伝承は幻に消える。だけど彼は確かにそこにいた

白雪花房

第1話

 若葉町には伝説がある。


 はるか昔。


 真昼の村に夜が訪れた。空を灰色の雲が覆いあたりは薄暗くなる。

 人々は蒼白とし、荒い息を吐きながら、逃げていた。体面も気にせず、転びそうになりながら。

 その背後に鬼が出現。どす黒くゴツゴツとした肌。醜い顔をした魔物が棍棒を振り上げる。

 村人は振り返った。彼の体は震えていた。あまりの恐怖に声も出ず、歯をガチガチと鳴らす。汗で体を濡らした状態で、凍りついていた。

 立ちすくんだ男へ棍棒が振り下ろされる。ブチッと柔らかなものを潰す音。腐った臭いと血の臭いが混じり合う。死が村に広がった。

 刹那、不意に雲が引く。熱い光が降り注ぎ、地上には細長い影が伸びた。何者かが現場に近づく。鬼も相手の気配に気づいて、振り返る。濁った目が映したのは、凛とした雰囲気を持つ青年。髪を結い上げ暗色の衣を身にまとった者。彼は木刀を構え、敵を見据えた。

 頭上では太陽が輝く。ドキドキと脈打つ心臓。むせ返るような暑さ。日差しで肌が焼け付くようだった。




「かくしてかの英雄は鬼を倒し、村を守ったのでした」

 めでたしめでたしと棒読みで言う。平坦な語りを終えて彼女は口を閉じた。

「誰が作ったのかしら、こんな話」

「知ったところでなんになるの? くだらない話なんだから作者もくだらないやつに、決まってるわ」

「そうね。よくある話よね」

 高校の昼休み。モノトーンに沈んだ教室。窓に映る空はくすんだ青色。かすかに覗く大きな広葉樹は、紅く染まっている。閉め切っているため、無風だ。塵一つない床が殺風景さを際立たせている。

 女子高生たちは気怠げにあくびを漏らした。

 そんな彼女たちからやや離れた位置で、一人の少女がふんふんと鼻歌を鳴らす。ホットココアと表記された缶を開け、ぐびぐびと飲む。次いでパンの包装を破った。優しい匂いが表に出る。少女はビニールごとパンを掴むと、まるかじりした。もぐもぐと咀嚼すると、ふんわりとした甘みを舌で感じる。

「うーん!」

 ご満悦といった様子で、頬を緩める。

 一方で数名の女子高生は話の続きをしていた。

「もっとひねればよかったのに。『鬼なんていない』ってみんな知ってるんだから、せめて見どころを作るべきだったでしょ」

 だるそうな声。低めのアルトだ。

「でも、古いお墓はあるんだよ」

 口をもぐもぐと言わせながら、会話に入る。柔らかなソプラノだ。

 ごくんとパンを飲み込む。まだ甘ったるい味が残っている。

 女子生徒たちは一斉に振り返って、声の主を映した。明るめの色のショートヘアに、キラキラと光る瞳。特徴的な容姿である。

 なお、かわいいねなどといった言葉が、相手の口から出るわけがなく。

 むしろ黙り込んだ。

 しんと静まり返る中、一人の生徒が冷ややかに切り出す。

「昔の人の墓ってだけでしょ」

 不快げに顔をしかめる。

「なんであんたは信じてるのよ。いい加減に卒業しなさい」

「えー? 実際に起きた出来事って考えるほうが、面白いじゃん。ロマンがあって」

 眉をハの字に曲げなから主張を繰り出すと、皆は一斉にため息をつく。まるで相手にされていなかった。

 それでも少女はつるりとした顔で、パンを食べる。マイルドな味わい。

 天気は依然として静かなまま。太陽は高く昇り、輝いている。

 明るさに釣られて、外に出た。澄み切った空気の中を突き進む。なんだかぽかぽかとしてきた。


 校門を抜け、通学路を歩き、公園にやってくる。

 木々の生えた空間だ。広葉樹は紅葉し、風が吹けば枝から剥がれる。地面には赤茶色の絨毯が敷き詰められていた。そっと足を前に出して踏みしめると、乾いた音が鳴る。遊具のある方へと歩みを進める傍ら、落ち葉の匂いがほのかにした。

