二話

 音清弦が琴の弦を引っ張り、指先に込めた真気を冴えた音とともに放出する。呂啼舟は身を翻してそれを避けると音清弦に肉薄し、矢継ぎ早に掌を繰り出した。音清弦は右に左に体をひねり、ときに琴を盾にして応戦する。さらに、呂啼舟が間合いを取って後退した隙に任木蘭と杜辰までもが一斉に襲いかかった。

 一方、解放された風天巧は咳き込みながらもどうにか体を転がして起き上がっていた。喉をさすり、ふらつく体で穆哨の方を振り返る——止めに入るべきか逃げるべきか、逡巡した風天巧の腕を莫千朋が掴んだ。

「徐風玦!」

 大声で名を呼ばれ、風天巧は弾かれたように莫千朋を見た。莫千朋の手には鉄床に置きっぱなしだったはずの蒼天斬が握られている。

「呂啼舟は杜辰と木蘭に任せて、お前は逃げろ!」

「だが、彼は……」

 風天巧はなおも言いよどんで呂啼舟を振り返った。元々が道士の呂啼舟は武功にも長け、三人を相手にしても穆哨の肉体ひとつで善戦している。それでも、一人だけでも互角の実力を持つ相手に三人がかりで対峙されては苦しいらしく、風下に追い込まれているのは一目瞭然だ。

「悪いが、もしここでお前が止めに入ったら道長は余計に逆上すると思うぜ。俺が奴だったら絶対そうなる」

 莫千朋は風天巧と一緒に呂啼舟たちの戦いを見、苦々しげにかぶりを振った。

「俺だって、杜辰には俺だけを見てて欲しいからな。自分が一番だと思っていたら知らない間に目移りされていて、それで自分も大切だなんて言われたら頭に来ちまう。特に道長はお前以外に男も女も知らないし、お前以外の奴を知ろうともしなかった、それぐらいお前に入れ込んでいる。ふらふらされちゃたまったもんじゃないんだよ」

 風天巧は生真面目な顔で語る莫千朋をぽかんと見つめていたが、やがて眉をひそめて反論した。

「……私とて、別に浮気性というわけではないのだが」

「浮気性だよ。お前はひどい浮気性だ。道長だって、作り物の小鳥じゃなくてお前を鳥籠に入れて閉じ込めたいと思ってたに決まってる。これからお前の手綱を握らなきゃならない穆哨が可哀想なぐらい浮気性だぜ」

「待て、今何と?」

 莫千朋がさらりと口にした言葉に風天巧は耳を疑った。莫千朋がしまったというように顔をしかめて舌を出す間にも、二人の視線の先ではいよいよ敗色が濃くなってきた呂啼舟が息も絶え絶えに掌を繰り出し、外している。騒ぎを聞きつけて出てきたのだろう、魏凰、柳洛水、楊夏珪の姿もあったが、自分たちの実力をはるかに上回る仙人たちの戦いっぷりに見入るばかりで手を出せずにいた。

「先ほどから妙な話ぶりだと思っていたが、なぜ君が……私と穆哨が一緒になったと知っている?」

 ことさらに高く弦が鳴り、攻撃を受けた呂啼舟はついに膝をついた。その背後を杜辰が取り、両手を掴んでひねり上げる。任木蘭は柳洛水たちに剣帯を解いて貸すよう言いながら、自らも鞘を腰に留めている帯をほどいていた。その中心では呂啼舟が捕らえられた獣のように唸っている。その様子を眺めながら、莫千朋は観念したようにため息をついた。

「お前が仕事をしている間に穆哨が相談に来たんだ。生まれて初めて想い人ができたが何をどうすればいいのか分からないと言ってな。可哀想に、あいつもお前が初めての相手なんだとよ」

 風天巧は「そうか」と頷いた。莫千朋の言葉で目が覚めたような心地がした――同時に、そのときの穆哨の様子を想像してこんな状況だというのに頬が緩んでしまう。

「一度、啼舟と話さないといけないようだな。彼を地界に返す前に」

「本当はもっと前に話しておくべきだったと思うぜ」

 憑き物が落ちたように呟いた風天巧を莫千朋が横目で睨む。風天巧はははっと笑うと、呂啼舟の方に向き直った。

 呂啼舟は点穴を施され、かき集めた剣帯で全身を縛られて完全に動きを封じられている。怒りに満ちた眼差しで目に映る全てを睨みつけてはいるものの、身動きが取れないせいか凶暴さはいくらか薄れているようだ。

 風天巧は深呼吸をすると呂啼舟の方に向かって歩き出した。皆がはっとする中、風天巧は全員を見回して一言告げる。

「私は大丈夫だ。啼舟と話をしたい」

 その言葉に呂啼舟ははっと首を巡らせ、すがるような、恨めしいような目で風天巧を見つめる。顔かたちは穆哨だというのに、その目つきはありし日の呂啼舟そのものだ。

 しかし風天巧が「啼舟」と呼びかけた途端、呂啼舟は薪をくべられた炎のように目を剥き、唾を飛ばして喚き散らした。

「黙れ! 私に話しかけるな!」

「啼舟、少しの間だけだ。私の話を聞いてくれないか」

 風天巧は地面に膝をつき、呂啼舟の顔を正面から覗きこんだ。呂啼舟は逃げるように首を背け、

「また戯言を並べてごまかすつもりか」

 と冷たく言い放つ。

「いいや。今度こそ私の本心だ」

 風天巧は答えると、あごに手を添えて呂啼舟を正面に向かせた。まさか触れられるとは思っていなかったのか、呂啼舟がびくりと肩を跳ねさせ、困惑したような目で風天巧を見つめる。

「啼舟。私はずっと、私たち二人に起きたことは全て自分のせいだと思っていた。そのことを悔い、自棄を起こして天仙に落とされ、それでもなおお前をあんな目に遭わせた己を責めずにはいられなかったのだ」

 呂啼舟は小刻みに震える瞳を風天巧から逸らせた。もの言いたげに口を開けてはいるものの、そこから出てくるであろう「黙れ」が聞こえることもない。任木蘭たちはそっと顔を見合わせた――今この瞬間の呂啼舟は、先ほどまでのように暴れ回れるほどの怒りを覚えていないのだ。

 それでも呂啼舟は、風に吹かれて消えてしまいそうな声で風天巧に言い返した。

「……お前は、軽薄にもほどがあるのだ。仙境では私、人界では穆哨を適当な言葉で転がして、その上私が中にいると知っていながらこの男と睦み合う。本当かどうか分からない戯言ばかり並べて、真に受けた者が痛い目を見る始末だ」

「そう言われても仕方がないな。真摯になれないのが私の悪い癖だ。そもそも神境に迎えられたときに、あんな置き手紙と作り物の小鳥一羽で別れの挨拶を済ませようとしたのが間違いだったのだ。もっときちんとお前と話をしておくべきだった」

 風天巧はそう言うと、呂啼舟の頬を軽く撫でた。呂啼舟は風天巧を見つめたまま微動だにしない。

「すまなかった。何も言わずに離れてしまって。お前があれに耐えられる性分でないことくらい、少し考えたらすぐに分かったのに」

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