1:異例の人事異動

 課長から人事異動の内示を告げられた時、夏岡修司なつおかしゅうじは不覚にも声を上げた。

「えっ、僕がですか」

 目の前の課長は気の毒そうな顔だ。

「自分にも晴天の霹靂というか、訳がわからないんだ」

 夏岡が勤務するのは、大阪に本社を置くハープ信販という準大手企業だ。彼は二十八歳で本社の加盟店を管理する部署にいる。

 課長は首をひねり、独り言のように言った。

「よりによって琴浦出張所とはねえ」

 その出張所は岡山県南端の琴浦町にあり、その町だけを担当エリアとしている。町には百貨店もショッピングモールも家電量販店もなく、小さい店があるだけだ。したがって割賦販売やクレジットカードの申し込みもほとんどない。

 それなのに経費や生産性を度外視して琴浦出張所が維持されているのは、琴浦町がハープ信販の創業者の出身地だからだ。会社の株は今でも創業家の沓上くつがみ一族が過半数を持っている。会社はその意向に逆らえないのだった。

 とうとう課長はため息をついた。

「お子さんがまだ小さいのになあ」

 それだけではない。夏岡は住宅を購入したばかりだった。サラリーマンは家を買うと異動させられるとよく言われるので、彼にもなにがしかの覚悟はあった。しかし、いくらなんでも琴浦出張所はないだろうと彼は叫びたかった。

 ハープ信販の従業員にとって、そこは定年間際で無能のレッテルを貼られたり、幹部にひどく嫌われた人間が送り込まれるところという認識だった。夏岡は退職を勧奨される年齢ではないし、個人業績は悪くはなかったし、上層部に嫌われる前にそもそも接点がなかった。

 頭が混乱していたが、夏岡は表向きは頑張りますと答えた。課長の肩越しに街路樹から蝉が飛び立つのが目に入った。七月下旬のその光景をいつまでも忘れないだろうなと彼は思った。

 ふと気づくと、少し離れたところに座っている中前理津子なかまえりつこという事務担当の中年女性が含み笑いをしているように見えた。以前に彼女との間で決定的な諍いがあってからお互いに関わらないようにしている内に、夏岡とは険悪ともいえる関係になっている。

 夏岡は一瞬、今回の異動は中前の差し金ではないかと思ったが、彼女にそのような権限はないので証拠もなく疑うのは慎むことにした。


 宝塚の自宅に戻り、妻の真知子に異動の件を話すと彼女の顔はかげった。

「私、付いていけないからね」

 それは夏岡にもわかっていた。真知子は日中、子供を近くの実家に預けて市内の小さいデザイン会社で働いている。彼女がそこを辞めると、住宅ローンの支払いが難しくなる。

 仮に琴浦町や近辺で同じ仕事があったとしても、今度は子供の扱いに困ることになる。保育園に入れたとしても、子供が少しでも熱があれば登園させられないし、園で体調が悪くなればすぐに親が呼び出される。その都度、仕事を休むわけにはいかず、真知子は実家の両親を頼らざるをえないのだった。

 しばらくしても真知子の表情は明るくならない。疲れに加えて、夫の将来を悲観しているのだろう。夏岡は自分でもそう感じていただけに、彼女のそのような顔を見るのがつらかった。

 突然、真知子が言った。

「ねえ、頭に来たからって、すぐに会社を辞めたりしないでよ」

「わかってるよ」

 夏岡はぶっきらぼうに答えた。彼も次の仕事を探してもいないのに退職など無謀だとわかっていた。

 真知子が子供を寝かしつけている間、夏岡は琴浦町について調べた。神戸の中心部で育った夏岡にとって、そこはとてつもない田舎に思えた。彼は三宮や梅田といった華やかな場所に慣れた人間だった。少なくとも琴浦町に住むのは避けたいという気持ちになった。

 いっそのこと宝塚から通勤しようと夏岡は考えた。片道二時間少々かかるが、若いから一年くらいは身体を壊すことはないだろう。その間に社内でうまく立ち回って、本社復帰は無理でも関西のどこかの支店に潜り込むことにしようと決めた。

 けれども翌日、人事に相談をもちかけると、その案は即座に却下された。

「困るなあ、そういう考えは。行った先で骨を埋める覚悟がないとだめだよ。明日にでも現地に行って、住むところを探して来なさいよ」


 

 

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