第31話

 最近うちの家はおかしい。妹はかつて俺が教えていた塾の生徒であるまりこと、偶然にも仲良くなり一緒に勉強すると言って出かけることが増えたのにもかかわらず、成績は下がっていく一方で。


 恐らくは毎夜、勉強を大義名分に悪友と深夜徘徊にでも繰り出しているんだろう。

 父はといえばそんな娘にも無関心だし、仕事にかまけてどうやら不倫の疑惑もあるようだ。


 母は母で、俺に対して腫れ物に触れるように接してくるし、家族間のコミュニケーションを円滑に行える術を知らないみたいな人だった。


 大学受験のストレスからつい母に辛く当たってしまった延長で、俺はついに母に手を上げてしまった。それも、脅しのつもりで包丁を手にたっただけなのに、静止にかかった母親が逆に危ないもんだからつい突き飛ばしてしまっただけのことなのだけれど。


 事の発端は、塾講師で忙しい中、趣味として息抜きに見ていた今話題の人気現役女子高生のアイドルグループの動画だった。それが気に入らなかったのか、高校生相手の塾講師をしていた事で変に勘違いをしたのかどうかは知らないが、たまたま目撃した父さんが俺からパソコンを奪った。


 そんな経緯もあり塾講師さえやめさせられてしまったのだ。自分が惨めだった。


 大学にも行けず、バイトとはいえ仕事さえも親の権限で中途半端に親の言うまま辞めさせられて、いつだってこの家は父親に支配されていた。俺の心情を唯一把握している母親でさえ、俺の味方で居続けることを最終的には放棄してしまったのだから。


 そんな母も母で、最近はもっぱら最低限の家事以外は寝室にこもって、俺から奪ったパソコンで何かに打ち込んでいた。まさかとは思うがネットを介して浮気でもしているのではないかと今は疑っている。ただ、父に支配されるばかりで意見を言う度胸もない母に限ってそんなことはないと信じたい。


 ──今では、家族の誰もが母の奇行に触れない。真新しく仕入れた服をどこへ出かけるわけでもないのに着飾っては、年齢に見合わない化粧に巻き髪と、一昔前のギャルのような仕草や口調で1日を過ごすのだ。


 近所の目も気になるが、それ以上に地域住民との関わりも希薄になっているようで、これは母の留守中に回覧板を受け取った時に訴えかけられて分かった事なのだけれど。母は最近地区委員会によって取り決められたゴミ捨て場の掃除当番を果たしていないようなのだ。


 本人に自覚があるのかないのか定かではないが、これまでで交流のあった主婦仲間に対してまるで無視するように挨拶さえ交わさなくなり、たまに口にする言葉といえば、これまでとは違いあたかも自分が十代の世間知らずな女子であるかのような話し方で、流行り言葉の乱用だったと聞く。


 苦し紛れの若作りと、チャラチャラした立ち振る舞いは目も当てられないほどに痛々しかった。これも俺のパソコンが取り上げられて、母が何かに熱中するようになってからのことだった。きっと第三者の影響があってこれまでの変容を遂げたのだろうと、俺は推測しているのだが……。



 ──18時をまわった頃、近所に住む妹の友人であるまりこが自宅へ怒鳴り込んできた。何事かと思い階段の途中まで降りると、妹のさとみも一緒に帰宅していたようだが何やら様子がおかしい。何事かと思って聞いていると、母と口論しているようだった。


「あなたたちみんな自分のことばかりで周りが見えてない! 良い母親ぶってるのかもしれないけど、そんな若作りな化粧にミニスカートなんか履いて、女子高生でもあるまいし、どうかしてるんじゃないですか!? だから、私が成功していて、なんでも手にしていて若いからって、こうしてザマアミロって思ってるんでしょ? そんなだから旦那が離れていくのよ! それなのにこんな形で私に攻撃してくるなんて、私、絶対許さないから! 」


 激昂しているまりこ。あんな彼女は初めて見た。いつも冷静で、凛としていて、彼女があんな風に感情をあらわにするなんて、誰が想像できただろうか。


「もーやだぁ、大げさだなぁ、ほんの冗談じゃない? そんなので泣くなんてウケるんですけど。もしかして、私が限定のワンピ貸さなかったから、それで怒ってるのぉ? 」


 場の空気が凍りついた。


「何いってるの? お母さん? 」


 震える声でさとみが言った。


 この状況下において母の態度は普段と何一つとして変わってはいない。


 しかしまりこは異常者を見るような目で母さんを見ている。


 当たり前だが、さとみも母さんの言動に困惑している。


 ワンピースとは、何のことだろうか?


「ねえ、頭おかしいんじゃないの? こんなことして、しらばっくれるなんて、本当にどうかしてる。話にならないなら、出るところに出るまでよ。せっかく椎名のために穏便に済ましてあげようと思ってたけど、ここまで人をからかうなんて、手に負えない。マジでキモいんですけど。家族全員狂ってるんだわ」


「まってよまりこ、ねえ待ってってば! 」


 まりこがさとみの腕を振り払って、強引に去った後、さとみは思い出すかのように母に摑みかかると、二人はそのまま取っ組み合いの喧嘩を始めた。髪を掴まれた拍子に引っ掻かれた母は途端に青ざめて、


「ちょーウザいんですけど! 」


 と、さとみに吐き捨てると、洗面所へ向かった。


「何!? 今髪と化粧直しなんてしてる場合じゃないでしょ! 」


 どうやら自分の姿を崩された事で、鏡を見に行ったのだ。流石のさとみも母の常軌を逸した行動に呆然と立ち尽くしたまま、しばらくその場から動けないでいた。



 母はその日、夕食を作り始める事なく寝室に引きこもった。父の帰宅後、妹は早々に事の顛末を父に伝えたが、これを父は相手にしなかった。さとみに夕食の出前を取るように指示すると、その足で浴室へ向かった。


 父の対応も何一つ違わない。この家族はずっとこんな感じで、必要なタイミングで正しい行動をとれない人間達の集まりなのだ。部屋の中から一歩たりとも出ずにいてもこの家族の状態が手に取るようにわかる。

 塾講師を辞めてから外へは一度も出ていなからか、今ではこの未熟な家庭環境こそが俺の生活の全てで、社会に出るタイミングを誤ったらしい俺は、いよいよこの不完全な家と同化してしまおうとしているのかもしれない。


 さとみは出前の電話を済ませたのか、数分もしないうちにさっさと自室にこもってしまった。リビングには今誰もいない。俺もそろそろキッチンの冷蔵庫から今夜の夕食を拝借しなければ腹が減って仕方がない。


 そう思い立ち、重い腰を上げた時、母の寝室のドアが開いたのが分かった。その足音は階下へ降りると、玄関の戸の開け閉めの音が家を鳴らした。もう0時を回ろうと言うのに外出?


 これはいよいよ母が家出を決行したのかもしれないと思って、俺は部屋から出て母の寝室へ行き、所持品があるかどうかの確認をする事にした。こんな親でも、曲がりなりにも俺の母親なのである。心配でないわけがない。


 玄関側に面した母さんの部屋から外に明かりが漏れては今出たばかりの母さんに気付かれると思い、部屋の明かりはつけないまま、寝室に足を踏み入れる。


 ベッドサイドのテーブルに開いたままのかつて俺が使用していたノートパソコンが明かりを灯したまま放置されていた。浮気のやり取りや、男と落ち合う場所の特定の手がかりが残っているかもしれない。


 さもすれば、流石に離婚かな。


 俺はブルーライトを放つ画面を覗き込んだ──。

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