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 九月九日、日曜日。日の出より少し前、ぼくは久方ぶりに目を覚ました。側頭部に鈍痛が走る。マンガみたいに頭を振って払おうとすると、脳が揺れて余計に痛みは増した。

 ぼくはミドリと二人、セレナの屋根の上で夜空を見上げていたはずだ。ぼくらは、ぼくらが二人とも初めて行く「新しい場所」へドライヴへ行って、月の無い夜空を見上げていた。ぼくは、ミドリが見るのより速いスピードで回転する夜空に目を回したのか、きっとそのまま眠ってしまったのだろう。早く目を覚まさないと、夢を見たまま風邪を引いてしまう。

 そう思って、マンガみたいに頬を抓った。痛くなるほど抓ることはできなかったけれど、頬に汗ばんだ指の当たる感触はある。指先だと加減してしまうようだから、頬を平手で張ってみた。きちんと痛い。薄青の闇に染まった白い天井も白い壁も白いベッドも、何も言わずにその場に留まっていた。こんな状態は今までにだってよくあった、あったかどうかは覚えていないが、少なくとも「あった」とよく言われた。あれだ、あの、「記憶が混濁している」という奴だ。夢見心地のままで横になる。それはそう、だってこれは夢なのだから、夢見心地で当然だ。でも、目を覚ます前にトイレへ行こう。

 ぼくは体を起こそうとするけれど、どうも力が入らない。腕で支えて体を起こそうとしても、肘はぼくの意思に反して、すぐに折れ曲がる。闇に慣れた目で自分の手首を見つめると、それは記憶にあるぼくの腕より随分と痩せ細っていた。

 このまま腕や腹筋だけに頼っていても、起き上がることはできまい。それよりぼくはトイレに行きたい。左腕を体の横に投げ出し、右の手で掴む。それを引き寄せるようにしながら九〇度、寝返りを打つ。両足をベッドから下ろして、勢いをつけて体を起こす。前のめりになって重心を動かし、立ち上がる。足の方は、立てないほどに弱っているわけでもないようだった。

 壁の手すりに掴まって病室を出、緑色の非常灯を頼りにトイレへ向かった。用を足している内に、なんとなく意識がはっきりとしてくるように思えた。ぼくは今、何処にいるのだろう。病院だ。ミドリは何処だろう。セレナの屋根の上だ。それは考えれば少しわかることだった。いや、考えなくともわかることだ。何故ならそれは、ぼくの知っていることだから。手を洗い、また手すりを頼りに部屋へ戻る。そっとベッドに倒れ込み、自分で布団を掛けて、そのまま朝を待つ。日付と時間はその時に枕元の時計で確認したのだ。混濁した意識のままで何かを考えても、どうせ朝までには忘れてしまうだろう。せっかく考えたことを忘れてしまうなんて、そんな勿体無いことがあるだろうか。もしも何か冴えたアイディアが浮かんだって、メモをしておかないと僕の頭の中から消えてしまう。ぼくが考えたことはぼくの頭の中にしかないのだから、それは世界から消えてしまうってのと同じことだ。仕方がないので、ぼくは、忘れてもいいような、どうでもいいことを考えることにした。

 今が九月ならざっと二ヶ月前、割合に格好悪い理由で、ぼくは酷いストレスを負っていた。お酒を飲んでもあまり酔えない性質だから、仕方なく一日中テレビ画面を見つめて、電波に酔おうと躍起になっていた。とても心地の良いことだった。ぼくは家から出るのが嫌になって、受動的にテレビからの情報を受け入れていた。カラーバーや砂嵐だけで情報が伝わってこない時間も惜しくなって、三流映画のビデオを一度に借りてきて、それをずっと見ているようになった。なるべく荒唐無稽で、シュールな奴。邦画でも洋画でもアニメでもいいから、人間らしい人間がほとんど出てこなくて、犬や猫やロブスターや小さな火星人や陽気な自動車が喋るようなのをずっとずっと観ていた。そのうちに現実世界の透過色や陰影の色彩的な差異がより明瞭になって、空や木々にソラリゼーションがかかってきて、道往く人の顔に鏡面加工が成されてきた。その癖、毛穴のコントラストは驚くほど自己主張が強く、またそれぞれが聖書の一節を読み上げる。ぼくは楽しくなって電柱によじ登り、互い違いのボルトに足をかけ、大声で叫ぶのは馬鹿々々しいからとそのままゆっくり降りてきた。そこからしばらく「記憶が混濁している」状態になって、気付くとぼくは病院にいて、患者当人以外が馬鹿にすると世間では誹謗中傷を受ける種類の病を患っているとの診断を受け、親族・友人・恋人らからの見舞いを受けたり受けなかったりして、そのまま病状が進行。夢と現実を混同し始め、概ね夢の中に暮らしつつも時折意識を回復させる日々を一ヵ月ばかし送った上で、現在に至ると。オーケー、完璧。きっといくらかの過程は抜かしているんだろうけれど、今のぼくは覚えていないし、将来のぼくは今のぼくがこんな追想をしていることすら覚えていないはずだから、今現在でも、未来永劫に於いても、この思索は完璧だ。

 要するに、ミドリは現実には存在しないということ。

 ぼくは寂しくて、枕を天井に投げつけた。枕はぼく手にひっかかって、胸の上に落ちた。ぼくはマンガみたいに、「げほっ」と咽た。

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