第八章 追憶の果てに

一話

 呂啼舟は穆哨の体を使って暗い廊下を歩いていた。穆哨の真気から直接力を得るというのは危険な賭けではあったが、今のところ穆哨の意識は封じ込められているし、肉体にも異変は生じていない。呂啼舟は目の前にある扉を開け、使われていないことを確かめてそっと閉めた。ここは自分の知る徐風玦の住まいとは全く違う。彼が死境で再起を図っている間に、元の家は他の天仙に明け渡されてしまったのだろう――同じような間取りで同じような広さで、同じような家具が置かれていても、懐かしいという感慨は全く湧いてこなかった。


 当初、人界での任務はたった数年で終わるはずだった——それは人間にとっての数年であり、天仙にとってはまばたきをする一瞬にも等しい短い時間だ。しかし、陳青が仙境に戻るよう言ってきたとき、呂啼舟は自ら人界に留まることを選んだ。当時、人界は大規模な戦乱の真っ只中で、長引く戦火にさらされて誰も彼もが傷つき、苦しみ、悲しんでいた。呂啼舟は人界を放浪して人々を助け、往時には人だったものを助け、苦しみを与えるものには罰を与え、結局十年以上を人界で過ごした。そしてようやく仙境に戻ったとき、徐風玦はそこにはいなかった。

 修行がさらなる境地に達したため、神の一柱として晴れて神境に迎えられたのだと陳青からは聞かされた。呂啼舟は胸の内が空洞になったような心地がした——陳青に何を返し、どのように彼の前から辞してどの道を歩いたのか、今でもよく分からない。ただ気が付くと徐風玦の家の前に立っていた。

 門は軽く押しただけでひとりでに開いた。草が伸び放題になっている庭を抜け、正面の扉から一歩中に入ると、家具という家具には布が被せられ、薄暗い中を埃が舞っている。

 寝室の戸を開けると、窓の前に布をかけられた鳥籠が吊るされていた。呂啼舟が布を取り払うと、首をちょこんとかしげた萌黄色の小鳥が愛くるしい眼差しをじっと彼に注いでいた。

 そしてその脚には、一通の文が結ばれていた。

『私から君へ、愛しき日々への感謝を込めて どうだい 私にそっくりだろう』



 天玦神巧、人の手による全ての技と職人たちの守護神。

 だが彼は、最も近しく愛おしい者を守ることができなかった。そればかりか、己の持てる技の全てをつぎ込んだ五振りの剣と一つの弓によって彼を破滅へと追いやったのだ。

 だから後悔させるのだと呂啼舟は誓った。天仙たちを先導して最もむごい方法で彼を誅し、自分はそれを高いところから見物していたことを。力と生命の源を砕かれるあの苦しみと恐怖を、徐風玦にも味わわせてやるつもりだった。

 陰間の静寂と生命を司る女神、死神の力をもってしても、粉々に砕かれた仙骨をもとに戻すのは至難の業だった。今の呂啼舟にあるのは仙骨とも金丹とも言い難い、何か別の禍々しいものだ。功力も地界の陰の気で補われたものに過ぎない――そのため仙宮殿の「底」の封印はすり抜けることができても、少しでも「底」から離れると存在そのものが消滅してしまう。

 だが、あのとき仙骨とともに崩れたはずの魂の器が、とある女子の胎で再び形を成していたことに関しては呂啼舟は運が良かった。その体はかつての魂の記憶を宿しており、少々難はあったが呂啼舟を受け入れた。

 蘇った器に未だ眠らぬ魂があれば、呂啼舟は在りし日の力を存分に発揮することができる。そしてそのための技は、数多の道術の中でも彼が最も得意とする分野のものだった。



***



 枕元に人の気配を感じ、風天巧はそっと目を開けた。暗がりにぬっと立っている人影に一瞬体が跳ねるが、よくよく目を凝らすと、それは彼のよく知る人物だった。

「……穆哨?」

 そこに立っていたのは穆哨だった。しかしその目は焦点が合っておらず、風天巧を見ているのか定かではない。風天巧は上半身を起こすと、厚みのある肩を軽く叩いてもう一度声をかけた。

「穆哨? 聞こえているのかね、穆——」

 しかし、最後まで言い終わらないうちに風天巧はあらぬ力で布団に押し倒された。驚きの声を上げた風天巧だったが、焦点の戻った穆哨がそれを聞いている気配はない。

「何をする⁉︎」

「久しいな。徐風玦」

 もがく風天巧に答えたのは、穆哨のものではない、しかし耳に馴染みきった別の男の声だった。

「……啼舟?」

 風天巧は抵抗をやめて穆哨の顔を見上げた。自分を見下ろす感情の起伏に乏しい双眸と視線がかち合い、二人はしばらくの間じっと見つめあう。

 この目は、たしかに呂啼舟のものだ。懐かしさと罪悪感がない混ぜになり、風天巧は掴まれたままの手を穆哨の——呂啼舟の頬に伸ばしていた。呂啼舟は力を緩め、風天巧に頬を触らせる。

「だがなぜ……なぜ穆哨の体に……」

 困惑した顔で全身を触る風天巧を呂啼舟は特に止めようとはしない。

「私の魄の生まれ変わりだ。これ以外に自力で入れる器がなかった」

 そう言うと、呂啼舟は間髪入れずに風天巧の唇に己の唇を重ね合わせた。風天巧がくぐもった声を上げ、逃れようと身をよじる。呂啼舟は穆哨の体格を使って風天巧の動きを封じると、風天巧の意識を手繰り寄せにかかった。




 二人がようやく顔を離したとき、二人を囲む風景は一変していた。

 夜、提灯の灯りをほのかに反射して輝く天湖に面した回廊で、風天巧は頬を紅潮させ、目の前の白い道服の青年——出会ってろくに言葉も交わさぬうちに突然唇を奪ってきた呂啼舟をぽかんと見つめていた。

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