんの恋人だったりしてね。だから、乙女椿を見ると思い出して悲しくなるんでしょう。おばあちゃんは昔から可愛い女の子が好きだったよね」


 私は冗談で言ったつもりなのに、ふと祖母の顔を見ると、深いしわが刻まれた目尻が濡れて光っている。    (了)






























  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

乙女椿の咲く家 オボロツキーヨ @riwa

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