第10話 椎名

「私、ちょっとトイレ……」


「うん! 出た先の角曲がったとこだったよ! 」


 扉を閉める。


 耳の中に水が入った時に似た、ぼわんとしたままの鼓膜に、防音扉に隔たれた音楽が残響する。


 廊下に垂れ流されている有線放送のポップミュージックだけが、酔った頭の思考に唯一の現実味を保たせた。


 そういえば、さっきも同じようなこと言って、一人になって──と思い立ち、デジャヴだな、とか考える。


 結局私とまりこは、クラブで声をかけてきた男達についてきて、今、カラオケボックスに来ている。どうせまりこの家に泊まっていることになっているのだから、朝まで深夜徘徊してようとお母さんは知る由も無い。


 うるさい場所からうるさい場所へ移動してきて、結果、耳がどうにかなってしまいそうだ。それに今日はアルコールを生まれて初めてこんなにたくさん飲んでいる。


 流石に目がぐるぐる回り初めて、今は赤面でも先のような恥ずかしい赤面ではない。肝臓がアルコールの解毒に忙しく、身体が悲鳴を上げているのだ。


 意識して視線を制御していないと目が回りすぎて吐き気が湧いてきそうな程。私は洗面台に手をついて、力なくうなだれた。


 だめだだめだ。みんなのところへ戻ってもまた酒を飲むことになるだろうし、そうするとカシスマーライオンというあだ名をつけられてしまうかもしれない……。


 まりこも酔いが進んで時間の感覚が失われているようで、何よりテンションが高くとてもはしゃいでいる。あんな清楚な見た目で子どもみたいにはしゃいだら、どんな男だってギャップ効果でイチコロなのではないだろうか?


 トイレへ来たのは酔い覚ましのためもあるけど、それだけが理由というわけでもなかった。無防備な酔いどれ女子高生2人に男らは、据え膳食わぬは男の恥と言わんばかりに、しきりに自宅へ泊まらないかと誘ってき始めたからだ。


 私がまりこを守ってあげるんだと、意気込んでいた時の私はどこへ行ったのだろう。このままでは2人とも、処女を援交よろしく、乱行パーティで失ってしまうことになるのではないか……!?


 やっぱりまりこを1人にはさせられない。私は生唾を飲み込んで意思を固めた。はっきりと言うのだ。今すぐうちに帰ろうと。


 ムカつく胃をなだめながら女子トイレの扉を開けた。すると、部屋にいるはずのナンパグループの内の一人が誰かを待っているように突っ立って、廊下の壁に手持ち無沙汰にもたれている。


 状況を理解する前に、防衛本能が危険を察知する。


 男が私に気がついたようだ。


「シーナちゃん。大丈夫? 具合悪そうだったから心配でさぁ」


 血の気が引くように、途端に酔いが覚める感覚がした。


「え、ああ、大丈夫……ですけど」


 絶対に嘘だ。男の目は酒に呑まれている。


「部屋にいるやつらが、まりこちゃんも、もう酔っちゃってわけわかんなくなっちゃってるから泊まらせてあげるって話でまとまったんで。シーナちゃんもそうするといいよ」


「え!? 」


 まさか、あのまりこが、こんなゲスな男達と一緒に泊まるだなんて言うわけがない。まりこはここへ来る前に私に、もうちょっと遊びたいから奢ってもらえそうな奴等を捕まえたと言っていたくらいなのに。


 そんな簡単に、こんな奴らに、こんな形で、貞操を汚されることに抵抗がないとは思えない。


 まりこは完璧で、無敵で、純潔であるべきなのに。


「それはちょっと、お母さんも心配するし……」


「お母さん? まってまって、さっき家には内緒で夜遊びしてるって言ってたじゃん〜。まさか、高校生ってのも嘘? もしかして、君、中学生じゃないよね? 」


「違いますっ……けど、とにかくもう帰ります」


「怪しいなぁ、けど、中学生ってのは初めてだわぁ……。マジ驚いた。あんまり大人をナメてると怖い目見るよ」


 男がにじり寄って私を捕まえるべく手を伸ばした。


 こんな時、どうすれば──?


 まりこはどうしてる?まさか、もうあいつらに……?


「タクオ、その辺にしとけ。怖がってんじゃん」


「あ、ヒロト先輩。けど、部屋の女と一緒に連れてくってさっきまで……」


「もういいから。送ってやるぞ、もうまりこちゃんもお腹いっぱいだとさ」


 一体何が起こったのか?


