第五章

 S中学との練習試合は、前回同様H中学体育館において午前十時に開始された。

 スターティングメンバーは星哉を始めとしたお馴染みの五人で、杜夫はいつも通りベンチに座っている。天宮響いじめ事件以来、彼は星哉に話しかけられないまま、試合当日を迎えてしまった。試合当日までに二人は教室で、廊下で、体育館で、幾度かすれ違ったが言葉を交わすことはなかった。ゆえに杜夫は、日食観測の約束がまだ有効なのかどうかすら確認できていなかった。

 第四ピリオドニ分、杜夫は児玉監督に呼ばれ、途中出場した。コートには星哉を含むお馴染みのスタメンがいる。杜夫はボールへの恐怖は克服したと高を括っていたが、いざコートに入ると試合球の内部からチッチッと爆破を予告する秒針の音が聞こえてきた。まだボールは時限爆弾のままであるらしかった。

 最初はぼうっと立ち尽くしていた杜夫が、次の瞬間、タンっと床を蹴って、ゴールへ向かって走り出す。マークしていた相手は驚いて、追いかける。すると彼が元々いた場所に誰もいなくなる。そこへ部長の旗手星哉がドリブルで切り込み、完全に落ち着きを払った、しなやかなフォームでシュートを決める。ボールはリングを通過し、静かにゴールネットと擦れた。——

 杜夫は淡々と任務を遂行した。星哉とのコンビネーションは相変わらず良好で、傍から見れば不和が生じているとは思えなかった。杜夫のフリーランニングに相手が釣られ、空いたスペースに星哉がドライブしてシュートを決める。前回と同じ展開である。星哉が立て続けに得点をしたことでH中バスケ部は勢いづいた。

「いいぞ、いいぞ! 星哉! いいぞ、いいぞ! 星哉!」

 例のごとく、ベンチから得点者を称える掛け声が響き渡る。試合に出ているメンバーも「ナイシュー!」と声を掛けた。星哉は守備に戻りつつそれらに笑顔で応える。水銀灯の眩しい光に照らされて、星哉の端正な顔はより一層際立つ。笑窪の陰影は深まり、愛らしさを増幅させていた。相変わらず星哉は美しかった。しかし、それは何光年も遠く離れた天体に感じる美だった。

 対戦相手であるS中学バスケ部は、鮮やかにゴールを決められたものの、すぐさま反攻した。彼らはチーム全員にパスが行き渡るよう丁寧に、悠々と攻撃した。制限時間いっぱいまでボールを保持すると、中央で一人フリーになった選手がスリーポイントシュートを決める。得点した選手はフォロースルーを終える際、杜夫に訝しげな視線を送った。試合時間は残り四分であった。

 再びH中学が攻める。副部長がドリブルしている間、杜夫はマークマンと連れ立って、ぼんやりと漂っていた。これまでやってきたように、杜夫は星哉にパスが渡るまで、影を潜めている手筈だった。副部長が星哉にパスをする。その時だった。

「七番は”無い”から放っとけ!」

 さきほどスリーポイントを決めた選手のぞんざいな指示の声が体育館に響く。相手チームは守備をオールコートマンツーに変更したが、囮役の背番号七に対する警戒だけは解き、星哉を始めとした他の四人を厳しくマークした。杜夫がボールを持たない限り、H中学は常に四対五の劣勢となる。S中学は、一人空いた分ボール保持者に二人掛かりで守備をすることができる。

 杜夫に正念場が訪れていた。対戦相手はS中学、第四ピリオドに途中出場、点差は二十点以上、露骨にマークを離される。シチュエーションは前回と全く同じであり、まるでバスケの神様が杜夫に対して追試を課しているかのようだった。

 児玉監督は、いつものようにパイプ椅子に座っている。長い足を組んで、垂れかかった眉をひそめて、注意深く観察するポーズを取っていたが、顎髭を撫でる回数は増加していた。

 ところが、この日の杜夫は違った。

「旗手!」

 杜夫は声を張り上げてボールを要求した。あの竹田先輩がパスを要求したことに、ベンチはざわついた。児玉監督は眉をぴくっと動かし、眼を鋭く細める。星哉も一瞬驚いたが、守備の手が迫っていることもあり、パスを選択した。

 ぼうっと立ち尽くしていた杜夫が、次の瞬間、タンっと床を蹴って、ゴールへ向かって走りだす。マークしていた相手は驚かず、追いかけもしなかった。ボールはS中学の二選手間を通過した。走り込んだ杜夫の周囲には誰もいなかった。彼は時限爆弾をぎこちなく受け取ると、そのままシュートした。

