~幕間~

第21話 散策

 さすがに傷を負いすぎた。体力も戻っていないのだろう。以前の治りの早さが嘘のようだ。弱りきったショーンの身体の回復は思った以上に遅かった。

 心のどこかに安心感もあったのかもしれない。久しぶりに目覚めて軽い食事をとったあの日、彼はかなりの高熱を出し、そのまま長い間ずっととこに伏すこととなった。

 寒い。それなのに汗は止まらない。夢とうつつ狭間はざまをずっとさまよっているような感覚。彼自身、自分が眠っているのか起きているのかすらわからない状況が、何日も何日も続いていた。

 傷の痛みと四十度前後の高熱に連日うなされ続け、自力で起き上がることもできない。そんな彼を見かねて、司祭たちはいろいろな解熱薬を調合してくれた。それらをすべて試したが、どんな薬も彼の熱を下げることはできなかった。なかでも最初の七日ほどは壮絶で、何を食べてもそのほとんどを吐き戻していた。そのさまはまるで、今まで溜め込んだ疲労や悪いものを身体がすべて吐き出そうとしているかのようだった。


 一ヶ月ほどでようやく熱が落ち着き、ショーンは自力で起き上がれるようになった。それほどの長い間あの厳しい状況に持ちこたえられたのは、彼の並外れた体力と、生きることを諦めない強い精神力のおかげだろう。


 女性陣の看病のおかげで表面的には治ったように見える傷。だが、一ヶ月が経っても骨や神経の傷はまだえきっていない。

 高熱に冒され自力で起き上がることすらできなかった頃は、あまり気にならなかった。しかし熱の落ち着いた今、ショーンは身体のあちこちに残る痛みや痺れに、自身の負った傷の激しさを思い知らされている。


 自力で起き上がれるようになってから三日。ようやく彼は、壁伝いに手をつきながらではあるが、自力で歩けるようになってきた。それからさらに数日。ショーンはすっかり落ちた筋力と体力を取り戻すため、メラニーやエマに付き添われながら修道院の病棟内や中庭をゆっくりと歩いている。最初の頃は少し歩いては休憩を挟んでいたが、今は休憩なしに中庭を何周も回って病棟に戻ってこられるまでになった。



「ねえショーン、今日はちょっと修道院の外に出てみない?」


 朝食をとり終えた直後のこと。司祭やエマも交えて四人で薬草茶を飲みながら食堂で歓談かんだんしていると、不意にメラニーが提案してきた。


「いいですね。そういえばショーンさん、まだこの修道院の外をご覧になっていないのではありませんか? 今日は散策日和のようですし」


 窓の外の青空を見ながら、司祭がおだやかな笑顔で言う。


「それなら、滝まで行かれてはいかがです? あそこは聖域ですから魔物も出ませんし。私、ご一緒はできませんが軽食を準備しますね」


 エマは妙に楽しそうだ。

 皆の様子を見るかぎり、安全な場所なのだろう。しかし、しびれの残るこの身体では、万が一何かが起こったときに以前のようには戦えない。滝までの様子がわからない彼には即答はできなかった。


「それは俺としてもありがたいが、俺の身体はまだ万全とは言えない。滝まではどのくらいの距離がある?」

「そうですね、道のりとしては一キロメートル程度でしょうか」


 エマが答える。


「ここは集落から少し離れた森の中です。滝は集落とは反対の方向ですね。ここから滝まではほとんどが平坦な道のりですが、滝の近くの三分の一くらいは登り下りもあります。今のショーンさんの体力でしたら、ちょうどいい運動になると思いますよ。街道と聖域内の山道ですので、動物や魔物に襲われることはまずありません。今の時期は虫がいっぱいいますけれどね」


 その言葉を聞いて、ショーンはふわりと表情をゆるめた。

「ありがとう、エマ。メラニー、案内してくれるか?」

「もちろん!」

 メラニーは満面の笑みをショーンに返した。



 エマの作ってくれた軽食を受け取り、ショーンとメラニーは修道院を出た。

 誰にも支えられずに外を歩くのは久しぶりだ。夏の気配がただよう明るい森の街道を歩きながら、ショーンは心が浮き立つのを感じていた。


「うふふ、ショーンなんだか楽しそう」

「そうか?」


 気恥ずかしさからそう答えたが、本当は彼にもわかっている。緑の匂い。木々のざわめき。生き物たちの息遣いきづかい――全身で感じる森の気配が懐かしく、また嬉しくてたまらないのだ。