 前方の道路では自動車が行き交う。周囲に煙たい臭いが発生しては、消えていった。

「らーらーらー、若葉はいい町、おいでやすー」

 オレンジのブランコを漕ぐ。軽やかにリズクを刻んで。

 日差しを浴びて気持ちがよさそうだ。


 そこへ一人の青年が通り掛かる。彼の姿を目にとらえる。風変わりな者だ。灰色の着物を身に着け、不透明な瞳で、ぼやけた空を見上げている。ひっそりと佇む彼の姿は神秘的で、周りから浮き上がっているように見えた。

 きらめく太陽。日の当たる場所にいる少女。鼓動が速まり、胸がざわめく。刺激的な匂いの気配に体が熱くなり、心がうずく。ぞくぞくとしてきた。



「なにやってるの?」

 声をかけると相手はチラリと彼女を見た。しかし、彼はすぐに視線をそらす。

「おーい」

 無視を続ける彼に向かって、何度も呼び掛ける。

「ねぇってば」

「いい加減にしろ。しつこいぞ」

 さすがに苛立ちを覚えたのか、不機嫌そうな反応を見せる。

「わー、やっと気づいてくれたよ」

 光を帯びた顔で、弾んだ声を出す。

 そんな少女を見て眉間にシワを寄せながら、青年は尋ねる。

「あんた、なんで平然としてるんだ? 普通、ツッコむだろ。なんとも思わないのか? いや、そもそもどうして」

 続きを言おうとして、飲み込む。気まずそうに目を伏せる中、少女は口を開いた。

「うん。近所では見かけない格好だよね。でも、気にしなくていいんじゃないかな」

「おい」

「それより、あたしは希美のぞみ。よろしくね」

 ツッコミはスルー。流れるように自己紹介をする。

「俺は……一夜いちや

 ためらいがちに名前を伝える。

 すると彼女は表情を明るくした。

「かっこいい名前だね」

 少女が笑顔を見せると、強い風が吹く。木々がざわめき、りんごのような香りがほんのりと、鼻孔をかすめる。

 温かいひだまりの中で青年はひそかに、運命を感じていた。


「町に来るのは初めてだよね。案内してあげる」

 勝手に歩き出した彼女。遠ざかっていく影。一夜はそれを目で追うのみ。彼はその場に留まっていた。

「おーい、置いてっちゃうよ」

 横断歩道を越えた先で、希美が手を振る。

 なおも青年は棒立ちのままでいたのだが。

「ねぇってばぁ!」

 彼女が騒ぐため仕方がないというように、一夜は歩き出す。彼は横断歩道を渡って、合流した。


 若葉町は四方を山で囲まれているほか、町中にも樹木が目立つ。自然が豊かな町だった。

 田舎ではあるが、必要な施設が揃っている。格安で商品が手に入るスーパーに、子どもたちでごった返す一〇〇円ショップ、ライトノベルや漫画がぎっしりと詰まった図書館。

 希美はてくてくと歩道を進み、一夜も淡々と後を追う。

 車の走行音をBGMに、紹介を進めた。

「東川の水はきれいなんだよ。水道水もおいしくてね。普段は浅いのがもったいないくらいかな。でも、雨が降ると増水するんだ。去年とか凄かったよ。梅雨と台風が重なって、一週間以上も降ってね。おかげで道路は水浸し。沈むかと思った」

 晴れた空の下、歌うような口調で語る。

 そよ風を身に浴びながら、足を動かす。途中、自販機で紅茶を買っていたため、飲む。花の香りが口に広がった。

 太陽が昇っているおかげか、気温は高い。心地のよい暖かさだった。

「おかげで避難勧告を食らっちゃった。あんなの、初めてだったよ」

 劇のような驚き顔を見せて、からからと笑う。

 その大げさな雰囲気が受けたようで、彼も微笑む。

 希美は相手のリアクションに満足すると、調子に乗って紹介を続ける。

「メロウっていう喫茶店、知ってる? 美味しいトーストが食べられるんだぁ。朝にドリンクを頼むとモーニングとして、ついてきてね。これってうちの地域限定みたいなんだよ。お得感があるでしょ? ね、頼んでみようよ。今は昼だけど」

「いや、俺はちょっと」

 一夜は顔をしかめる。

「大丈夫。あたしがついてるから」

 堂々と胸を張ってアピール。

 すると彼は暗闇で迷ったような目付きになる。

 それから長い沈黙が通いた。辛気臭い空気が漂う。逆風が吹き付け、肌がひりついた。いつの間にか太陽が隠れて、あたりはやや暗くなる。

「なあ、なんで俺に構うんだ?」

 トーンを下げて問いかける。語尾はかすれて消えた。

「理由なんてないよ。ただ、助けてあげようかなって」

「俺はお前を必要としていない」

「でも君は寂しそうだったよ」

 希美は眉をハの字に曲げる。

「それは……」

「寂しいんでしょ?」

 青年は口を閉ざす。

 無言で歩みを進める。靴の裏が落ち葉を踏んで、軽い音が鳴った。近くには枯れすすきが群生している。寒々しい風が吹くと、葉擦れの音が耳に入った。金木犀の匂いもどこからか、やってくる。湿気を帯びた秋の匂いだった。