 ガンッと衝撃音が鳴り響くと、杜夫は一瞬ボールが爆発したのだと錯覚した。彼の耳には世界が崩壊するかのような轟音に聞こえたのである。しかし、実際はゴールリングに弾かれただけで、何事もなく相手チームのカウンターが始まっている。優位に立ったS中は、そのまま速攻でパスを繋いでカウンターを成功させた。

 失点の原因は間違いなく杜夫のシュートミスだった。ベンチから漏れる溜息、笑い声がコートに立つ選手まで聞こえてくる。

 しかし、彼はもう落ち込まなかった。俯くことなく、次の攻撃に向けて走り出していた。

 失点したH中が攻撃を仕切り直す。副部長がリスタートして星哉にパスをする。星哉はゆっくりとドリブルをして、ハーフラインを越えた。するとS中学の選手は待っていたとばかりに杜夫のマークを外し、彼以外の四人へプレッシャーを強めた。パスコースは杜夫しかなかった。

「旗手!」

 叫び声の主は背番号七、竹田杜夫だった。

 杜夫が試合中に叫ぶなど初めてだった。ましてやパスを要求するなど前代未聞のことである。慣れない真似をしたためか、若干震え声だった。声の震えにはボールに対する恐怖、周囲の視線を受けてプレーすることへの緊張がまだ残っており、決して時限爆弾が解除されたわけではなさそうだった。それでもそこには覚悟が宿っており、試合を変える可能性を味方に感じさせた。

 ぼうっと立ち尽くしていた杜夫が、次の瞬間、タンっと床を蹴って、ゴールへ向かって走りだす。マークしていた相手は驚かず、追いかけもしなかった。星哉のパスはS中学の二選手間を通過した。走り込んだ杜夫の周囲には誰もいなかった。彼は時限爆弾をぎこちなく受け取ると、そのままシュートした。

 ガンッと衝撃音が鳴り響くと、杜夫は一瞬ボールが爆発したのだと錯覚した。彼の耳には世界が崩壊するかのような轟音に聞こえたが、実際はゴールリングに弾かれただけで、何事もなく相手チームのカウンターが始まっている。一時的に五対四で数的優位に立ったS中は、そのまま速攻でパスを繋いでカウンターを成功させた。

 またもシュートは外れた。杜夫のシュート精度の低さが速攻の餌食になっていた。彼が頑張れば頑張るほど、積極的になればなるほどチームは失点し、形勢は不利になった。

「なんか今日の杜夫さん、キャラ違くね?」

「積極的だよね。全然入らんけど」

「ちゃんと狙ってんの」

「まじで何回外すんだろ、あの人」

 ベンチでは後輩たちが辛辣な評価を下し、盛り上がっていた。あの日の帰り道、星哉と近藤にされたものと同じ類いの嘲笑だった。

 杜夫が恥も外聞も捨てて、シュートを放ちまくっているのは、馬鹿にされたことで誕生した名前のない感情――残酷な衝動が身体の奥底で燻り出したからであった。杜夫の積極的なプレーは、この負の感情に突き動かされたものであった。もっとも衝動に駆られたプレーが質を伴っているわけもなく、杜夫は三回パスを受け三回シュートを打ったが、いずれも得点することはできなかった。

 溜息と笑い声が館内を渦巻く。気持ちが空回りして結果が出ない。状況は最悪に近かった。しかし、杜夫はそんな中でも、少しずつシュートに対する感覚を掴み始めていた。パスを貰う前に相手と味方の位置を確認しておくこと、相手がどのように動いてくるか予測すること、予測を元に自分が何をすべきかあらかじめ決めておくこと。杜夫は失敗しながら、学習した。

 とはいえ、スポーツの世界では結果がすべてである。己の存在価値を証明して初めてチームの一員として認められる。そのためには決定的な、インパクトのある結果が必要だった。無論そのためにはリスクを冒さなければならなかった。度重なる杜夫のシュートミスにより戦況は悪化の一途を辿っており、これ以上の失敗は許されなかった。

 第四ピリオド六分、星哉は右へ膨らむようにドリブルをして、ボールを運んだ。S中学の守備は硬く、頼りになる部長の技量をもってしても困難な状況であった。選択肢は一つしかなかった。無論、それは意図的に誘導されたもので、可能であれば避けるべきであったが、厚みを増した守備を前になす術がなかった。星哉はスピードを緩めると、サイドに身体を向けた。

 ぼうっと立ち尽くしていた杜夫が、次の瞬間、タンっと床を蹴って、走りだす。しかし、杜夫が走り出したのは、これまでとは異なりゴールへ遠ざかる方向だった。マークしていた相手は虚を突かれ、反応できなかった。

