2:三年生の送別会

 春菜にとって新聞部は予想外に居心地が良く、存分に活躍できそうなところだった。顧問教師の藤城ふじきは温厚でユーモアたっぷりだったし、少ない部員たちも渋川英明部長の指揮の下で活気にあふれて飛び回っていた。

 ただひとりの新入部員ということで春菜はかわいがられた。彼女は愛嬌に乏しく表情は硬かったが、部員に名前を呼ばれると自然な笑顔が出せるようになっていった。

 初めての仕事らしい仕事は、六月号のコラムだった。原稿用紙二枚の分量で春菜は数学を学ぶことの大切さを説いた。「文系の人でも社会に出れば、統計を取ったり確率の計算が必要になることもあります」「現在の経済学は、もはや数学の一部門と言っても過言ではありません」

 これは兄の受け売りだったが、学内で評判になった。特に数学教師は大絶賛してくれた。

「この高校は数学嫌いが多いからなあ。社会人になればデータ解析や試算をするのは必須なのに。ただ私にも反省すべき点がある。むやみに数式の解き方だけを教えても興味が湧かないよね。その数式がどんなことに役立つのか、具体的に話すようにするよ」

 それ以降、英明は春菜を見込んだのか積極的に校外の取材をさせるようになった。町内の祭りやスポーツ大会をはじめ、町長や地元企業の経営者へのインタビューなど彼女の活動範囲は広がっていった。

 年末には両親も彼女の活動を応援してくれるようになった。ある日、父親は上機嫌で言った。

「町長や議員さんも褒めていたよ。春菜の文章は美文じゃないが、とにかく正確で頭にすっと入ってくると。形容詞を使わないのに状況が伝わってくるとね」

 褒めているのか貶しているのか、わからないような言い方だったが、町役場内での自分の評判も上がったことに感謝しているのだろう。それはさておき春菜としても新聞部を選んだことは正解だったと確信が持てるようになっていた。それまで社会のことに興味はなかったが、いろいろな出来事に接したり、さまざまな人の意見を聞くうちに視野が広がってきたのが自分にもわかった。

 新聞部では毎月一度、日曜日に顧問教師の藤城を含め全員が集合した。一斉取材と称していたが、実は親睦会だった。ハンバーガーを食べたり映画を見たり遊園地や展覧会に行ったりした。藤城が来るのを煙たがる部員もいたが、春菜にとってはありがたかった。部員だけだと男子から性的なちょっかいを受けるおそれがないとは言えなかった。少なくとも教師が同行していれば変な噂を立てられたり、両親に参加を渋られる危険性が減るわけだ。

 春菜は自分では女性としての魅力に欠けると思っていたが、男子部員にとっては必ずしもそうではなかった。二人ほどの先輩から好意を持たれていることは感じていたが、彼女は個人的な交際をするつもりはなかった。できるだけ意識しないようにしていたが、英明に恋をしていたせいもある。しかし仮に英明から告白されても、彼女は拒んでいたかもしれない。まだ異性の強い感情を受け止めるまでに彼女の精神は成長していなかった。

 

 渋川英明は東京の一流大学に進学することになった。その上京前に卒業生の送別会が、藤城の自宅で行なわれた。春休みの最中の暖かい日だった。出前の握り寿司が振る舞われたが、食べ盛りの先輩たちが瞬く間に口に入れてしまった。春菜はやっと五缶ほど食べられただけだが、その味は別格だと思った。彼女は回転寿司の握りしか食した経験がなかった。

 藤城は卒業生たちに将来の志望を訊ねた。公務員や銀行員、商社マンとの答えが返ってきたが、英明は違った。

「まずは公認会計士と司法書士の資格を取りたいと思います」

 二年生の男子部員が怪訝そうに言った。

「弁護士になればいいじゃないですか」

 英明は手を振った。

「いや、そんな能力はないよ。弁が立たないしね。それに経済が絡んだ仕事をしたいんだ」

 藤城は英明の肩を叩いた。

「公認会計士の試験は司法試験並みに難しいらしいが、がんばってくれよ。就職は監査法人かな」

 英明は答えた。

「そうなるでしょうね。でも十年ほどしたら、この町に帰って開業したいんです」

 藤城は首を捻った。

「それはもったいない。ここでは仕事があまりないと思うよ」

 英明は珍しくはにかんだ表情になった。

「琴浦町は年々、衰退していってます。主力の繊維産業が弱っていますから、人口も減っていくばかりでしょう。町のために何かしたいと考えているのです」

 二年生の女子部員が言った。

「町長になればいいのに」

 英明は笑った。

「無理だよ。町の議員ならあるかもしれないけど」

 春菜には理解しにくい話だったが、英明がまだ少年なのにしっかりとした考えを持っていることに驚いた。こうして彼女は握手だけして英明を見送ったのだった。

 そして、いつしか春菜は彼のことを「あの人」と呼ぶようになっていた。

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