ガールフレンド

ららしま ゆか

第1話

 子どもの頃は、怖いものなんてなかった。

 お化けや雷、夜中のトイレといったもののことじゃない。失敗することも嫌われることも怖くなかった。わたしに出来ないことはないし、なにをしても許される。わたしはなんでも知っているし、特別な存在だから。

 幼い全能感に守られていた頃、叶わない願いなんてないと本気で信じていた。けれどそんなのまやかしだった。誕生日ケーキに蝋燭を刺さなくなった冬を幾つか繰り返して、わたしは気付いた。世の中には叶う願いより叶わない願いの方が多いということ。それから――報われなかったという事実を突き付けられることの、恐ろしさに。



  ⊿ ⊿ ⊿



 キャンパスの隅に位置する学生ラウンジは、待ち合わせをするには最適だ。教室が多く入る棟にあるラウンジはどの時間帯でも学生が多いが、このラウンジのある棟の教室は講義での使用頻度が低いのか受講者数が少ないのか利用者は疎らである。そのおかげもあり、二時を過ぎると柔らかい陽射しが注ぐこの席はいつの間にかわたしの指定席となっていた。

 待つことは苦ではない。相手を待たせる心苦しさを感じなくて済むし、待っている間に本を読んだり音楽を聴いたりして暇を持て余しながら頭の片隅にしっかり居座る相手に目を向けるのがちょっぴり楽しくもある。例外は、勿論居るけれど。

 文庫本を半分まで読み進めたところで、とんと肩を叩かれた。

「お待たせ」

 振り返らなくてもわかる。彼女はきっと少し申し訳なさそうに眉を困らせて、それでいて薄い唇で綺麗に笑みを作っている。本から顔を上げると、彼女は想像した通りの表情でわたしを見下ろしていた。

「いつもより待たせちゃったよね、ごめん」

「んーん、そんなことないよ。行こ、ゆーちゃん」

 ゆーちゃんこと館林游たてばやしゆうは、この大学に入っていちばん最初に出来た友達だ。すらりとした長身に、淡い色の少し癖のある髪。マッシュボブがよく似合っている。切れ長の目を縁取る睫毛はマスカラなしでも長くて、目許に差す影まで味方にしていた。彼女に初めて会ったときには整った容貌に見惚れてしまったほどだ。

 本を鞄に仕舞って立ち上がる。鞄のハンドルを肩に掛けて椅子を元の位置に戻そうとしたとき、ヒールがフロアタイルの目地に引っ掛かったのか足許がぐらついた。カクンという嫌な感覚が足首に走る。転ぶ、と思ったときにはわたしはゆーちゃんに抱き留められていた。

「ごめんね、ありがとう」

 心臓のどきどきを隠してゆーちゃんを見上げる。彼女はわたしの顔を真上から覗き込んで心配そうに眉を寄せている。

「大丈夫? 捻ってない? 痛い?」

「……ううん、平気みたい。痛くないよ」

 そう答えると、ゆーちゃんはほっとした様子で腕の中からわたしを解放してくれた。

「もう、ヒールのある靴は止めなって言ったのに」

「だって、これお気に入りなんだもん。それに三センチもないんだよ?」

「ユニは鈍くさいんだから、ぺたんこ靴じゃないと危ないって。またこの間みたいに怪我したらどうするの」

 ゆーちゃんは「めっ」をするお姉さんみたいな表情をして言った。彼女の言葉にわたしは思わず頬を膨らませそうになる。つい先日、わたしは今日のようにヒールのある靴を履いていて足を挫き、両膝を擦り剥いたばかりだった。彼女の言葉はもっともである。

 ゆーちゃんはわたしのことを“ユニ”と呼ぶ。雪似と書いてユイと読むわたしの名前を彼女が読み違えたのがきっかけだった。最初はくすぐったかったその呼び方にも今ではすっかり慣れて、彼女だけが呼ぶ特別な名前が好きになった。けれど。

 同学年で同い年。大人びているゆーちゃんと、子どもっぽいままのわたし。少しだけ、自分が嫌になる。

「わたしも、ゆーちゃんみたいになりたいのに……」

 いつでも背筋がぴんと伸びていて、颯爽としていて、着たい服を着ている姿がたまらなく格好いいゆーちゃん。今日だって黒いレザージャケットにパイソン柄のラバーソールという辛口なファッションがよく似合っている。大学デビューに失敗したわたしにとって、彼女は憧れのひとでもある。

 ゆーちゃんは、悄気るわたしの頭をわしわしと撫でた。

「ユニはどんなカッコしてても可愛いよ」

 さらっとそんなこと言うなんて、ずるい。ほっぺたが熱くなる。赤くなっているはずの顔を見られたくなくて、わたしは俯いた。頭の上ではゆーちゃんがくつくつと笑っている。

「今度、ユニに似合うぺたんこ靴選んだげる」

 ゆーちゃんの言葉に、わたしはパッと顔を上げた。「ほんとう?」と聞き返せば、彼女は目を細めて、

「本当。あとで都合のいい日教えて、予定合わせよ」

「嬉しい! ありがとう、ゆーちゃん」

 ついさっきまで十日前に買った風船みたいにしおしおになっていたわたしの心は、あっという間に元気を取り戻した。

「じゃ、行こっか。ユニが飲みたがってたシトラスゼリーなんとか、限定なんでしょ。売り切れちゃう」

「シトラスジェリーアイスティーフロート、だよ」

 にっこり笑ってみせて、ゆーちゃんの背中を追い掛ける。まだ予定を合わせたわけではないのに、足取りが軽くなる。しかし、わたしは心の隅っこでちくちくとした疚しさを感じていた。


 ゆーちゃんは、わたしの自慢の友達。

 わたしには、彼女に言えない秘密がある。

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