03:駆け引き

「デッサンとか、クロッキー帳は? ……高橋ってモネ好きだろ。オレも好き」

 ぱらり、ぱらりと乾いた紙を捲る音と、ぶっきらぼうで傍目に機嫌でも悪いのかというような森宮の声が響く。

 ちらりと横目に流し見る分に、スケッチブックへ目を落とす森宮の顔は真剣だった。怒っているわけではないらしい。

 放課後の美術準備室、俺は時間の空きをここで過ごすことが多かったのを何処で知ったやら嗅ぎ付けて押し入ることもう数週間。

 週三の割合で訪ねて来てはやれスケッチを見せろ、と詰め寄ってくる。

「デッサンは二冊ぐらい家にあった気もするが……。あの庭の絵を見たら、そういう感想も出るか」

「出るよ。っていうか、あの中庭がオマージュなんだよ。オマージュ」

「へえ」

 やけに手入れの込んだ庭で、真夏でも恐らく十度は違いも出そうな濃い緑と木々の影、御池には睡蓮の葉が群を作っていた。

 一度見れば目蓋に焼きつく美しい庭だと、俺も思っていた。

 ぺらり。森宮の白く細い指が紙をまたひとつ、捲る。今日見ているのは大学時代のスケッチブックだ。学生時代、登山趣味も兼ねて登る山登る山で筆を取った。人を描くより、物を描くより、自然物を描くことにだけ集中していた。

 対して森宮の描く作品は静物画中心の写実画だ。その点に於いて得るものはないように思うのだが、森宮の視線は変わらずだ。

 鋭く物を捉え、より本物に近く、触れたいと思わせる絵を描く。それが齢十八になろうとする高校生、森宮の絵だった。

 咄嗟にこの春季絵画コンクールのことを思い出して溜息が洩れ出る。頬杖をつくところに森宮の怪訝そうな視線が向いた。

「……いや、春季コンクールを思い出した。お前の絵が目当てだったのに」

 虚を突かれた様な顔をする。数秒ほど固まってみせてから、無表情に戻り、再び紙面に目を落とした。

「なかったろ。描きかけなら、あるよ。……家に」

「どうして、やめた? ……、無理に訊くつもりはないけど」

 森宮の表情がにわかに硬くなった気がしては、声色を抑えつつ訊ねた。

「……………」

 沈黙は重い。ゆっくりとした所作にスケッチブックを畳み置いて、木製の作業台の上にトン、と軽快に乗り上げる。

 そんな動作を俺は隣のデスク前で椅子に腰掛けて見上げた。

 何に思い馳せるのか、視線を泳がせながら手元で指先遊ばせて、森宮は溜息を静かに吐き出した。

「俺はやめて欲しくないんだよ。それは、前任の玄之内先生も同じだったはずだろう」

「……知ってンだ、ジジイのこと。玄ジイ、元気だった?」

 語尾上がり訊ねる声。

「会って、ないのか」

「玄ジイが辞めるって知ったのが、冬季コンクールの頃だ。オレ、ギリギリには描かない主義だからひと月前には仕上げてる。だから、冬季コンクールの参加登録済ました後で退職が明るみに出て、もう次は描かないって言った」

 手元を頑な見据えて語る口調は重い。

「……先生は元気だったよ。必ずいい絵を残せるからって、お前をよろしく頼むってさ」

 途端、森宮の形相が険しくなった。側にあった缶の筆立てを力任せに腕で払い退け、部屋中響く金属の高音が跳ねて筆がばら撒かれる。

 息を飲んだ俺を、俺に対してではないのだろう憤怒を沸き立たせて睨みつける。

「ふざけるな。ふざけるなよ……、オレの卒業まであと一年ぽっちだったンぜ、定年でもないのになん……、……なんで……」

 両拳を握り込んで俯いた森宮が声をわずかに震わせた。毅然と振舞う常の彼を思えば、それは失態に近いだろう。見ないようにして黙ったままに散らばる筆を拾い集めて缶を元へ避ける。恐る恐る窺った視線の先には眦ぐいと拭って仏頂面を努める森宮が居た。

