エピローグ

 拝啓、竹田くんへ

 竹田くんがこの手紙を読んでいる頃、あたしはもうこの町にはいません。突然だけど、転校することになりました。今頃あたしはお父さんに連れられて、飛行機の中です。海を越えて、遠い遠い場所へ送還されています。お医者さん――星哉くんのお父さんです。——が言うには、あたしはそこで治療に専念する方が良いそうです。先生の言うことなので間違いありません。お父さんも賛成してます。

 竹田くんと別れてからまだ二週間のはずなのに、あたしには遠い昔のできごとのように感じます。今こうして書いている間にもあたしの記憶はどんどん薄れ、思い出は次々と消えています。

 日食のこと、いじめのこと、世界が滅びること。今となっては全部どうでもいいです。星哉くんが迎えに来てくれたのは覚えているけど、それ以外はどうしても思い出せないの。日食に誘ったのはあたしなのに、どうでもいいとか言ってごめんなさい。でも、事実なの。

 お詫びといってはなんだけど、iPodとお薬は竹田くんにあげます。あたしの形見です。あたしにはもう必要ないから、捨てるなり取っておくなり好きにしてください。

 あとは......なんだろう?

 自分が何を書きたかったのか、それさえも忘れてしまいました。伝えたかったこと、伝えてほしかったこと、いっぱいあったはずなのに思い出せません。ごめんね、もうそろそろ時間なのでこれくらいにしておきます。

 さよなら、竹田くん。

 もうあたしのことは、忘れてください。

 


 手紙は杜夫の下駄箱の中に入っていた。天宮響が転校した次の日のことである。精神安定剤も一緒に納められていた。彼女が服用していたらしい錠剤だった。手紙はともかく後者は、所持しているだけで教師に咎められる恐れがあった。杜夫は登校したばかりであったが、すぐさま家に戻り、五キロメートル先の海岸まで自転車を走らせた。無断欠席は入学以来初めてだった。

 海岸は季節ごとに大勢の人々で賑わう。夏は花火、冬は初日の出。事あるごとに人々は海を訪れ、ささやかな時間を過ごす。そして、静岡県民らしく富士山を眺め、批評を始める。「今日の富士はあんまりきれいじゃないね」「全然だめだ。雲に隠れちゃってる」等、そのほとんどが批評と呼ぶにはあまりに稚拙な悪口であったが、口々に話す彼らの表情はどこか楽しげであった。

 杜夫は堤防沿いに自転車を停めた。そして裸足で砂浜を走り、波打ち際に立った。打ち寄せる波が足の甲まで届き、皮膚に付着した砂を洗い流す。辺りに響く波の音が、心地よく感じられる。

 水平線の向こうに富士山が見える。この日は雲一つない天気だったので、彼は正々堂々、富士と対峙することができた。相変わらず富士は超然とした態度でこの中学生を見下ろしていた。

 杜夫はふと思い立ったかのように、あの日貰ったiPodを取り出すと、響の手紙でくしゃくしゃに包んだ。精神安定剤もついでに入れた。

 手紙で丸めたiPodと精神安定剤を右の掌に乗せ、左手を添える。杜夫はシュート体勢に入った。狙うゴールは富士山山頂。杜夫はその場でジャンプすると、山頂目掛けてシュートを放った。

 天宮響からの贈り物は放物線を描くようにして山頂をかすめ、そのまま海へと落下した。ぽちゃんと水面に接触すると、そのまま海の底へと沈んでいった。手紙は水分を含んで脆くなり、海流の勢いでほろりほろりと千切れていく。贈り物本体はiPodの重みのせいか二度と浮上することはなかったが、千切れた紙の断片は浮力によって、本体から分離した。また精神安定剤も海水に溶かされて、みるみる小さくなる。やがてその身をすべて溶解された精神安定剤は、水泡とともに、ゆっくり海面へ上昇していった。そしてiPodだけが暗い海の底に取り残されたまま、長い年月を過ごす羽目になったのである。

 旗手星哉とはあの一件以降、関わりがなくなった。無論同じバスケ部である以上、事務連絡としての会話はある。が、以前のように一緒に下校するような個人的な関係ではなくなった。杜夫はもう彼の端正な横顔を見ても、心臓が停止したり、顔が紅潮したりすることもない。彼に対する親愛の情は消え、一定の距離を保つようになった。

 杜夫はそっと目を閉じる。練習試合のこと、天宮響と出会った夜のこと、後輩の家の窓を割ったこと、響のいじめをただ眺めていたこと、日食の日に起こったこと。あれほど強烈だった出来事も過ぎてしまえば思い出となり、やがて忘れていく。屈辱も憎悪も羞恥心も無能感も喪失感も、すべて浄化されてしまった。たった二週間前のことなのに、彼の情念は綺麗に洗い流されていた。

 ただ一つ、天宮響が別れの際に見せた、あの一〇〇パーセントの笑顔だけは、杜夫の脳裏に焼き付いて離れなかった。

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時限爆弾と日食 楠木次郎 @Jiro_2020

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