 突然現れたナンパ男のリーダー格の男が、この状況をすんでのところで助太刀とは。


「きみ。ほんと大丈夫? 」

「ええ、はあ……」


 促されるまま、会計カウンター横の靴のロッカーを開ける。振り返ると、ガラス戸の向こう、暗い店の外で、店内の蛍光灯によりぼんやりとまりこのシルエットが浮き立つ。私のカバンを手に持って待っていてくれているようだった。


 会計は、先程助太刀にきたリーダー格の男が支払っている。


 ふらつかないよう注意して、慎重に靴を履いてからまりこの元へ向かった。


「まりこ、ごめん。1人にさせちゃって」


「ぜーんぜんっ。椎名こそ大丈夫? 顔真っ赤っかだねー」


「まりこはヘーキなの?」


「このくらいどうってことないよ。うち両親も酒豪だったから、遺伝かな」


 店の出入り口は向きだしの二階になっていて、風が吹き荒びうすら肌寒い。それでも今の火照ったわたしの体温には、酔いを覚ます効果もあって心地よかった。


 ──ここから抜け出せる。


 冷えた空気を吸い込んだだけで、込み上げてきていた不安と吐き気が治ったように思えた。


 危惧していたものとは裏腹に、男の車の中では終始和やかな雰囲気のままで。結果、無事にまりこの家の近くのコンビニまで送り届けてもらえた。


 流石に自宅を知られるのは嫌だったのだろう。まりこが道中、機転をきかせて、コンビニへ寄ると一言言い放つや否や、素直に聞き入れてもらえたところで私達は解放されたのだった。


「──まりこ、どうやったの? 私がいない間に何があったの?」


 車で去っていく男達に笑顔で手を振るまりこに、私は居ても立っても居られず聞いた。

「どうって、特に何もしてないよ。また今度会おうって約束しただけだし」


「そんな、嘘ばっか! だってあんなにしつこく誘ってきてたのに、急にさ」


 車が見えなくなるまで手を振っていたまりこの顔が素に戻った。まるで何もしらない生まれたての子犬のような呑気な表情だ。


「全然? 親が弁護士だとか、親戚がヤクザと伝のある検事だとか、適当に話の折に嘘言って。まあ半分は本当だけど……。アイツら私たちごねたら酒に薬混ぜるつもりだったんだよ? ねえ、聞いてる? ちょっと興味あるふりしたら、すぐに誘ってきてさぁ」


 つらつらと語るまりこに続いてコンビニへ入る。普段よく二人連れ立って入店するコンビニだったばかりに、言葉にする単語が危なっかしくて周りの目をつい気にしてしまう。


 レジの男は初めに「いらっしゃいませえ」と気の抜けた声で言って、今は退屈そうにタバコの棚を眺めているし、私達の他にコンビニ利用客はいないのだけれど。


 まりこは当たり前のように手にしたカゴに、悩むことなくお菓子やジュースをポンポンと放っている。


「また会おうって言ったのよ。でも連絡先は教えてくんなかった。そりゃそうか! ケーサツとかヤクザとかが身内の子どもなんか、怖くて手が出せるわけないもんねえ」


 クスクス笑うまりこ。


 賢くて、美人で、まさに言葉の通りの怖いもの無し。


 気が済んだのか、まりこはさっさとカゴをレジカウンターにのせると「これお願いしていい? トイレ、ずっと我慢してたの」と言い、私がうなずくと、「ありがとう」と言って笑むと小走りでトイレへ向かった。


 ──頭の回転が速くて迷いがない上に、行動一つに無駄もないんだなぁ……。


 私にはできない切り返し方、クラブでも大人を前に堂々とパーティを謳歌してた。格好良すぎて、まりこのそんな世界を思い返すだけで胸の鼓動が高鳴った。


 なんだかんだで、今夜は楽しかった。


 刺激的で、危険もあったけど、奢ってもらえたし。


 まりこといればどんな危険なことでも平気な気がしたんだ。


 支払いを済ませ、少し寒い外に出る。


 そこへ「先に行かないでよー」と、すっかり懐いた子犬のように腕を絡めに来るまりこ。


 これからもずっと、もっともっと楽しいことが待っているはずだ。


 コンビニ袋を握りしめ、私は今、そう確信している。

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