 山道に入り、なだらかな登り下りを慎重に歩く。

 神経がつながるまでは、あまり無理はできない。下手をすれば、その痺れと一生付き合うことになるから。ゆっくり一歩一歩、確かめるように地面を踏みしめて歩く。


 木の根や石のでこぼことした細い山道だが、しっかりと整備されているようで歩きやすい。

 緑の香りのするそよ風が心地よい。少し息を弾ませながら、木漏れ日を浴びて二人は歩き続けた。


 水音が聞こえてくる。小さな沢の流れる音が。気温も上がり少し汗ばんだ身体に、水音が涼を運んでくれた。メラニーも鼻歌を歌いながら、楽しそうに先を歩いている。


「この坂を登ったら、もう滝が見えるよ」


 それほど大きな滝ではないのだろう。あるいは岩壁の陰に隠れているだけなのだろうか。サーッという水音は聴こえるが、まだその姿は見えてこない。


「ほら、あそこ!」


 メラニーの指す先には、斜面の下に美しい渓流けいりゅうと、岩壁を流れ落ちる落差十五メートルくらいの二段の滝が見えた。木々の隙間から見える滝壺たきつぼの水は青く澄んで、苔生こけむした岩肌がキラキラと輝いている。飛沫しぶきのヴェールに覆われたその光景は、どこか幻想的だった。


「美しいな……」

「でしょ。近くまで行こうよ。ちゃんと滝壺まで道が続いてるんだよ」


 メラニーがショーンの手をとり、急な坂を下りはじめる。


「大丈夫だ、メラニー。この坂では両手が空いていたほうが安全だ。一緒に、ゆっくり歩こう」

「うん、わかっ――」


 言いながらメラニーが足を滑らせる。ショーンは咄嗟とっさに彼女を引き寄せ抱き止めた。


「怪我はないか?」

「あ、ありがとう。びっくりしたけど大丈夫だよ」


 抱きかかえた腕にメラニーの心臓の鼓動が伝わる。鼓動が速い。


「そうか、良かった」


 そう言いながら、ショーンも自らの鼓動が速くなるのを感じていた。安心したはずなのに、この胸のざわめきは何なのか……。



 斜面を下り、細い渓流にかかる木の橋を渡る。水音に混ざって聴こえる鳥たちのさえずり。鹿たちの呼び合う声。どれも警戒の色はなく、穏やかだ。


 滝壺のほとりに着いた。上段は水量が少ないながらも勢いよく降り注ぐ滝。下段は黒い岩肌を滑るように流れ落ちる滝。小さな滝壺は思ったほど深くはなかった。といっても、彼の身長でもおそらく最深部では底に足はつかないだろう。

 滝壺から渓流へは、滝と同じようになだらかな表面の黒い岩肌を水が滑っていく。おそらく気の遠くなるような長い年月をかけて水が岩の一部の表面を削って、今の流れとなったのだろう。水の中の一枚岩と同じ岩質だが、水面から顔を出した小さな岩の肌はゴツゴツとして、緑鮮やかな苔に覆われている。上段の滝からの飛沫しぶきが広く飛んで苔をうるおし、緑を輝かせる。


「気持ちいいね」


 飛沫を浴びながら、メラニーが微笑む。


「そうだな」


 少し汗ばんだ肌に、薄いヴェールのように降り注ぐ飛沫が心地よい。


「うふふ、冷たい」


 滝壺のほとりに膝を突き、メラニーはその水に触れた。


「落ちないように気をつけろ」


 言いながら、ショーンもメラニーのかたわらに向かった。


(水が呼んでいる――)


