02:緑の庭

 それは俺の常識を容易く覆し、そして頑なに信じていた何かを壊して行った。

 さる放課後、例の中庭の下絵を時間外に描き進めていた俺はその日も陽が傾く時間まで就業していた。

 刻々と陽に表情を変えてしまう風景は日中の授業外にしか描けないが、多少の手直しなら準備室のテリトリだけで事足りる。

 美術部の部員が帰って行く姿を見送る後で、施錠して、少し校舎内をうろついてみよう――、思えばこれがいけなかった。

「……っ、から、……め、だ」

 ひと際人の気配の薄い一角。校舎端の技術棟と呼ばれた副教科教室の集まるそこで、途切れがち、小さな声を耳にして俺は足を止める。心臓が文字通り飛び跳ねる思いだった。

 誰か居るのか。まず視覚で捉えようと足を、息を、無自覚に殺して声の元へ近づいて行く。

 非常階段入り口手前。金属製の重い扉はガラス窓が嵌っているが、格子入りでスリガラスの役割を果たしている。

「――も、止せッて。それ以上は今はヤだ」

 先より鮮明に聴こえる会話は、それでも少し声を潜めている風だ。

 吐息がちの声音は確聴き覚えのある…………森宮の声の、気がした。

「ンだよ、オマエが誘ったくせに」

「ねーよバカ。サカってンのはそっちだろ」

 返す声の主も明らかに男の声だ。続いて、ちゃり、ちゃり、少し高い金属音。咄嗟に思いつく。ベルトのバックル、それに似ている、なんて。

 「ヤッてたりするんだって」頭にフラッシュバックした声にびくり、身体が硬直する。

 もしかしなくてこれは、トンでもない場所に今俺は居るのでないか。踏み出すことはおろか、踵を返すことさえままならずにただただ鼓動だけが音を響かせる。不味い、不味い、と。

「好いから、も、帰れっつってンの。お前そっちから帰れよな。一緒にいるの見られたら堪ンない」

 不機嫌そうな森宮の声に、不満げな声が被さる。そっち、が注す場所がどちらかも知れない。俺は咄嗟とはいえ隠れ場所にはあまりに間抜けな、扉の影に身を移すのが精一杯だった。

 トントン、気怠げな足音はまず階段側に聴こえた。そして一拍の後、はぁ、と重い溜息。

 背にした扉が外側へ開かれ、体勢を崩しそうになったところで己のミスを悟る。

「…………、悪趣味」

 隠れる場所など何処にもなかった。間抜けな、あまりにも間抜けな、俺を視界に入れた森宮は意外なほどに余裕のある表情で俺を見据え、軽口を叩いた。

「この間の仕返しにしちゃ、ちょっとなあ。そりゃナイんじゃねえの、高橋」

 絵を見ただけじゃん。付け足し、あーあと嘆息して髪を掻く森宮の制服は普段のそれより僅かに乱れた跡。解いたネクタイをそのままに、シャツも裾を遊ばせ、更にその足元に灰を揉み消した吸殻の後が転がっていた。

 不純交際、喫煙行為。これは立場的に叱る以外何があろう、思い直して俺は一息吐いて壁から背を剥がす。

「悪趣味だろうが、俺は教師なんでね。追求する権利はある。……噂が本当だとは、思いもしなかったが」

「……ハッ、知ってたんだ。だったら尚更、オレも口外されちゃ困る。奥の手を出すよ」

 森宮の異常な余裕は消えなかった。紅い唇、弧を描いたまま、まっすぐ俺を捉える瞳を外さずに足を出し、進路も退路も断つように前に迫った。

「噂があるなら、なんでオレは今日まで何も咎められずにノーマークなんだ?……単純、手を出させないからだと思わない?」

 語尾上がりに滲む挑発。細まる瞳に絡め取られるよう、微動だに出来ずに、恐らくは森宮にひどく動揺を露わにしてしまっていた気がする。森宮が、薄く微笑ったから。

 次の瞬間、股の間に圧を感じて視線をちらと下ろせば、森宮の膝がそれはもう意図的に触れていて。俺の動揺が更に増すのを手に取った様に今度は声を立てて笑う。

「俺の爺さん、未だに教育委員会にコネがあってさ。俺に激甘なンで、そうそう悪いこと漏れねーんです」

 しれっと述べる言葉に、思わず眉が寄った。

「悪いこと言わないよ、アンタこっち越したばかりなんだ、郷に入らば郷に従えッて、サ」

 耳元で囁いて、粘こく笑った森宮は、ややもして退屈した様子で膝を下ろした。

 冷めて、不遜な顔をしている。

「……俺に見逃せって」

「そういうこと。別に、大したことないだろ、目ェ瞑ってりゃ済むだけの話」

 軽く言いやがる。分かった、なんて言える訳もなく。押し黙る俺を前に森宮は待とうとしなかった。つい、と隣をすり抜けて、乱れた衣服直しながらに廊下を歩いて行く。その背中を複雑な思いで見送るしか出来ない。

