1:たったひとりの新入部員

 福井春菜ふくいはるなは小学生の頃から文章を書くのが好きだった。雨が降れば、遠くにかすむ山の見え方を書く。遠足の後は、行った先で知った伝説のことを記す。自分の感想や想像は抑えて、目にしたことや聞いたことを正確にわかりやすくまとめるのが、彼女にとって書くということだった。

 けれども教師の評価は芳しくなかった。自分の思ったことや感じたことを表現しろと諭されたことがある。おとなしい性格だったから素直にうなずいたが、自分にはそのような文章は書けないと絶望感すら覚えていた。

 春菜の両親は琴浦町ことうらちょう役場の職員だった。二人とも忙しくしていて、幼い頃からあまり構ってもらったことがない。その上、つらいとか苦しいなどと口にすると、大人になったらもっと大変だから辛抱しろと言われることが多かった。

 つらい、苦しい、悲しいなどと春菜は言わなくなった。けれどもそれらの言葉を封印すると、嬉しいとか楽しいとかも口に出せなくなった。彼女は普通の子供より感受性が豊かで読書好きだったから、思うことも感じることも実はいっぱいあったが、それを口頭でも文章でも表現することを避けるようになっていた。

 だから会話がぎこちなかった。身の上や身の周りで起こったことが語れないので、交友関係が広がらない。いつも彼女は、自分の気分や気持ちをどんどん言葉にしている同級生たちを羨望の眼差しで見ていた。

 春菜は地元の琴海高校きんかいこうこうに進んだが、そこでは少なくとも二年生までは部活動をすることが奨励されていた。彼女はスポーツは苦手で、音楽や習い事や実験などにも興味は湧かなかった。文章を書くのが苦にならないのに文芸部には入りたくなかった。「月の光に包まれて眠っているあなたを想うだけで幸せを感じるのです」などという文章は、自分には書けないと思った。

 結局、春菜は新聞部を選んだ。琴海高校新聞は月刊紙で季節ごとに増刊号も発行し、教職員と生徒の全員に配付される。歴代の顧問教師の方針で学内のことだけでなく、町内の出来事も掲載していた。彼女は新聞記事の文章なら、どんどん書けると思った。それに部長の渋川英明しぶかわひであきが頼もしく魅力的に映り、一緒にいろいろと活動してみたくなったのだ。

 その年の新入部員は春菜ひとりだった。旺盛な活動をしながらも新聞部は不人気で彼女を加えても総勢九人しかいない。数少ない友人は呆れ顔になった。

「時代遅れの部をどうして選んだのよ」

 春菜は笑ってごまかすだけだった。

 久々に両親そろっての夕食時に新聞部入部を告げたが、母親はいい顔はしなかった。

「土日も取材するんでしょ。勉強に差し支えないようにしてね」

 父親は苦笑いしていた。

「もっと進学に役に立ったり、スキルが身につく部はなかったのか。新聞記者なんか、なかなかなれないぞ」

 ひどく先走りしたことを言うので、さすがの春菜も遠慮がちに口答えした。

「新聞社に入りたいなんて思っていないわ。余計なことを言わないでよ」

「そうか。じゃ、何になるんだ。以前まえと違って、高校に入ったら将来の就職のことを考えないといけないぞ。求人はいっぱいあるように見えるが、非正規と派遣社員ばかりだからな」

 母親が口をはさんだ。

「本当のところ就職難だからねえ。町役場に入れるようにがんばりなさいよ」

 春菜は弱々しく首を横に振ると、そのまま箸を置き自室にこもった。両親に腹が立っていたが、それに正面から対峙できない自分にもうんざりしていた。彼女に将来の目標はなかった。世の中の人は十五や十六で就きたい職業を思い描いているのだろうか。そんなことがあるとは思えない。しかし目標を持って勉強し進学する方がいいに決まっている。

 春菜は漠然と都会の大学に進みたいと考えていたが、自分の適性は全然わからなかった。得意なことは、物事を客観的に説明した正確な文章が書けるということだけだ。それが何の役に立つのかと問われれば、答えることはできない。やはり町役場に入るしかないのだろうか。

「それだけは絶対にいや」

 春菜はひとりごとを口にしていた。両親は、工学部に在籍している兄にも町役場を勧めているらしい。兄はそれなりに優秀だから、こんな田舎で埋もれてほしくないと春菜は願った。

 

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