 水の声を感じた彼は、ブーツを脱いで素足になると、ズボンのすそを膝下まで折り上げて水の流れる滑らかな岩の上に進む。

 流れの中ほどまでくると、くるぶしまで水にかった。水が冷たい。けれどあたたかい。なんと言えば良いのかわからないが、この水からショーンの身体に何かが染み込んでくるような感覚がある。嫌なものではなく、懐かしくあたたかい何かが。痺れや痛みを忘れ、ショーンはその場で滝を見上げた。


 彼の左腕で腕輪が淡い光を放つ。何かを訴えかけているように、腕輪が熱を帯びてくる。


「お前たち、水が欲しいのか?」


 腕輪を見てそうつぶやくと、ショーンはその場でしゃがんで左手を足元の流れに差し入れた。


 腕輪が水に触れた瞬間、急に滝壺から光があふれた。龍の形をした七色の光が絡みあいながら滝を昇っていく。


「うわぁ、綺麗!」


 メラニーが滝壺のほとりで感嘆の声を上げる。

 息をのむほど美しい光景。ショーンは立ち上がってそれを眺めていた。


 滝のてっぺんまで昇りつめると、その光はショーンめがけて勢いよく飛んできた。

 まぶしさに両腕で目をかばい、咄嗟に防御の体勢をとるショーン。彼の全身に光が降り注ぐ。


「ショーン!」


 メラニーの焦った声が聞こえる。


 ショーンの全身を飲み込んだ光――この光には、水と同じ冷たさとあたたかさを同時に感じる。全身の痛みや痺れ、疲れが溶け出し、洗い流されていくような感覚。その光はぐるぐると彼の周りを回ったあと、左腕の腕輪に吸い込まれるように消えていった。


「ショーン、大丈夫?!」

「ああ。大丈夫だ。むしろ今の龍が俺を癒やしてくれたらしい」


 彼は全身の痺れが薄くなったのを感じていた。力がみなぎる。身体が軽い。


「あれ? ショーンそれ……」


 気づくと右手に何かを握っていた。七色に輝く透明な筒……いや、ただの筒ではない。


「これは……横笛?」


 間違いない。管の片側はふさがっている。吹き口である歌口うたぐちの他に指孔が七つある。これは横笛だ。故郷で吹いたことのある笛によく似ている。


「音、出るのかなぁ? ショーン、笛吹いたことある?」

「子供の頃に吹いたきりだが……」


 そう言いながら、ショーンはその笛を構えて歌口に息を吹き込んでみた。

 澄んだ音色が響き渡る。指が覚えている旋律をつむぎはじめる。そこにメラニーが歌を乗せる。


 吹き終えると、ショーンは静かに笛を下ろした。


「すごいすごい! ショーン、どうしてその曲知ってるの?」


 メラニーが少し興奮した様子でたずねてきた。


「子供の頃に村でよく演奏されていた曲だ。村に古くから伝わる曲だと聞いた。それよりメラニー、君も何故あの歌を知っていた?」

「だって故郷の歌だもん」


 ショーンが驚いて動きを止めた。故郷……その言葉は彼には重い。


「ん? ショーン今、私が帰れないのは自分のせいだって思ってるでしょ」


 ショーンは息を止めた。キースと対峙したあの夜、自分は大事な選択を誤った。自分が選択を誤らなければ、メラニーはきっと力を使い果たすこともなく、天に……故郷に帰れていただろう。そして、あんなに悲しい顔をさせずに済んだはずだ。彼がそう思っているのは事実。そしてそれが、人の心をのぞくことができる天使、メラニーに筒抜けなのもわかっている。


「そんな悲しい顔しないで。前にも言ったけど、あなたについていくことを選んだのは私だよ。それに、ショーンと出逢えてなかったらきっと、まだ私はさなぎのままだったと思う」


