2:エアコンの設定温度

 仕方なく夏岡は単身赴任をすることにした。住まいは、湯原という琴浦出張所長が探してくれた二軒続きの長屋の一角に決めた。狭い二間に台所、風呂、トイレが付いていて月々の家賃は三万五千円だった。

 家賃は会社負担だから、もう少しいい住居を選ぶこともできたが、立地の良さでそこに決めた。町の中心部ではないが、徒歩で五分圏内に勤務先とバス停といろいろな店がある。車は、真知子が通勤と子供の送迎に使うので持ってくることができなかった。二台めを購入するには迷いがあったので、住まいが徒歩でも生活に困らない場所に見つかったのは有難いことだった。

 琴浦出張所は、小高い丘の下に広がる昔からの住宅街の中にあった。鉄筋コンクリート造の二階建てだが、広さは普通の建売住宅ほどしかない。一階が倉庫で二階が事務所だった。築五十年以上とのことだが、外壁は数年前に塗り直されていてくすんだ印象はない。

 そこの従業員は、夏岡を含め三人しかいない。所長の湯原は五十八歳で一年半前に赴任してきた。白髪交じりで、すっかり枯れた感じの男だ。他には地元採用の福間という、四十代のパートの女性がいるだけだ。

 夏岡の最初の出勤日は八月一日だった。前夜の強風を伴った豪雨が嘘のように、朝から日光が強烈に照りつけてくる。福間は甲高い声を上げて彼を迎えた。

「ここに勤めだして十年以上になるけど、若い人が、それも本社から来るなんて初めてですよ」

 夏岡は反応に困って、愛想笑いをするだけだった。喜んで歓迎してくれているのか、それとも見下しているのか。彼は拗ねる性分ではなかったが、どうも後者のように感じられてならないのだった。とてつもない無能ゆえに、あるいはとんでもない失敗をやらかしたから飛ばされたと思われているのだろう。

 湯原がのんびりした口調で言った。

「この出張所が三人態勢になるのは、何十年ぶりかのことだろうね。少なくとも私の記憶にはないな」

 夏岡はいちだんと気が重くなった。二人で十分な業務量なのに三人となれば、することがないのではないか。仮に湯原が異動すれば、自分はここで飼い殺しになるのではないか。会社の誰からも忘れられて過ごすのは耐えられないと思った。

 冷房は入っていなかった。全開の窓から、都会にはない涼し気な風が吹き込んでは来るが、スーツ姿の夏岡の全身に汗がにじんでいた。彼がハンカチを取り出すと湯原は立ち上がった。

「夏岡君、これから一緒に得意先を回ろう。今日は私が運転するよ」

 湯原は夏岡とともに社用車に乗り込むと、出発するや否やエアコンを最強に設定した。

「夏岡君、暑かっただろう」

「所長、経費削減のためなら我慢しますよ」

「それもあるが、福間さんがいやがるんだよ。冷え性だからと言ってね。午後にならないとエアコンをつけさせてくれない。それも設定温度は二十八度じゃないとだめなんだ。室温は、パソコンの熱や体温でもっと上がっているのにね」

 冗談めかした言い方だったが、湯原は困り顔だった。上司の権限で自分に従わせればいいのにと夏岡は思ったが、古株の女性には言いにくいのだろう。夏岡は本社の中前理津子のことを思い出していた。彼女も福間と同じく、常に冷房の設定温度を二十八度にしなければ気が済まないのだった。

 夏岡が以前まえの職場に配属された時、中前の隣の席に野沢由紀のざわゆきという女性がいた。彼女は高校を卒業して二年めだということだった。ハープ信販は原則として高卒の採用はしないので、何かの特例で入社したのだろう。

 野沢の澄んだ声が、夏岡の脳裏によみがえってきた。彼女は不思議な雰囲気の女性だった。ふっくらとしているのに透明な印象を与えるのだ。あるいは空気に溶け入りそうな感じと言ってもいい。いつも伏し目がちで大きな仕草をしないので、彼にはそのように映ったのかもしれない。

 野沢は口数は少なく、同僚の女性とも騒ぐことはなかった。仕事は速くはなかったが、丁寧で正確だった。夏岡は彼女に込み入った頼み事をした後は、いつも本心からこう言った。

「本当に頑張り屋さんだね。野沢さんがいてくれて助かるよ」

 それを耳にした中前は、いつも口を尖らせるのだった。

 その内に野沢は夏岡が外回りから帰ると、いつもにっこりと人知れず微笑んでくれるようになった。自分に好意を抱いているのかと思えるほど、はにかみが混じった花のような笑顔だった。しかしすでに真知子と結婚の約束をしていた夏岡は、彼女を誘うことなどしなかった。

 八月のある日、外の気温は四十度に迫ろうかという午後、夏岡は同僚たちと挨拶回りから帰社した。皆、汗だくで口々に暑いなと言う。それを聞いた野沢は、エアコンの設定温度を二十三度まで下げた。夏岡たちは生き返った気分になった。ちょうど中前は社内の別の部署に行っており、しばらく戻ってこないはずだった。

 ところが予想外に早く中前が帰ってきた。すぐさま彼女はエアコンの制御盤の前に行き設定温度を確かめるなり、厳しい表情になった。

「誰がこんなに下げたの」

 野沢は弾かれたように立ち上がった。

「私です。皆さん、暑そうにされていたものですから長い時間でなければいいと思って」

「一度くらいならわかるけど、五度も下げるなんて、それこそ度が過ぎてるわ。本当にあなたは男の人には、いい顔を見せようとするんだから」

 中前はきつい言葉を野沢に投げつけながら、乱暴に制御盤を操作した。夏岡は無性に腹が立っていた。

「中前さん、少しくらい涼ませてもらってもいいでしょう。それに野沢さんだって親切心でしたんですから責めなくてもいいじゃないですか」

 すでに他の人々は関わり合いになることを避けて、席に着きパソコン画面を眺めている。中前は夏岡をにらみつけた。

「あなたねえ、経費の無駄は少しでも省かなくてはいけないのよ。それに国が二十八度にしろと言ってるの。信販会社は法令順守が大事でしょ。親切心で決め事を無視したら、決め事の意味がないじゃん」

 夏岡は無茶な理屈だと思ったが、言い返したところで議論になるような相手ではなかった。彼は口をつぐんで席に戻ろうとした。背後から中前が説教する声が聞えた。

「野沢さん。あなたは高卒で世間知らずだから教えてあげているのよ」

 それまでも多少の軋轢はあったが、結局このことが原因で、夏岡と中前の関係は決定的に悪くなった。

 その年末に野沢由紀は退職することになった。彼女の父親が体調を崩したので、両親で切り盛りしている故郷の食堂を手伝うという理由だったが、夏岡は嘘だと思った。見えないところで中前にきつく当たられ続けていたのではないかと疑いを持ったが、もう手遅れだった。

 職場での最後の挨拶で、野沢由紀は岡山県出身だとわかった。夏岡は漠然と岡山市のどこかに、実家の食堂があるのだろうなと思った。


 



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