 てっきり定年退職を疑わなかったが、口振りからすればそうではないということだろう。四月の記憶を遡っても、内柔外剛、しゃんとした老教師が居るだけだった。とても病気を患った風には見えなかったが今ここで訊ねるのはあまりに無粋に感じて、ただ頬を掻いた。

「……八つ当たりもいいとこだよな、高橋には、関係ない話だ」

「オレはお前が描けない方がずっとつらいよ。どういう葛藤があったのかは分かった。でも、それで何もすべてを投げ出す必要なんてないんじゃないか? ……描きかけだって言ったな、つまり向き合おうとした。まだ、迷ってるんだろう」

 俺の絵に齧りついたのを前にそういうことを言うのは、大人の狡いところだと俺は思う。違う、と勢いで否定をすることはなく、俯く森宮の視線の先には俺のスケッチブックがあった。

 下校を促すチャイムが鳴る。夕刻は六時。開いた窓の外で、グランドを駆ける部活動中の生徒の声がしている。

「この間も言ったけど、俺は純粋に森宮の絵が好きなんだ。お前にしか、あの色は出せないんだよ」

 さて、とデスクを立てば、森宮も素直にそれに従いするりと床に立つ。そっとスケッチブックを手にした。

「借りてく。……あのさ、高橋」

「……うん?」

 この間一秒に満たない。首を傾いだ次の瞬間には森宮の顔が目前にあった。身長差を補うように胸倉のシャツを鷲掴まれたまま、唇が触れる。

 目を閉じるような余裕が俺にあるはずがない。こなれたようにも、初々しいようにも感じる、触れるだけに止めるキスだった。

「アンタって、隙だらけなンだよ」

 薄く微笑いながら胸倉突き放して離れた森宮は、楽しそうに零して、じゃあな、と吐き棄てて教室を出て行く。

 残された俺はしばらく棒立ちで放心した。子どものように拗ねる様がちょっと可愛いかったじゃないか、なんて言葉の上に打ち消し線引いて加える。

 奴になめられたらおしまいだ、と。


 ◇◆◇


 梅雨入りの季節は物憂げになりがちだと人は言うが、幽玄さがより一層増すあの苔生す緑の庭を見ればそれも悪くはないと思う。

 モネの描く『睡蓮と日本橋』の複製画が校長室にあると知って以来、まるで答え探しをするように、中庭のよく見える廊下へ足を運んだ。

 雨が降れば濡れた緑がなお美しい。あの絵のように橋はないが、そっくりトレースしてしまったものを造園師は好まなかったろうな。あれも作品のひとつなら。そんなことを思い窓際へ凭れつつ時間を過ごすのが日々の癒しとなった。

 癒しだったんだ、が。

 こともあろうか見下ろした中庭で、森宮を見掛けてしまった。

「……もりみ、――――」

 授業中だぞ、と声を掛ける前に事態を体が察して声を潜めていた。

 森宮と思しき生徒は上背のある別の生徒と連れたって木々の陰に隠れてしまう。

 授業中の逢引き。以前非常階段で一緒に居た相手か。そんなことを頭が過ぎりながら、俺は二階、一階と素早く降りた。確認じゃない。エスケープであるのなら注意喚起は至極当然だろう。何も、おかしくはない。