 メラニーも靴を脱ぎ、川へと入ってきた。そして流れの中で立ち尽くすショーンをぎゅっと抱きしめる。


「大丈夫だよ。私はいつか必ず天に還れるから。だから安心して」


 そのぬくもりに、ショーンの不安は溶けていく。不思議なほどの強い安堵感あんどかんに包まれる。


「……そうだな。ありがとう。君を守ると言いながら、俺は君に助けられてばかりだ」


 そう言いながら、ショーンはメラニーを横抱きに抱きあげた。


「え?」


 戸惑うメラニーに、低く落ち着いた深い響きの声が答える。


「ずっと入っていると足を冷やす。それに、ここには飛沫をさえぎるものもない。ずぶ濡れになる前に、そろそろ上がろう」

「うん」


 メラニーは穏やかな表情に戻ったショーンに微笑みかけ、ぎゅっと抱きついた。



 滝のよく見える、あまり飛沫のかからない乾いた場所を見つけて、彼らは腰かけた。エマの用意してくれたサラダと鳥ハム、ずっしりとした食感のパンを頬張る。瀬音や鳥の声、そよ風が揺らす葉ずれの音……以前は日常だったそれが、今は贅沢に感じる。


「さっきの龍、びっくりしたけど綺麗だったね」

「そうだな」


 言いながら、ショーンはふと腕輪に目を落とした。


「ん?」

「あれ? 腕輪の形が変わった?」


 メラニーが腕輪を覗き込む。


「龍が増えてる!」


 メラニーが嬉しそうに声を上げる。そう、そこには青い目の龍が加わっていた。


 今までは赤と緑の目の龍が、絡みあいながらお互いの首に食らいついていた。今は三頭の龍がそれぞれ牙をむくこともなく絡みあい、彼の左手首に収まっている。


「そうか、お前たち……もう傷つけあわずに済むんだな」


 そうつぶやいたショーンの目は、心なしか優しく緩んでいた。



 少し休憩してから、彼らは帰路に就いた。


「ねえ、ここにかわいいものが生えてるよ」


 メラニーの指さすものを見ると、足下を白い殻のようなもので覆われた小さなキノコだった。つるんとした印象だが、縁の近くにひだのある真っ赤な傘が印象的だ。


「これは……メラニー、お手柄だ」

「え?」


 傘が赤く、傘の裏や柄の部分はオレンジがかっている。そして根元の白い袋状の壺がショーンに確信を与える。


「間違いない。タマゴタケだ。食べられるキノコの中でも旨味が強い。美味いぞ。これは極上の食材だ」

「それじゃ修道院へのお土産にんで帰ろうよ! ほら、あそこにもいくつか生えてるし」


 メラニーの指さすほうを見ると、確かにいくつか同じような見た目のものが生えていた。


「そこにある柄が白いものはダメだ。それはベニテングタケという毒を持つキノコだ。下の壺もないだろう。それはそこに生えている、白い斑点のついたものと一緒だ」

「へえ、こんなにかわいいのに毒キノコなんだね」


 ショーンの指さした白い斑点つきのキノコに近寄り、メラニーはじっくりと観察した。


「ベニテングタケの毒を抜く方法もなくはないが、こいつは毒そのものが旨味なんだ。抜けば味は落ちるし完全に抜くこともできない。安全なタマゴタケを探そう。こいつらの生えやすい場所はよく似ている。ベニテングタケがこれだけ出ていれば、近くにまだタマゴタケもあるだろう」

「うん。どうやって見分けるの?」


 そう言いながら彼を見上げるメラニーに、ショーンは穏やかに答えた。


「真っ赤か少しオレンジがかった、遠くから見るとつるんとした傘。近くで見ると、傘には縁のほうに向けて細かい縦のひだが入っているのがタマゴタケだ。傘が開いていれば、赤とオレンジの色鮮やかな雨傘のようで美しい。傘の上に白い斑点があったらダメだ。なかったとしても、傘の裏や柄が白いものは雨や飛沫で傘の斑点を洗い流されたベニテングタケ。必ず柄がオレンジ色のもので、できれば下にタマゴの殻のような壺があるものを探してくれ」

「柄がオレンジで、タマゴの殻っぽい壺ね。わかった!」


 楽しそうなメラニーの様子を見て、ショーンはふわりと表情を緩めた。


「小さいものは残していこう。大きめのものだけを採って帰るぞ」

「うん!」


 こうしてキノコを探しながらの帰り道。結局、人数分のキノコが修道院への土産となった。

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