 遠く、窓の外で鳥の声がした。陽が沈み掛けている。緋色に染まる無人の廊下を見通して、俺は、ただただ、嘆息するしかなかった。

 手強い、なんてものじゃあない。心が折れそうだった。


 ◇◆◇


 外来者用正面玄関を潜ってすぐに目に飛び込む位置に、俺の描いた『緑の庭』は飾られた。あの中庭をいたく大事にしている校長が聞き付けて頭を下げに来たのだった。惑いつつ、断る理由なぞないので承知した。

 いい絵ですな、とにこにこしながら両手を後ろに組みつ立つ校長の姿をそこでよく目にした。

 悪い気はしない。美術室の廊下側、生徒らの作品を掲示ながらに気を好くしていた。

 ゴールデンウィークを挟んで、数日が経っていた。

 森宮の手による学内風景画はやはりひと際異彩を放っていた。ただ、コンクールで見てきた物とはまた違う。業を持ちながら、愉しまずに描いたのが分かった。絵に対する情熱がそこには感じられなかった。それでも、他の美術部員とさえ差異が表れるのが森宮なのだ。

 先月の脅迫めいた一件以来、森宮が俺に近づくことも、俺が森宮に近づくこともないままでいる。下手な散策がまた現場に出食わすのじゃないかと思っては、人気のない場所を避けて移動している俺が居た。事実がどうであれ、目の当たりにしなければどうということはないのだと言い聞かせた。

 授業中の森宮は、学ぶことなんてないと言いたげに窓際を陣取って頬杖ながらに外へ視線を投げている。そんな姿だけは、脳裏にいつまでも焼きついた。

 「裕を、よろしく頼みます」そう言った老教師の言葉がクロスする。このまま夏を控えては、夏季コンクールも森宮は筆を取らないのじゃないか。そんな思いはきっと杞憂ではないだろう。どうにかしなければ。

 そのためには接触せざるを得ないじゃないか。腰が重い理由は漠然と分かるものの、真に理解したくはない。思い出すことさえ後ろめたかった。

 人気ない『緑の庭』の前を通ったのは偶然だった。棒立ちの生徒の姿が森宮であることに気づいた時、一瞬の動揺が襲った。その場を立ち去ってしまいたい気持ちと、理由はともかく絵画へ興味を持つ姿への好奇心とがせめぎ合った。

 どんな顔で居るのかは窺えないが、声ひとつ、呼気ひとつ立てずに森宮は佇んでいた。俺の、絵の前で。

 そうして振り向いた表情は、俺を見上げて尚、驚嘆したままだった。

「……高橋が」

 言いかけた先を飲み込むように小さく咽喉を上下させる。

 俺も依然、この状況に平静を保てずにいる。鏡のように同じ表情をしていたろうと思う。

 浅く、呼吸を吐き出した。

「高橋が、描いたのかよ、これ」

 ようやくと言った風に吐き出された言葉はそれでもまだ本当に言いたいことを言っていないことが窺えた。ああ、と頷いて見せてから、食い入るように逸れない視線をこちらから逸らした。水彩の緑へ移す。

「校長がいたく気に入ってくれたもんでな。……、なあ森宮。夏季コンクールの、――」

「描きたくない」

 言い終わる前の断定の言葉は強くゆるぎない音をしていた。

 思わず眉を寄せた俺に、森宮は頭を振ってみせてから、言葉を繋いだ。

「……オレもう、美大行くつもりないから。ないけど、……アンタの絵は見たい」

「何言って……」

「だから、絵は描きたくないけど、アンタの絵は見たいっつってンの」

 どうだ、とばかりに矛盾するようなことを言う。うれしいやら悲しいやら、迷ったように変な溜息が出た。触れる必要もないほど森宮の進路は揺るがないと思っていた俺に、この直接の告白はダメージがでかかった。

 腕組む俺のシャツを掴んでは揺らしてくる。

「いいだろ、減るもんじゃなし」

「……夏季コンクールと授業に真面目に出てくれるなら考えないこともない」

「なンだよ、ずるい。オレの進路なのに」

「お前の進路だから、だろう。俺の絵で森宮のやる気が出るんなら易いものなんだがな」

 俺の言葉の前に、森宮はにいまりと微笑った。それはいつか見た自信に満ちた笑みだった。掴んでいた裾を放して、踵をくるりと返す。

「高橋次第かな。オレをノせてみろよ、教師なら。んじゃ、放課後狙って行くからヨロシク」

 ひら、ひら、後ろ手に右手泳がせて去る姿には満悦を浮かせて。

 このきまぐれすぎる生徒を扱っていたあの老教師の業を思わずにはいられない。

 ああ。

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