三話

 鳳炎剣は孔麗鱗に献上する、その言葉に噓偽りはなかった。もとよりそうするほか穆哨には選択肢がない。穆哨は横になったままため息をつき、東鼎会から逃げたときのことを反芻した。

 今、魏龍影の追手は一体どこまで及んでいるのだろうか。魏凰の言葉のとおりなら彼の失敗の波紋がいち早く孔麗鱗に及んでいることも十分に考えられる。蛇眼幇との争いの火蓋がすでに切って落とされているのか、それとも東鼎会は盗人の捕縛を優先してこのあたりをうろついているのか、穆哨は見当もつかずにいた。傷がある程度癒えたら一刻も早く幇に帰らなければならなかったが、肝心の鳳炎剣が手元になくてはどうしようもない。


 風天巧はつかみどころのない男だった。鍛冶師と言うが、職人らしい頑固な気質はあまり感じられない。様子を見に来たと思えばあれやこれやと探りを入れてくるし、そして何より、五行神剣について確かな知識があるようだ。これは現在の江湖では驚くべきことだった――ひと昔前なら話は違ったかもしれないが、今は五行神剣は名前は聞いたことがあっても見たことはないという者がほとんどだ。穆哨自身、この任務を命じられるまでは東鼎会の奥深くで厳重に守られている一振りがあるということしか知らなかったのだ。

 大分回復してきたある日、穆哨はそのことを風天巧に話したが、彼は相変わらずの訳知り顔で「そうだろうと思っていたよ」と頷くばかりだった。

「ときに穆哨、私の記憶が正しければ、孔麗鱗も五行神剣の一振りを持っていたはずだが」

「そうだ。俺も見たことはないが」

「なに、見ればすぐに分かるさ」

 風天巧はそう言うと、きちんとたたまれた黒い衣を卓に置いた。そのまま踵を返した風天巧に、穆哨は一言問いかけた。

「なぜそこまで幇の備えを気にする?」

 風天巧はちらりと振り返ったが、何も答えずに去っていった。

 やはり一刻も早く、鳳炎剣を持って蛇眼幇に戻らなければならない。

 そう結論を出した穆哨は、部屋の隅にひっそりと立て掛けられた己の剣――元々の相棒である名もなき長剣に目を向けた。



 元通りに繕って返された服を着、飾り気のない長剣を背中に渡した穆哨は、ひっそりと静かな台所を抜けて外に出た。今まで寝かされていた寝室が実は離れであったことは部屋を出てすぐに明らかになった。

 鳳炎剣はずっと風天巧が持っている。だが、いくらこの世に二つとない宝剣といっても、全く使い物にならない剣をいつまでも携帯するものだろうか。風天巧が職人であることを考えても、きっと仕事場かどこかに保管場所があるはずだと穆哨は踏んでいた。

 幸いなことに、風天巧の仕事場はすぐに見つかった――足を忍ばせて母屋の裏に回ると、だだっ広い空き地を埋めるように薪を切るための斧と切り株、槌の乗った鉄床、石造りの炉が置かれていた。そう遠くない場所には小屋がぽつんと建っており、全くの素人でもここが鍛冶仕事のための空間であることは一目で分かる。

 ここにも人の気配はなく、小屋の中もまったくの無人だった。扉には鍵もかかっておらず、手をかければ簡単に開く。直感じみた不安が穆哨の胸をよぎったが、穆哨はすぐさまそれを打ち消した。主がいないならしめたもの、今のうちに目当ての物を頂いて消えるに限る。穆哨はためらうことなく小屋に体を滑り込ませたが、中央の作業台に置かれた鳥籠を見つけるやいなやぎょっと目を見開いた。

 台の上に例の萌黄色の小鳥が入った鳥籠が置いてある。小鳥はあの夜と全く同じ角度で首をかしげて穆哨をじっと見つめている。

 そして、思わず動きを止めた穆哨の背後で風天巧の声がした。

「全く、命を助けて怪我を手当して、療養までさせてやったというのに」

 弾かれたように振り返った穆哨の目に映ったのは、戸枠の中で扇子を弄ぶ風天巧の姿だった。口調こそ今までと同じ、ひょうひょうと流れるような調子だが、その目はいつにも増して鋭く、冷たい。明らかにまずい状況だというのに、穆哨は風天巧の双眸が翡翠を混ぜたような独特の黒をしていることに気が付いた。

