08:雨が、止まない。

 三年生最後の授業はあっけなく終わった。今学期を掛けて製作したピンホール・カメラのネガ現像をした。

 合否の出た生徒も増える中で、試験の山場を終えたことで卒業の実感を得て賑わいを取り戻しつつある授業風景は、それでなくとも侘しい。

 生徒の中には現像写真に文字を添えて贈ってくれる者も居た。贈り合う生徒も居る。どのクラスでも別れを惜しむ時間が続いた。

 その中に、森宮の姿はなかった。

 エスケープでもなく、純粋に、欠席だった。

 冬季コンクール会場で西海に会って以来、俺の中の動揺は僅かながら収まっていた。自覚と同時に諦めをあの時に決意したのかも知れない。

 別のクラス含めて、森宮以外にも欠席者は居た。いずれもピンホール・カメラ本体が完成していたので、個人的に写真を撮って、各生徒の担任へ託すことにした。

 校内を周ってポイントを取り、定点へ据えて置くだけだ。数枚分ずつ撮影して、準備室の暗幕を引いた簡易暗室で現像を行った。

 そのうちの一枚には、あの校庭を入れた。個人的に外せないと思った。

 葛西とは以降柵もなく、それまでと変わらずに交流が続いていた。森宮への写真の件も二つ返事で引き受けてくれ、ただ一言「生徒想いだな、」とだけ微笑った。

 封筒へ入れたモノクロの写真には、こっそりと文字を添えた。「卒業おめでとう」。悩んだ末に自然で、慎ましやかな句に止めた。

 礼服を着込んだ当日、美術部員の卒業生に囲まれては朝から写真を撮り撮られて一歩も動けないような状態で過ごした。

 祝いの席に憂うような小雨が降り続き、冷え込む体育館での証書授与を終えて、響き渡る仰げば尊しを耳に、俺の心中はもうすっかりと静けさに包まれていた。それを、哀しく思った。

 ――だけども、ひとつだけやり残したことがある。

 あの約束だけは、守りたい。式を終えて教室へ、廊下へ、グランドへ、思い思いの場所で残っている生徒を校舎の端から端、それとなく挨拶周りをしている態で森宮の姿を探して回る。

 脇へは、玉紐つきの茶封筒――中へ一番の素描画を携えて。

 森宮を探している、とは言えなかった。数人に誰か探しているのかと訊ねられては、笑って誤魔化した。

 実はとっくに校内を出てしまっているのかも知れない。そんな予想をしては肝が冷える思いだ。

 不意に、校舎内から、中庭を見下ろした。雨は、まだ降り続いている。

 そこに人影がひとつあるのを確認して、胸騒ぎを覚えると、体は急ぎ足で階段を駆け下りた。

 胸に飾る花が見えた。卒業生であるのだけは視認した。

 来客玄関の脇、俺の描いた「緑の庭」の側をすり抜けようとした時、中庭へ続く外扉から入る人影を見つけ、足を停める。

「……森宮」

 急ぎ様に軽く息が上がっていた。整えながらに、近づく手前久方振りに見る森宮の姿をまじまじと眺める。

 間違いなく森宮だった。糊の利いた制服に身を包んだ様が惹き立つ。驚きを全面に出しつつ、こちらを窺う様な眼差しで俺が近づくのを待つ。

「忙しいンだな、新任教師も」

 馴染みになった揶揄に、笑みが添えられる。その姿を見られただけで俺は、何かが充たされる様な気にさせられた。

 情けなくも、咽喉に言葉が張り付くようにして中々、次の句が出ない。

「卒業、おめでとう」

 それだけを紡ぐのにどれぐらい掛かっただろうか。酸素の欠けた魚のように口を開いていた。

 見るに耐え兼ねたか、森宮は肩を震わせて笑う。

 ふ、と俺は息を吸った。

「……森宮、絵には自分が正しく映し出されるんだよ。描きたいものしか形にならない。お前が、描きたいと思うものが本当にないというのなら仕方がないかもしれない。それでも、……どうか、描き続けてくれ」

「……何、言って」

「賞なんてどうだっていいんだよ、誰かに褒められる為に描く必要なんてない。俺がお前の絵が好きなのは、お前にしかその色が出せないからだ。お前が賞を取るからじゃない、……そんなことは解ってたはずだろう」

 森宮の肩へ手を伸ばして、……置く。触れる。掴む。

 一番に伝えたかったことを、ようやくと吐き出せた。

 森宮は堪えるようにゆるく唇を引き結ぶ。

「聞きたく、なかったな。アンタの口から、そういうこと」

 その言葉は俺にとって予想外だった。尤も、森宮自身にとっても俺の言葉がそうであったようだが。

 相変わらず、来客用玄関の周辺は人ひとり迷い込まず静まり返っている。ありがたいことだったが、その静寂が妙に沁みた。

 俯くようにしながら、森宮は浅く息を吐き出す。

「……描きたいけど、描かないかもな。思い出すのってさ、わりとこわいンだ」

 森宮の心情は測れない。ただハッとした。真っ先に思い浮かんだのはこの二月描き続けた素描のことだ。この、携えた封筒の絵のことだ。

 俺が動くより先に、森宮は続ける。

「ありがとな、高橋。正味のところ、理屈抜きで千紘のことよろしく頼むよ。オレの、自慢なんだ。」

「――…森宮、これを」

 肩を掴んだ手を離して、茶封筒を改まって差し出した。

 それを見て、森宮はいつかのように満面くしゃくしゃの笑みを俺に見せる。

 それから、そっと封筒ごと俺の胸へと押し返した。

「ごめん。描けないし、受け取れない。……本当にありがとう」

 揺るぎなく紡がれる言葉。森宮はもう、顔を伏せてしまっていて表情を見せない。見せようとしない。

 無理矢理にでも持たせてしまうべきかを悩むより先に、描くことも受け取ることも拒まれた現実に俺は虚脱状態に陥っていた。

 立っているのがやっとのまま震える手で返された封筒を抱え、真っ白になった頭で次にどうすればいいのかを考えた。

 その隙に、するりと森宮が脇を抜けて行く。早足で、振り返らずに。

 追い駆けて、それで、どうする。何を伝えたい、これ以上?

 自問する声に答えを選べなかった。その間に一刻と小さくなる背中を、見つめ続けることしか出来なかった。

 思いの丈を詰めた作品だけが、俺の手元には残ってしまった。

 暦の上でも春は程遠く、冷たい、冷たい、氷雨の降りしきる一日だった。

 持ち帰った素描を元に、俺は放ったままおいたキャンバスへ筆を置いた。

 時間はもういくらでもあった。後はただ納得が行くまで自分と向き合うだけだった。

 当初抱いていた、怒りにも似た悔しさが再び煮えることはなかった。ひたすらに、心が寒いだけだった。

 もし俺が教師でなかったなら? それでもきっと伝えることは叶わなかっただろう。このキャンバスの上に、紙の素描にしかこの想いを描くことは出来なかった。そんな弱さをこそ、悔いた。

 櫻が膨らみはじめる頃、新年度は新入生クラスの担任を持つことが決定した。

 担任希望を出すことでその忙しさからこの痛みも少しは鈍痛に変わるかも知れない。変わるといい。そんな思いだった。

 想定通りなら、西海千紘も入学していてその才能を間近に感じられることになるだろうと。

 痛みはいつか風化する。けれどそれは、いつか勲章のように思い出せるものに変わって行くのだと。そう、信じた。

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雨が、止まない。 紺野しぐれ @pipopapo

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