四話

「……で、なぜそれが蛇眼幇について来ることに繋がるんだ」

「不服かね? 私が勝ったのだから、私の好きにしても問題はないだろう」

 風天巧の導きで山を下りる途中、穆哨は何度目とも知れぬ愚痴をこぼした。扇子を帯に差し、片手に例の鳥籠を下げた風天巧は風雅な文人そのもので、作業場での一戦で見せた身のこなしはとても想像できない。穆哨は改めてその身なりを観察した――抜けるように白い肌、墨に翡翠を落としたような瞳。黒くしなやかな長髪は半分だけ結い上げられて銀の冠で留められている。薄緑の着物はふわりと軽く、全体の線の細さと相まってどこか現実離れした印象を受ける。あの身のこなしといい、五行神剣について詳しく知っているらしいことといい、もしかすると本当に地上の者ではないのかもしれない——冗談半分にそんなことを思った穆哨だったが、それを口に出して言うことはできなかった。この男には気を許せない。気を許したが最後、何かに利用されるのではないかという不安がどうしても心の片隅に引っかかっていた。

 作業場での一戦の後、風天巧は穆哨に鳳炎剣を預け、代わりにあることを頼んだ――頼んだというよりも、勝者としての命令といった方がいいかもしれない。風天巧は穆哨に、孔麗鱗の待つ蛇眼幇の本拠地、蠱洞居こどうきょに連れていくことを承認させたのだ。

「鳳炎剣は魏龍影が持つ唯一の神剣だった。天下の支配を目論む彼にとっては何よりも痛い損失だ。しかし、彼と相争っている孔麗鱗にとっては仇敵を潰す絶好の機会。神剣を失った彼がどれだけ持ちこたえるか、是非とも間近で見てみたいものでね」

「変わった理由だな。鍛冶師のお前が、なぜそれに気を配る?」

 穆哨が眉をひそめると、風天巧はかすかな笑みを浮かべて答えた。

「それが私の、そもそもの仕事だからだよ」

「高みの見物をすることがか」

 なんとも趣味の悪い仕事だと、穆哨は吐き捨てるように言った。

「悪く言えばそうだが、そう思ってくれて構わない。良く言おうとすると、少しばかり話が難しくなるのでね」

 風天巧はひょうひょうとして、人を煙に巻くような物言いをする。不信感のやり場を失った穆哨はそうかとだけ呟くと、無言で山道を下りていった。



***



 東鼎会はその名に「東」の字を持つとおり、東部の水郷地帯に本拠地を置く武装集団だ。

 その本拠地こと玉染ぎょくせんの砦は、仇敵が差し向けた盗人に鳳炎剣を奪われたばかりか、彼が鳳炎剣を手に暴れたせいで半ば機能不全に陥っていた。最後の防衛線となるはずが敵の逃亡を許してしまった魏凰は、玉染の最も奥に位置する大殿に呼び出され、跪いたまま父親の到来をじっと待っていた。

 今回の失態は誰の目にも明らかで、そのことは魏凰も重々承知の上だ。玉染の守備の一端を担う自分が侵入者を取り逃がし、おまけに数日が経った今も行方が知れないときている。そのため、重々しい音を立てて扉が開き、魏龍影が姿を現した時、魏凰はどんな罰でも甘んじて受ける覚悟を改めて胸に刻みつけた。

 黒光りする床を踵を鳴らして闊歩し、玉座と見紛う高台の椅子に腰を下ろした魏龍影は、黒地に金の刺繍を施した豪奢な着物に身を包んだ五十がらみの男だ。己を見下ろす視線に、魏凰は元々うつむいていた顔をさらに深く下げた。

「凰児」

 魏龍影が口を開く。低く、重々しく響く声に、魏凰は「父上」と答えた。

「此度の失態、凰児は身に染みて理解しております。申し開きの余地もございませぬ」

 問われる前に全て話す。これがこの男に対する唯一の贖罪の道だと魏凰は知っている。娘の言葉を聞いた魏龍影がふむと息を吐き、椅子から立ち上がるのが気配で分かった。そのまま傍らに歩み寄る足音に、魏凰はそれでも新たに不安が噴き出すのを感じざるを得なかった。

「凰児。神剣を持たぬお前に何ができたのか、申してみよ」

「力及ばずとも、父上の覇業に持てる全てを注ぐのが私の使命です」

 衣擦れの音に続いて、よく知る父の匂いが間近でした。魏龍影が魏凰の隣に跪いたのだ。

「だが、五行神剣を扱える者に対抗し得るのは同じ神剣を持つ者のみ。五行の功体を持っていたとしても、神剣が手元になければ蟻のように踏みつぶされるのが関の山なのだ。分かるな?」

 魏龍影にぽんと肩を叩かれ、魏凰は思わず顔を上げた。その瞬間、肌を打つ鋭い音とともに視界が反転した。床の冷たさが右の頬に押し付けられ、反対の頬には平手の余韻が残っている。魏龍影に頬を打たれたことは明白だった。

「命令だ、凰児。手勢を連れて穆哨の行き先を追い、逐一報告せよ。決して穆哨と争うでないぞ。時が来れば、好きなだけやり合わせてやる」

「……かしこまりました。父上のご慈悲に感謝します」

 心身に受けた衝撃でとっさに動けずにいた魏凰は、どうにか身を起こすと再び跪いて頭を垂れた。果たしてその言葉が届いたのかどうか、魏龍影は言うことだけを言うとさっさと部屋をあとにした。

 重々しい音を立てて扉が閉まると、影の暗がりで何かが動いた。

林氷伶りんひょうれいか」

 魏龍影がゆるりと影に目をやると、そこから溶け出すように黒衣の男が現れた。両目を隠すように頭巾をすっぽりかぶり、黒い外套の中から金の刺繡を覗かせたその男は、低い声で一言だけ告げた。

「お嬢様は、すでに盗人の身元を割り出しておいでです」

毒蛇女どくじゃめのところの穆哨であろう。あれの知っていることは儂も知っておる」

「左様でございましたか」

 林氷伶は静かに答えると、軽く頭を下げて再び闇の中に退いた。

「……あれをよく助けてやれ」

 魏龍影は誰にともなく言うと、踵を返してその場を去った。

 闇から答えはなく、そこにもう人がいないことだけを示していた


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