第9話 親子喧嘩

家に帰って玄関のドアを開ける。

コーヒーの匂いとパンの焼ける匂い、あるいはリクエストとは違うが味噌汁の匂い、なんてものを期待したが、葉菜は俺の布団にくるまって幸せそうに眠っていた。

……二人で暮らしていた頃は、ベッドじゃなきゃ寝られないと言っていたけれど、布団でもちゃんとぐっすり眠れているならそれでいいか。

俺はハムエッグを作り、トーストを焼き、コーヒーをれる。

その匂いに誘われたのか、葉菜が目を覚ました。

目が合う。

「おあよ」

寝起きの舌足らずな挨拶と、照れくさそうな笑み。

布団から出てきた葉菜は、相変わらず胸は小さいものの、その白い肌と均整の取れた綺麗な身体には、つい見惚れてしまう。

「って、なんで下着姿なんだよ!」

以前は見慣れていたものだから思わず流してしまいそうになったが、意識して見てしまうと新鮮な高ぶりが目覚めてしまいそうになる。

「あ、白よりピンクの方が良かった?」

「誰もそんなこと聞いとらんわ!」

コイツは俺の好みを熟知している。

白だろうがピンクだろうが、ストライクゾーンなのが恐ろしい。

「おはようのキスが無いのは不満よ」

「朝飯を用意してないことに、こっちが不満だ!」

「……キスで起こしてくれたら、私が作ったのに」

「もういい。さっさと食え」

「ごめんね」

「いや、朝飯くらい別に……」

「お布団汚しちゃって」

「何で!?」

「いただきます」

スルーかよ!

まあ……たぶん、冗談だろう。

いちいち追及してたらコイツの思う壺だ。

でも、何となく早く布団に入って眠りたいと思うのは、きっと仕事で疲れてるからに違いない。

あるいはもしかしたら、かつてはずっと一緒だったその匂いが消える前に、なんて心のどこかで思っているのだろうか。

茶目っ気のある含み笑い。

俺はそこから目を逸らし、ブラックコーヒーを飲んで取り繕おうと──

「つーか、先に服を着ろ!」


「じゃ、帰るね」

朝食を終えると、意外にあっさり帰り支度じたくを始める。

「ホントに寝るためだけに泊まったのか?」

「そういうわけじゃないけど……私がいると寝られないでしょう?」

考えてみれば、一昨日の夜に起きてから一睡もしていない。

コイツなりに、退くべきところは心得ているのだろう、俺の睡眠の邪魔はしたくないようだ。

「送ろうか?」

住む場所は近い。

元々は大学の近くにマンションを借りたのだし、バイト先もそこから近い場所を選んだ。

今のアパートは、よりバイト先に近くなっただけのことだ。

「その権利は、次に取っておくわ」

「権利って、そんなものはいつでも……」

権利とかじゃなくて、もっと当たり前の感覚。

でも、そのくらいの距離感は必要かも知れない。

「あ、そうそう、駅前の再開発が始まったわよ? 春平はこことバイト先の往復ばかりで知らないでしょう?」

「あ? ああ」

別に駅前がどう変わろうが興味は無いが。

「そろそろ」

そろそろ?

「私の再開発も頼むわね」

「っ! さっさと帰れ!」

俺は追い出すように葉菜の背中を押し、そのくせ大切なものを扱うように、そっと手を離した。

ったく、アイツの中で俺との距離感はどうなってるんだ。

いや、それこそ俺の中で、アイツとの距離感はどうなっているのだろう?

アパートの廊下から、アイツの後ろ姿を路地から消えるまで見送り、アイツはアイツで、路地から表通りに出る前に必ず振り返る。

そしていつも、その大人っぽい容姿とはちぐはぐに、俺に向けて大きく手を振るのだ。

普通の人より小さく見える手のひらが、白くひらひらと揺れて、俺は少し胸が痛くなった。


ドアチャイムの音で目を覚ます。

時刻は十九時過ぎだった。

寝たのは八時頃だったから、十時間以上も眠ってしまったことになる。

それにしても、随分と執拗しつようにチャイムが鳴り続ける。

新聞は取っていないし、公共料金その他も滞納はしていない。

来訪者など皆無と言っていい。

俺はいぶかしく思いながらも、さほど警戒もせずにドアを開けた。

「よぅ!」

「……」

想定外だ。

いや、思い当たる来訪者などいなかったのだから誰が来ても想定外なのだが。

「……何故ここを知っている」

「お姉ちゃんが」

「亜希はどうして知っているんだ?」

「知らない」

……まあ、あのコンビニの常連さんなんてほとんど近所の人だから、亜希もたまたま俺が部屋に出入りするところを見かけたりしたのだろう。

「で、どうして来たんだ?」

「今日はお父さんがお休みで」

「うん」

「お姉ちゃんがハルヒラのところでも行ってこいって」

「うん?」

さっぱり判らんぞ。

「お父さんが休みだと何かあるのか?」

一抹の不安が頭をもたげる。

育児放棄を心配したこともあったが、お父さんがいると妹を家から追い出すって、まさか……な。

「最近、言い争いばっかしてるの」

「亜希とお父さんが?」

「そう。私に聞かせたくないみたい」

俺は取り敢えず有希を家に上げ、何かお菓子でも無かったかと戸棚を物色する。

有希は俺の布団ふとんの上に寝っ転がってはしゃいでいる。

修学旅行気分なのか?

でも、そんな有希を見ていると、俺の不安など馬鹿げた杞憂きゆうであるのではと思えてくる。

「しゅんぺーの匂いがするー」

ぶっ!

「おい、布団から出ろ!」

何故か俺は、布団とたわむれる幼女、いや、少女に危険なものを感じた。

男の匂いを嗅いで嬉しそうな表情をするのは、いかなる理由があってのことなのか。

「しゅんぺー、どうしてちょっと女の人の匂いもするの?」

ほら、やっぱり危険だ。

いっちょまえに女の目をして、有希は俺をジロリとにらんでくる。

いや、今はそんなことよりも亜希のことだ。

「言い争いの内容は判るか?」

「私としゅんぺーの?」

「争ってねーよ!」

「ちょっと、どこの女を連れ込んだの!」

争いを演出するつもりなのか、ドラマか何かの女優のような口振りで有希が言う。

その演技が意外と上手いので、まるで彼女に怒られているような気分になる。

「ごめん、お前だけだから」

「あなたの言うことなんて信用できないわ。これで何度目よ」

「今度こそ、心を入れ換えるから」

「ホントに?」

「ああ」

あれ? 何やってんだ俺?

「いいわ、もう一度だけだまされてあげる」

おい、どこでそんなセリフを憶えたんだ。

「来て」

有希が布団の上で両手を広げる。

「……有希」

「しゅんぺー」

目と目が合う。

俺は両手をゆっくりと伸ばし、有希の可愛らしい顔に触れ、そしてそのほほを……引っ張った。

「いひゃい」

「おふざけはここまでだ」

俺は真面目な顔をして言った。

亜希が有希をここに送り込んだのは、もしかしたら、何か俺に伝えたいことがあるからかも知れないと思ったからだ。

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