「そのお返しがごろつきの真似事とは、とんだ無礼だとは思わないか?」

「俺はもとからろくな奴じゃない。責めるなら、そうと知りつつごろつきを匿った自分を責めることだな」

 穆哨は言い返しながら背中の剣に手を伸ばした。対する風天巧は扇子を胸元で静かに揺らすばかりだ。

「そんなことより教えろ。鳳炎剣をどこへやった」

「君はそれを知ってどうするつもりなのかね?」

「無論、蛇眼幇に持って帰る。俺の任務だ」

「なるほど。意志は固い、か」

 風天巧は歌うように言うと、空いている手を背中に回した。そのゆったりとした動作に穆哨はかえって警戒を強める。

 読みは外れた。鳳炎剣は風天巧が、ずっとその身に持っていたのだ。

 ならば力づくで奪うまでと、穆哨は風天巧の手がかすかに動くと同時に剣を抜き放った。

「はあッ!」

 気合いとともに刺突を送れば、風天巧は地面を滑るように後退して広場に出る。穆哨もあとを追って小屋を飛び出し、距離が詰まると同時に剣を横に払った。切っ先が空を捕らえると同時に穆哨は次の手を繰り出し、攻撃を続けたが、悠々とかわされるばかりで一向に手ごたえがない。

 すると、風天巧が不意に反撃に転じた。風天巧はおもむろに扇子を閉じ、穆哨の鳩尾に要の部分を叩き込んだ。穆哨は反応しきれず、息が詰まるような衝撃とともに後方に突き飛ばされた。口の中に鉄錆の味がじわりと滲む。穆哨が態勢を整え、再び斬りかかると、風天巧は背中に回していた手を出して攻撃を受けた――ガン、と鈍い音があたりにこだまする。

 風天巧がその手に持っていたのは、赤い鞘に納められたままの鳳炎剣だった。

「……やはりか!」

 穆哨は気焔を上げると、再三風天巧に襲いかかった。一方の風天巧は鞘に入ったままの鳳炎剣を操って穆哨の攻撃を全て流していく。江湖人同士の戦いでは内功の修行のほどがものを言うが、得物を通して内功を攻撃に転化できない風天巧は圧倒的に不利と言えた。にもかかわらず、穆哨は風天巧に翻弄されるばかりで、彼の剣は風になびく薄緑の衣の端、黒髪の先すら捕らえられない。

「どれ、一つ勝負をしないか? 私が勝てば君と鳳炎剣は私のもの、君が勝てば私は君を鳳炎剣とともに見逃して、孔麗鱗のもとに帰らせるというのは?」

 劣勢の穆哨に追い打ちをかけるように風天巧は言った。まるで子どもを相手に遊んでいるかのような態度だ――しかし、穆哨は次第に、そして着実に手詰まりになってきている。今だに数えるほどしか反撃していない風天巧だが、ここまで避け続けられているということは己の動きは全て読まれているのだろう。同じ技を使えばそれはすなわち自ら相手に隙を与えることになり、穆哨にはできない相談だった。かと言って、風天巧の防御を崩せるだけの実力がないのも明らかだ。

 こうなっては奥の手だ、そう決めた穆哨は雄叫びとともに次の一手を繰り出した。そして切っ先が鳳炎剣に触れる瞬間、剣を持つ手を引いて反対の手をぐわりと突き出した。これには風天巧も面食らったらしく、翡翠のような瞳がわずかに揺れる。

 穆哨はその隙に鞘を鷲掴み、剣を持つ右手を逆手に構えて風天巧の胸に柄を叩きこんだ。もろに攻撃を受けた風天巧が目を丸くし、鳳炎剣から手を離す。

 その瞬間、穆哨の全身を、あのときと同じ熱が駆け巡った。鞘から赤銅色の剣を抜き放ち、風天巧の反撃を跳ね返す。しめたとばかりに穆哨は風天巧に猛然と襲いかかった。

 しかし、切っ先が体を貫こうとしたその時、風天巧は扇子を閉じて帯に差し、その手に作った剣訣で鳳炎剣を受け止めた。そればかりか、剣がまとっていた熱気を吸い込んで体外に排出してしまったのだ――背後の木々に火がつき、熱に悲鳴を上げて倒れていく。

 その音を聞きながら、穆哨は、己の心窩に突き付けられた風天巧の細指をなすすべもなく見つめていた。



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