第56話 失うもの

 私は応接室を後にして、自分の窓際のデスクへと戻った。

 気分が晴れなかった。


 すぐに仕事に取り掛かれるような状態ではなかったので、席を立ちオフィスを後にしてお手洗いへと向かう。

 個室に籠った途端、胸の奥からやるせないような苦しい気持ちが込み上げてきた。


 その胸の苦しさは喉の手前まで来て、鼻を鳴らす。

 視界は滲み、気が付けば嗚咽を漏らして泣いていた。


 最初は、彼が出世してくれたら鼻が高いなと思うくらいの、一人の可愛い私の後輩社員に過ぎず、彼の気持ちになんて、微塵も気付いていなかった。

 私をいつも慕ってくれて、周りのフォローもしっかりとやり遂げて、谷野さんの教育もしっかりと遂行してくれる頼れる後輩。

 時には、私が根詰めて困っている時に手を差し伸べて手伝ってくれた。


 だからそこ、彼にはもっと上の立場で物事を見て、自分の世界を開いていって欲しいと思った。それでも、彼は一向に首を縦に振らなかった。


 どうしてなのと問い詰めても、彼は頑なに谷野さんの教育を遂行したいという口実で逃げ、本当の理由を教えてくれることはなかった。


 そんなある日、私が疲労困憊で疲れていた時、彼に聞いてしまった。『どうしてそこまでして助けるの』と?


 彼から帰って来た答えは意外なものだった。


『先輩が好きだからです』


 初めて私の心が揺れ動くのが分かった。

 けれど、私は傲慢だった。琢磨君に人生でやりたいことを見つけてもらい、私も同じマウントに立てたら付き合うという条件を出してしまったのだ。

 その結果、彼が導き出したやりたいことの中に、気が付けば私という存在は必要なくなっていたのだ。


「ずっと慕ってくれていた後輩から振られるのって、こんなにつらいものなのね」


 網香は初めて、失恋というのを知ったのだ。

 こうして網香もまた、自分の道を改めて本気で探し始めることになる。



 トイレから出ると、手洗い場兼メイク場で、困惑したような表情を浮かべた谷野さんが立っていた。


「や、谷野さん……」

「ご、ごめんなさい、たまたまお手洗いに来たら・・・・・・」


 お互い気まずそうな笑みを浮かべる二人。


「あははっ……後輩にこんな見苦しいところ見せちゃったら情けないわよね」


 そう言って、網香は慌てて化粧ポーチを取り出して、化粧を整えなおす。


「別に、辛いときは思いっきり泣けばいいと思います。先輩後輩関係なく、悲しくて辛いときは、泣いていいです。私たちは女の子なんですから」


 彼女の言葉は、どこか自分が経験したことのように聞こえた。


「……そうね。これも女性の特権かしらね」


 わざとらしく谷野に相槌を打つ網香。


「先輩、今日の夜あいてますか?」

「えっ?」

「よかったら一緒に飲みにでも行きませんか?」


 谷野さんから積極的に網香を誘ってくるなんて初めてのことだった。


「いいけれど、どういう風の吹き回し?」

「ま、失恋同士の悲しい慰め会みたいなものですよ」


 苦笑いを浮かべながら頬を掻く谷野。

 あぁ、そうか。

 この子も琢磨君のことが・・・・・・。

 悟った網香はふっと一つ息を吐いて、にこりと笑みを浮かべた。


「いいわよ、行きましょうか」


 こうして、二人は一人の男から受けた被害者の会を結成して、共に分かち合った苦しみを共有して、また次の道へと進んでいくのだ。



 ※※※※※



『由奈、大事な話がある。今度の金曜日、いつもの横浜駅前のところに来てくれるか?』


 琢磨さんからメッセージが届いたのは、木曜日の夜の事。

 私がシャワーを浴び終えた後のことだった。

 あんなに酷い態度を取っておいて、よくもまあぬけぬけと連絡出来たなと感服すら覚える。

 でも、そんな私の怒りとは裏腹に、もう一度会いたいという胸が痛むような気持もまた同じくらい感じていた。


 私ははがゆさを押し殺して、一言だけ素っ気なく返事を返した。


『わかった』


 と。


 彼がどういった理由でわざわざ会いたいなどと連絡してきたのかは分からない。

 けれど、同じ夢を探す者同士。

 最後まで彼の結論を聞きたいと思う。

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