第16話 夢

 夜。青年は広い草原に一人腰かけて、さえぎるもののない広い空を見上げていた。

 ところどころにかかる雲。雲間には星が輝き、満月が明るく地上を照らしている。

 空にかかる虹の橋。昼間のような鮮やかさはないが、どこかはかなげで幻想的なそれは、彼の心を捉えて離さない。

 静かだ。緑の匂いを含んだ夜風が優しく頬をでていく。草ずれの音が、さらさらと耳に心地よい。

 青年はゆっくりとまぶたを閉じた。静かに時が流れていく。この穏やかな時が、いつまでも続いてくれれば……。


 不意に風が止まった。草を踏む音が近づいてくる。青年は正面に向き直り、ゆっくりと目を開けた。


「意外と遅かったな」


 青年の声に、足音が止まる。


「おや、待っていてくださったのですか。それこそ意外ですね」


 どこか妖艶ようえんな男の声。ローブをまとったその姿は、つい先日見たばかりだ。


「やはり、生きていたか」

「それはお互い様でしょう。またお会いできて嬉しいですよ、ショーンさん。私の『影』はいかがでしたか? なかなかいい出来だったでしょう」


 青年はゆっくりと立ち上がり、キースと向き合った。


「お前は何故、この腕輪の力が欲しい?」


 キースは不敵な笑みを浮かべながら、ショーンに一歩近づいた。


「……この世界を、あるべき姿に戻すため……でしょうか」

「あるべき姿?」


 ショーンの問いに、キースはふわりと微笑んだ。


「あなたも気づいているはずだ。我々人間が、どれだけ貪欲どんよくにこの世界を壊してきたか」


 キースは一歩ずつゆっくりとショーンに近づいてくる。


「自らの欲望のため、人間がどれだけ罪を犯してきたか……私はただ、この世界を救いたい。そう考えているだけなのですよ」


 手を伸ばせば届くところまで近づいて、キースは立ち止まった。


「あなたが生きているのは正直誤算でした。あなたの死体から腕輪を回収するつもりでしたが、メラニーさんでしたか? まさか彼女が天使だったとはね。しかも私の呪いを綺麗に消し去り、あなたの生命を呼び戻すほどの力を持っている。火傷のあとわずかでも残っていれば、簡単にあの呪いを復活させられるというのに、見事に邪魔をしてくれました」


 ショーンの顔色が変わる。どす黒く熱い何かが塊となって、一気に背中を駆け上がってくるような感覚。ショーンの眼差しが鋭さを増す。その眼に怒りの炎が宿る。


「あの子には手を出すな!」

「あははは………あなたにもそんな顔ができるのですね。安心しました」


 キースは楽しげに笑った。


「それでこそ、あなたを苦しめる甲斐があるというもの」


 キースがまた一歩近づいた。ゆっくりと手を伸ばしてくる。ショーンは逃れようとしたが、何故か身体が全く言うことを聞かない。背中がぞくぞくとして、全身に冷や汗が浮かんでくる。

 キースの右手がショーンの頬に触れた。その指先がゆっくりとショーンの首筋をなぞる。あごをグイッと持ち上げられ、ショーンはキースに視線を無理やり合わせられた。ショーンは視線をらさず、キースをにらみつける。


「あなたのその視線が、いつまでその鋭さを保てるか……見ものですね」


 キースの顔が近づく。やめろと叫びたいのに声が出ない。熱い吐息がショーンの首筋にかかる。背中と腰に回されたキースの腕。何かを描くように首筋をう生暖かい舌の感触。力を吸い取られるような感覚におそわれ、ショーンのひざがガクリと折れる。キースは次第に力を失っていくショーンをしっかりと抱き止め、ショーンの頭を支えながらなおも続ける。


「……や……め………ッ」


 やっとの思いで絞り出した言葉。そんな彼をもてあそんでいるかのように、肩口から耳元へ向かって何かを描きながら這う舌の感触。しびれる身体。気持ちが悪い。力が、抜けていく。あらがえない。力と一緒に吸われるように、意識までもが薄れてくる。