 一階の窓から覗いて確認する。やはり、見紛うことなく森宮だった。

 さもつまらなさそうな面持ちで幹を背に預けた森宮は、男子生徒のするがままに委ねているのが窺える。上靴のラインで相手が下級生であることも分かった。

 ひまつぶし、という態度からして先日の相手と同じなのか、それとも誰が相手でも同じなのか。

 息苦しさを覚えて浅く呼吸を吐きつつ、窓の前から動けず視線を注ぐ俺が居た。

 ガラス越し加えて距離のある先の会話は聴こえない。眉を上げて上目に唇を動かすその独特の高飛車具合から、睦まじい恋仲のような会話がされていないのだけが分かる。

 不意に森宮が顎を上げてこちらへ視線を投じた。刺すようにまっすぐ俺を射抜いた後、含みのある口許を見せて微笑った。

 俺は怯えたような顔をしただろうか。自分自身どのような顔で居たかは思い出せない。ただ、咄嗟に「授業」と口パクめいてはそれが体裁ばかりのただの覗き屋になっている自分を恥じた。

 森宮はひらひらと手を振って追い払う挙動を示す。吠える犬をあしらう余裕振りに似ている。

 その様子に気づいた相手の男子生徒が遅れてこちらへ気づいた。俺は窓越し拳をついて咎めるように眉を顰めて睨みを利かせてみる。

 「へいき、手は出してこない」森宮の唇の零す言葉は、音こそ聴こえないがはっきりと読み取れた。俺が読むのを分かってやっている風だった。

 いくつかのやり取りの後に少し笑い合う姿を前に、俺の体は廊下に縫い止められているように動かない。

 森宮には先日の脅し文句があると思っているのだろう。悲しいかな、事実的に俺は目前にして踏み込めないままだった。唇を噛まずにはいられない。

 揶揄するように時折俺へ向け目配せを送りながら、森宮は男子生徒と戯れ続けた。

 交わされている角度を交えた深いキス。あの初心にすら感じたキスこそ本当の戯れだったのだ。そんなことに意外なほどに衝撃を受けていた。馬鹿馬鹿しい。

 チャイムが鳴り響くまで、俺は何かの呪いのようにその場を動けないままだった。

 我に返る頃、もう中庭には誰の姿も見当たらなかった。

「すごい顔してたな、高橋」

「………ッ」

 振り返るなり森宮がそこへ突っ立って居るなんて誰が思う。情けなく声を詰まらせた俺は後退した勢いで窓に肩を打つ。

「怒ってるくせに、一部始終ぜーんぶ観てるなんてエラいな。オレの言葉がそんなに効いてるとは思わなかった」

 いけしゃあしゃあと余裕顔で言葉を並べる森宮の指が、よれていたのか俺のシャツ襟とネクタイを整えようとするのを、軽く払った。

「あまり調子に乗るなよ。今になって内申落とすなんて正気の沙汰じゃない、授業に出席するぐらいはちゃんと果たせ」

「シてることに言及はないワケか。高橋らしいね」

「……、やめろと言ったら聞いてくれるのか。いずれにせよこんなこと、他の人間ならこうはいかない」

 我ながらまるで威厳がない。程なく教室移動で廊下にちらほらと生徒が見え出し、自然互いに声が潜まる。

「目の前で起きてなければ問題ない?……所詮そんなものだよな、結局」

「どういう意味だ」

「オレが問題にならない一番の理由は、アンタ達教師のその性質のおかげだね。………、いいこと思いついた」

 森宮にとってのいいことはきっと俺にとってのよくないことだ。そんな直感は多分、恐らく外れない。

「高橋が相手してくれりゃいいんだ」

「馬鹿な……」

「授業には出るよ。こういうこともやめる、……どうせ飽きてた。褒美に高橋が一番欲しがってるもん、やるよ」

 俺の声を遮ってつらつら述べた森宮は、俺が断るハズなんてないとばかりの余裕で笑う。

「……夏のコンクール」

 ポン、と肩を叩いて、森宮は廊下を歩く生徒に混じって去った。

 残されてひとり胸にモヤを抱くのがもはやお約束になりつつある気がする。

 教員用トイレの鏡で森宮が直そうとした襟とネクタイを整えつつ、俺は、森宮と逢って何度目かの、……もう数えるのも疲れた。何度目とも知れない溜息を、吐いた。

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