三話

 呂啼舟が震える息を吐き、頬を涙が伝う。指先に触れたそれをそっと拭ってやると、風天巧は縛られたままの呂啼舟をおもむろに抱き寄せた。つんのめるように風天巧の腕に収まった呂啼舟は嗚咽を漏らし、鼻をすすって言った。

「だが、私のことはもういいのだろう。お前にとって別れ話は余計な輩を切り捨てるためのものなのだろう」

「そうではない。生憎私は貞淑ではいられないが、たとえこの世の終わりが来てもお前のことを思い出さない日はないと誓って言える……だがな、啼舟。私は穆哨に言われて分かったのだよ。この世にいない男を想い続けて後悔の中に生きるよりも、今目の前にいて自分を想ってくれる相手と心を通わせるべきなのではないかとね。……それに、お前も苦しいだろう。捨てられた、裏切られたと永遠に思い続けるのは。思うに、私たちは二人とも、次に進んでも良いのではないかな? 私たちが想いあっていた過去は、事実としても思い出としても残り続けるのだから」

 風天巧はそう言って呂啼舟の体を少し離すと、その唇に――穆哨の唇に己の唇をそっと重ね合わせた。

 過去には露骨で乱暴な接吻も幾度となく交わしてきた二人だが、それに比べたら俄然淡白で、挨拶にも物足りないような軽い接吻だった。

 それでも、今はこれで十分だった。

 唇が離れた途端、糸が切れたように穆哨の体から力が抜けた。ぐったりと寄りかかってきた穆哨を慌てて抱き留めた風天巧は、逞しい背中から黒いもやのようなものが煙のように伸びていくのを見た――もやがたどり着く先には長身瘦躯の青年がぬっと立っている。白い衣と振り乱した黒髪、影のある眼差しが目を引くこの青年は呂啼舟に他ならない。

 もやが穆哨の体から離れて呂啼舟の周囲に移るさまを風天巧は何も言わずに見つめていた。自ら実体を捨てた呂啼舟は、たしかにそこにいながらも向こうの景色が透けて見えるくらいには不確かだ。

 ふと、穆哨が呻いてうっすらと目を開けた。風天巧はぎくりとして穆哨の体を突き放そうとし、同時におぼつかない体を支えてやろうとしてどっちつかずになってしまう。穆哨は気まずそうにしている風天巧をちらりと見ると、

「大丈夫だ……全部聞いたが、お前たちがあれでいいなら俺も構わない」

 と言って再び目を閉じた。

 呂啼舟に体の主導権を奪われながらも、穆哨は何が起きているのかを己の五感で感じていた。最後の口付けの感触までをも、彼は我が事のような心地で味わっていたのだ。それまでと唯一違ったのは、口付けをきっかけに呂啼舟の力が緩まり始めたことだった。長らく取り憑いていた黒いもやが体の隅々から消えていき、口付けが終わったときにはそっと背中を押すように解放されたのだ。

 穆哨は目を開けて呂啼舟を振り返ると、一言尋ねた。

「本当にこれで良いんだな?」

 呂啼舟はこくりと頷いて言った。

「ああ。徐風玦はお前に任せることにする」

「言ったな。後になって気が変わるなんてのは無しだぞ」

 呂啼舟はもう一度頷くと風天巧に向き直って手を差し伸べ、何事かと戸惑う風天巧に告げた。

「鳥を。その子を壊したのは私だ」

 風天巧は納得したように頷くと、袂に手を入れて壊れたままの小鳥を取り出した。呂啼舟は無惨な姿の小鳥を見て独り言のように呟いた。

「思えばあのとき、この鳥が仙宮殿の上を飛んでいたからお前がいると分かったようなものだ。あのときはお前が私を忘れてのうのうと生きているとばかり思って、この鳥に当たってしまった」

 呂啼舟は呟きながらも透き通る手を風天巧の手に重ね合わせた。黒いもやが二人の手を包むさまを風天巧は訝しげに見ていたが、しばらくすると中からくぐもった小鳥の鳴き声がした。

 もやが引っ込み、呂啼舟が手を退けると、風天巧の手から萌黄色の小鳥が元気よく飛び立った。空をくるりと一周し、風天巧の肩に止まった小鳥は小首をかしげてきょろきょろと周囲を見回している。風天巧は指の背で小鳥をそっと撫でながら、目を丸くして呟いた。

「驚いた。どれだけ精巧に作っても、ここまで生きているようには動かなかったのに」

「私の魂を少しだけ分け与えた。作り物には変わりないが、生きているように動くことはできる」

 呂啼舟が静かに答える。風天巧は袂を探って鳥籠を出すと、小鳥を中のとまり木に乗せてやった。

「……本当に、この子は私たちの証なのだな」

 風天巧は独り言のように呟くと、呂啼舟の顔を見上げて「ありがとう」と言った。

「だが、最後にひとつだけ我慢してもらわないといけないことがある。お前の体を取り巻いている邪気を取り払いたいのだ。だがそのためにはあの時のように、お前を五行神剣の陣に入れなければならない」

 風天巧の言葉に呂啼舟は無言で頷く。その顔に異論がないのを見て取ると、風天巧はさらに言葉を続けた。

「このままではいつまた暴走するかも分からぬし、そうなるのはお前としても望ましくはなかろう。今のような力はなくなるが、一度修行を完成させたお前なら心意気次第で尸解仙となることも夢ではないはずだ。今しばらく、耐えてくれるか」

「良かろう」

 呂啼舟は素直に頷いた。風天巧は頷き返すと、一連の出来事を傍観していた七人——音清弦、任木蘭、杜辰、莫千朋、それに魏凰と柳洛水と楊夏珪の方をくるりと振り返った。

 任木蘭と杜辰は至って真面目な面持ちだが、音清弦は嫌悪感をあらわにして風天巧を睨みつけ、莫千朋はにやにやと含み笑いを浮かべて杜辰の肩に寄りかかっている。

「俺たちの出番か?」

 莫千朋がふざけた口調で聞く傍らで、音清弦はフンと鼻を鳴らして踵を返そうとする。風天巧は「待ちたまえ」と言って音清弦を呼び止めた。

「あの時と同じだ、音清弦。剣客ではないが、君は『金』の功体を持っているのだから手伝ってもらわないと困る」

「……今回限りだぞ、徐風玦!」

 音清弦は唸るように言うと、琴を乱暴に地面に立てた。

「感心しないな。いくら私といえど、楽器の修理は専門外なのだぞ?」

 風天巧は悪びれもせずににやりと笑う。穆哨はその様子にふっと頬を緩めた――図々しいとまで言えるあっけらかんとした態度はいつもの彼そのものだ。

「まあ、五行神剣が使われるのも今回が最後なのだがな。啼舟が無事に地界に帰ったら神剣は全て溶かすのだから」

 風天巧が独り言のように言う。しかし言葉とは裏腹に、その顔は晴れ晴れとして満足げだった。

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