「ね? だから、私と一緒にいようよ」

 彼女は微笑みをたたえ、呼び掛ける。彼女の声は小鳥のさえずりのようで、青年の渇いた心を潤した。

 それでもなお一夜は言い返せない。眉間にシワを寄せ、瞳を震わす。

 天には暗い雲が薄く伸びるように、広がっていた。今にも雨が降り出しそうな気配がする。

「それはできない」

 すがれた声で否定する。

 じめっとした土の匂いが妙な主張をする、重たい空気。


 それでも、もしも、叶うのなら。

 一緒にいてもいいかもしれない。

 雲の隙間から太陽が顔を出し、まぶしく光る。照りつける日差しが体を熱くした。



 以降も二人はひたすら歩く。歯医者や小さな病院が並ぶ通りを抜けて、広場にやってきた。広葉樹のそばにあるベンチに腰掛け、二人でまったりと話をする。

 いつの間にか空には火の色が滲み出した。

 凍てつく風が吹き付け、身にしみる。

 青年は不自然な暑さを感じつつ、冷や汗をかいていた。

 その内、下校途中の学生がポチポチと姿を見せ始め、後ろから控えめな声が聞こえてきた。

「なにやってんの?」

「ついに気でも狂ったか?」

 話を聞いて狂人が現れたのかと思い、希美はキョロキョロする。近くにいるのは下校途中の学生ばかりで、不審者の影は見当たらない。

「放っておきなさい。あの子はいつでもそうなのよ。見えないものが見えるの」

「でも、絶対におかしいよあいつ」

「馬鹿。聞こえるでしょうが」

 ばっちりと聞こえている。

 なお、本人は理解できていない。引き続きキョロキョロと周囲を伺う。その折、和菓子屋へ視線が行く。よく磨かれたガラスには、少女だけが映っている。となりにはなにもなかった。

 窓に浮かんだ少女の顔が、みるみる内に青白くなっていく。

 すぐには声を出せなかった。

 遅れて、口の中が渇いていることに気付く。

 ぞくぞくと冷気を肌で感じる。

 とっさに振り返ると、一夜の姿がなかった。

 急に目が覚める。

 心臓の鼓動がブザーを鳴らす。

 暑さを感じながら冷や汗をかいた。

 彼を探さなければならない。

 ベンチから立ち上がり、衝動に突き動かされるように、駆け出した。


 ぼんやりとした煙のような気配を追いかける。目には見えないそれは、ひどく曖昧で、不安定。強くあることもあれば、唐突に弱くなって、見失うこともあった。

 本当にこの道で合っているのだろうかと、不安になる。

 走っても走っても、彼が見えない。近づいたかと思いきや遠ざかり、掴んだと思えば、引き離される。

 もしかして本当に幻だったのではないか。いいや、そんなはずはない。頭をよぎった考えを否定する。

 まだ、一夜の存在を感じていた。青年はまだ若葉町にいる。


 不意によぎった可能性。彼が行きそうな場所に心当たりがある。

 一度、足を止め、彼方を向いた。

 青年の正体が伝説の英雄であるならば、彼が向かう場所は一つしかない。

 少女は強い意思で地を蹴った。


 街路樹が並ぶ商店街――若葉通りを抜けた先に、丘がある。

 そこは色がなくなったような空間。黒ずんだ灰色に染まった石碑が並ぶ。要は墓場。土の湿っぽさと線香の残り香が主張をする。

 その場所に彼は立っていた。


 空は墨を流し込んだかのような色に染まっている。

 呼吸が止まっったような沈黙の中、車が行き交う音だけが、聞こえてきた。自動車は猛スピードでやってきてはガスを撒き散らして、走り去っていく。グレーの臭いを洗い流すように、ひんやりとした風が吹く。それでもなお、肌は汗で濡れていた。

