第32話 親バカ

ほっ、と小さく息をついて、冷めてしまったココアに目を落とす。

大丈夫、上手くやれたはずだ。

取り乱したりはしなかったし、嫉妬も未練も冗談と混ぜ合わせて誤魔化した。

冷静沈着、声も、普段のまま。

可愛くない女だなぁと我ながら思う。

キーリングで繋がった二つの鍵を、指でまんで持ち上げる。

目の前にぶら下がったそれは、仲良く並んで揺れる。

外すべきか否か。

……これくらいは、許してもらおう。

「ああ」

何故かそんな声を漏らした。

喪失感? 虚脱感? 

でも、幼馴染なのは変わらない。

例えば周囲を見渡しても……ほら、居間の柱に付けた背比べの跡とか。

私の部屋に行けば、もっと色んな痕跡が残っている筈。

雪だるまも毎年のように作ったけれど、あれは溶けちゃったしなぁ。

日当たりの悪い北側の庭の片隅が、いつも雪だるまの定位置で、今日も残っているかどうかを学校帰りにけをしたっけ。

縁側のガラス障子しょうじの向こうは真っ白だ。

白いキャンバスみたいで落書きがしたくなる。

「バーカ」とでも書けばスッキリするだろうか。

でもまあ、あなたはよくやったわ。

気立てのいい可愛らしい彼女よね。

元カノとしては、つまらない女に引っかからなかっただけでも喜ばしい。

ただまあ、あなたは不器用だから、もう少し上手く彼女を守れるようにならなきゃね。

私は、暴力は嫌いだ。

でも、話の通じないやからがいることも知っている。

あなたは隠していたけれど、何度あなたのれた顔を見たことか。

大して腕っぷしも強くなかったのに、小学校、中学校と、あなたは敵ばかり作っていたね。

高校のときは、割と上手くやっていたのかな。

周りも大人になっていたし、あからさまに私を侮辱ぶじょくしたり忌避きひする人はいなかったようだし。

でも春平、そんなヤツら、ほっとけばよかったんだよ?

表沙汰にはならなかったけれど、大学でもやってしまったんだよね?

あなたは理由を語らないけれど、自主退学という形で責任を取ったんだよね?

……春平はバカだなぁ。

いや、賢明だったのかな。

私のそばにいたら、いつか傷害事件を引き起こしてたかも知れないもんね。

うん、そう考えると、あなたの選択は正しい。

バカで不器用なあなたは、そうすることでしか私も自分も守れないと考えたんだね。

本当は私のこと、大好きなくせに。

なーんて、ね。

私は白いキャンバスに自分の手をかざした。

ほら、あなたが愛してくれたように、私もこの手を愛する。

あなたが誇ってくれたように、私もこの手を誇りに思う。

そのことが、過去のあなたの全てを肯定してくれる。

そしてそれを、あなたは誇ってほしい。

「……葉菜?」

あら、お父さん、目を見開いてどうしたの?

「どうして、泣いてるんだ?」

あららら、冷静沈着、声も表情も普段通りのつもりだったのに、涙腺は解放してしまっていたようだ。

こればっかりは意思の力で制御するのはままならない。

「春平君か?」

私が涙を流すとすれば、春平のこと以外に無いとでも思ってるのだろうか。

「まさかとは思うが、いや、長いこと春平君と会っていないし、薄々おかしいとは感じていたが、もしかして……別れたのか?」

能天気な父親も、やっと真実に気付いたようだ。

でも、最後の言葉は口にしたくなかったのか、顔をゆがめて辛そうに言う。

「とっくに別れてたから、春平とは関係無いよ」

「ちょっと待ってろ。いまお父さんが春平君に電話するから」

「ちょ、やめてよ」

「葉菜よりいい娘がいるわけないだろう」

「親バカ過ぎて涙も止まるわ」

「何なら蔵に監禁しても」

私の周りの男どもは犯罪者予備軍ばかりか!

「そうだ、子供が出来たと言えばいい」

「もう随分とご無沙汰よ!」

「大丈夫だ。彼なら微粒子レベルの可能性でも責任を取る筈だ」

「空気中を泳いで辿たどり着きました、ってどんだけアグレッシブで生命力の強い精子──って、バカなこと言わせないでよ!」

「それだ! その手でいこう」

「アホなの!?」

「でも、いったいどうして……」

「世の中の半分は女性なのよ? 私だけに固執こしつする必要は無いでしょ」

「バカ野郎! 葉菜は一人だ!」

「大丈夫よ。人としては愛してもらってるから。たぶん、誰よりも」

「葉菜ぁ……」

もう、なんでお父さんが泣くかなぁ。

ホント、春平と同じで泣き虫なんだから。

……まあ、私のこと以外で泣いたのは見たことが無いけど。

うーん、愛されてるなぁ。

春平から感じた愛も、こういう家族愛に近いものがあったのよね。

女として、それはちょっと複雑な思いだけど、ある意味では不変と言えるような?

でも……うん。

「私は、愛されている」

過去形ではなく、そう言える。

「当たり前だ。父さんは葉菜を溺愛できあいしてる!」

いや、お父さんのことじゃなくて。

「春平君もきっと同じだ。葉菜を愛しすぎて頭がおかしくなったんだ」

……親バカで頭がおかしくなったのでは?

「なーに、しばらくすれば頭も冷えて、葉菜さんを嫁にください、って言いに来るさ」

若者並みに妄想たくましいなぁ。

「ねえ、お父さん」

私は、縁側のガラス障子を見つめる。

真っ白だ。

「雪が綺麗だね」

「え? あ、ああ」

真っ白なキャンバスに夢を描くことくらい、別に構わないよね。

お父さんの妄想に負けないくらい、私はそこに豊かな絵を描くのだ。

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