(なんとか逃れなければ――)


 彼は辛うじて指先を動かせた右手に意識を集中した。次の瞬間、不意に唇を奪われ、ショーンは目を大きく見開いた。

 急に身体の自由が戻る。弾かれたように飛び退いたショーンは、キースを睨みつけながら蒼月の柄に手をかけた。


「あそこで声を出せるとは……正直驚きました。やはり、あなたが欲しいところですが……」


 キースは妖艶ようえんな微笑を浮かべて口を手の甲で拭い、楽しげにショーンを見ている。


「ふふふ、いい顔だ。ご安心ください。私は男色ではない。これはあなたを見失わないためのしるしです。次にお会いするときは、お互い手加減なしといきましょう。私は手段を選ばない。どれだけこの手を血に染めようと構わない。たとえ天に弓引くことになろうと、あなたの大切なものを遠慮なく壊しますよ」


 憎しみと怒りが理性を突き破る。ショーンはこらえきれずに抜刀し、キースの胸を貫いた。


「なっ――」


 強い衝撃がショーンの胸を走る。暗転する視界。全身から一気に力が失われていく。


「またお会いしましょう。今度は現実で」


 痙攣けいれんする身体。頬で感じる地面の感触。意識が途切れる直前、たのしげなキースの声が響く。確かにキースを貫いたはずの剣は、ショーンの胸に深々と刺さっていた――。




 ショーンは飛び起きた。窓の外を見ると、昼下がりの光が木々を明るく照らしている。


「………夢……か………」


 嫌な汗でぐっしょりと濡れた服。その上から自分の胸を撫でる。心臓が早鐘を打ち、胸がズキズキと痛む。手に残る、抵抗する筋肉に押し戻される刃を無理やり押し込んでいく生々しい感触。あれがただの夢だとは思えない。

 痛む胸を押さえ、ショーンはうつむいて小さくかぶりを振った。嫌な予感がする。

 ショーンは辺りを見回した。誰かが洗濯してくれたのだろう。彼の服は畳まれて、すぐそばのテーブルに置かれている。剣は見当たらないが、ここにあるぞと言わんばかりに腕輪の龍たちの瞳が光る。

 ショーンは小さくうなずいてベッドを抜け出し、自分の服に手を伸ばした。立ちくらみ、倒れそうになった彼はテーブルに勢いよく両手をつく。そのとき、部屋の扉がガチャリと音を立てた。


「ああ、まだ起きてはいけない!」


 エマが慌てて駆け寄る。


「お身体にさわります。どうか戻って……」


 ふらつくショーンの身体を支えながら、エマはゆっくりと彼をベッドに座らせた。


「どうかなさったのですか?」

「……いや、何でもない」

「でも、すごい汗……熱は落ち着いたようなのに……」


 エマはショーンの額や首筋の汗をハンカチでぬぐい、彼の顔をのぞき込んだ。


「顔色も、おやすみになる前より悪くなっています。どこか痛みますか? そうでなければ、悪い夢でもご覧になったのでは……」


 ショーンは思わずエマから視線をらした。


「ごめんなさい。あなたを困らせるつもりはなかったのですが……あの、お水と着替えを持ってきますね。そのままでは風邪をひいてしまいますから」

「あ……いや、俺のほうこそすまない。……ありがとう」


 エマはにっこりと会釈して部屋を出ていった。


 その後ろ姿を見送ったあと、ショーンはいそいそと自分の服に着替えはじめた。ありがたいことに、ズボンに開いた穴は綺麗につくろわれている。

 ズボンを履き終え、シャツに手を伸ばしかけたそのとき――。


「キャーッ!」

(エマの悲鳴?!)


 声に驚いて廊下に飛び出すと、窓の外で反対側の壁際に追い詰められたエマの姿が見えた。彼女を追い詰めたものは、狼の頭と竜の腕を持つ人型の魔物――。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る