 一夜は彼女に気づいて振り返ると、苦々しい顔をした。

「悪いことは言わない。俺だけはやめとけ」

 空洞のような声。

 排気ガスの臭いがかすかに残る空間は、重たい雰囲気に支配されている。

「そうかな。君は村を守って伝説になったんだよね? むしろ、優良物件だと思うんだけど」

「そういう問題じゃない。そもそも、俺はそんな大層な存在じゃないんだ」

 視線を落とす。

 彼は言うべきか迷った様子を見せつつ、ついに口を開いた。

「俺はなにも守れちゃいない。全滅だったんだ。あの日、全てを失った。村での生活。愛した人々。楽しかった日々。取り戻したいことがあった。今はなにも残っちゃいない。取り戻せるわけがない。時間の波に押し流されて、俺だけがみっともなく、希望にすがりついている。こんな哀れな自分を、誰が笑ってやれるものか」

 どんよりとした空を背負って、低い声を出す。

 彼は色が失ったような顔をして、沈んだ目で遠くを見つめた。

 枯れ葉の匂いがして、淀んだ空気が広がる。地面はぬかるんでいて、足が滑りそうだった。

「いくら伝承で飾ったところで、そいつは俺じゃないんだ。意味なんてない。本当の自分に気づいてくれるやつはいない。誰も見てくれなかったんだから。お前だってそうだ。今ある俺は幻だ。不気味なだけだろう」

 人間とは相容れない。

 そばに現れたか細い光をはねのけるように、一夜は断言する。

 それでも彼女は首を横に振った。

「それは違うよ。だって、あたしには君が見えているんだから」

 凛とした顔で、はっきりと言い切る。

 少女の持つ爽やかな香りが、陰鬱な空気を払った。

 瞬間、息を呑む。

 彼女の澄んだ声の残響が、心に広がる。

 熱い感情が鼻をつんと抜けた。

「どうして……君は」

 彼の顔に光が当たる。

 急に視界がクリアになって、景色が鮮明に映る。


 なお、続きは出ず、繰り出すべき言葉を失う。

 二人の間を風が吹き抜けていった。

 悲しげな旋律を奏でるように。

 無言の静寂を切り払うように、彼女は口に出す。


「君はいるんだよ、ここに」


 まっすぐな言葉が、霧がかった心にまで届き、照らす。

 ああ、そうか。

 本当の自分を知ってなお、肯定する者ならば、目の前にいる。

 おのれの望みはすでに叶っていた。

 悟り、声を詰まらせる。

 心がしびれ、震えた。

 今ようやく、自身に空いた穴が塞がった。


 きらめく太陽の下で、青年は明るい笑顔を見せる。


「よかった」


 静かに告げる。むせるような熱気に包まれながら。


 瞬間、希美は目を見開く。

 彼が薄れていくのに気がついたからだ。


「待って……!」


 慌てて手を伸ばす。

 駆け出した。

 だけどもう、間に合わない。

 青年は柔らかに微笑んだまま、彼女の前から姿を消した。

 その残像が霧のように溶ける。


 少女の手は空を切った。


 気がつくと墓場はみすぼらしくなっていた。あたりには退廃的な匂いが漂い、冷え冷えとした風が吹き抜ける。

 彼女はその場に立ち尽くし、走行音が雑音に消えるのを聞いていた。


 ややあって、心は凪いだ。

 枯れた墓場に立ち尽くしながら、現実を受け止める。

 彼は二度と現れないと。

 それでも彼女は悲しまなかった。土と樹木の深い香りが、じんわりと心を癒す。


 静謐の中、ふと足元に視線を落とすと、花があることに気付く。春に咲くもののように、明るい色をしている。しっとりとした甘い香りを放っていた。

 しばし、彼女は余韻に浸っていた。


「ねえ」

 そこへ声がした。

 振り返る。

 声の主は前髪パッツン・ストレートヘアの女子高生。同級生だ。傍らには数名のお供が控えている。

「あんた、なにやってんのよ?」

 からかうような口調。そのためにわざわざ相手を探していたと、言わんばかりだ。

「私ね、今、大切な話をしてたんだ」

 希美は遠くを見つけて微笑んだ。

「話って、誰もいないじゃない」

 相手は呆れたようにこぼす。

 希美は首を横に振った。

「いたんだよ、確かに」

 クリアな声。

 それは希望でも逃避ではなく。

 明確な事実だった。


 雨上がりの空には雲ひとつない。カラットした空気が広がっている。

 涼しげな風が吹き抜けた。青々とした香りがあたりに立ち込める。

 今、西の空に日が沈む。あたりは橙色に染まりつつあった。

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