「旗手!」

 杜夫は叫んだ。叫ぶのは二回目である。声は枯れて、喉に痛みが走った。

 星哉は杜夫へパスを出した。ボールが走り込んだ杜夫の元へ届くと、足の爪先がちょうどスリーポイントラインに並んだ。試合中にスリーポイントシュートをするのは初めてのことだった。

 まだ杜夫の耳には微かに爆破を予告する時計の針の動く音が聞こえた。右手に乗せたボールを額の高さまで持ち上げ、左手を添えてシュートモーションに入る。敵のプレッシャーに負けることなく、全身の筋肉を使って、堂々と跳ぶことができた。彼はシュートを放った。衝動的に行ったプレーではあったが、シュート自体は投げやりでも祈りでもなく、冷静に狙いを澄ましたものだった。

 シュートの瞬間、杜夫は流れる時間が急激に緩慢になり、ほとんど停止しているかのような感覚に陥った。シュートを終えた杜夫は自分の落下速度が恐ろしく遅いことに気が付いた。一秒が十秒、一分、一時間に引き延ばされているかのようだった。これは前回の試合でも起きた時間感覚だった。スナップを効かせた指の先に、ゴールリングが見える。内径約四十五センチメートルのリングは、高さ三〇五センチメートルから水銀灯の光を冷たく反射し、ゴールネットは微風に煽られてわずかに揺れている。杜夫が緩慢な時間感覚に陥っている間にも、ボールは放物線を描きながらゆっくりゴールに近づいていた。

「爆発するなら今かもしれない」と杜夫は思った。

 ボールは眩しい光に照らされ表面に不気味な陰影を映し出した。今回の採用された試合球も表面が凸凹している劣化品だった。映し出される模様は、誰も引いたことのないような幾何や未知の生物を想起させた。緩慢な時間の中で、杜夫は球面に描かれた神秘的な模様を丹念に観察した。やはり宙に浮かぶ球体に対して美しいという感想以外思い浮かばなかった。

 いよいよボールがリングに差し掛かるその時、緩慢だった時間の流れは遂に停止した。ボールはシュートが決まったどうか判定が付かない状態で止まった。体育館の窓から入り込んでいた風が止み、ゴールネットも静止した。風が収まったことで、ネットは下部にいくつれて引き締まる曲線美を取り戻していく。

「あ、富士」杜夫は思わず口に出していた。

 停止した時間の中できちんと発音できていたかはさておき、ゴールネットの形が倒立した富士山に見えたことは確かであった。体育館に現れた小さな富士山が高さ三〇五センチメートルから見下ろしている。そして、ボールはまさに富士の麓から入山しようとしている。

 竹田杜夫は停止した時の中で、こんなことを決意した。

「馬鹿馬鹿しい。何が時限爆弾だ。周囲からの視線に怯えて、僕は自分に呪いをかけた。今からその呪いを解く。未来に怯えるのをやめて、僕は現実と闘う」

 決意表明が終わると、停止していた時間が再び流れ始めた。空中に浮遊していたボールはゴールリングをゆっくり通過すると、音を立てることなく静かにネットと擦れた。ボールの表面はすでに神秘的な模様ではなく、凸凹した劣化の激しいゴム皮に戻っていた。

「いいぞ、いいぞ! 杜夫! いいぞ、いいぞ! 杜夫!」

 ベンチから得点者を称える掛け声が聞こえる。

「ナイシュー!」

 隣を走っていた副部長が杜夫を称える。児玉監督もうんうんと頷いていた。思わぬ伏兵の活躍に、会場は歓喜と混乱の中間のような、一風変わった盛り上がりを見せた。スコアボードに三点が追加された。たかが三点、されど三点。杜夫は人生で初めてスリーポイントシュートを成功させたのである。

 もっとも旗手星哉だけは無表情のままだった。彼はディフェンスの指示を味方に出して、相手の速攻を警戒していた。すでにS中学のカウンターが始まっている。杜夫は喜びに浸る間もなく、守備に戻った。

 結局、試合は六十三対三十二でH中学バスケ部の敗北に終わった。

 杜夫はその後特に見せ場を作ることはなかったが、試合終了のブザーが鳴るまで試合に出場することができた。両チームの選手はセンターラインに一列に並んで礼をした。互いの監督の元へ挨拶に行き、一通り激励の言葉を貰うと、撤収の作業に入った。ベンチに置いてあったタオルや水筒などの荷物が、次々と運び出される。ボールが転がる音、モップと床が擦れる音、部員の話し声が入り混じる。館内の雰囲気は緊張から解放され、試合の疲れからか倦怠感が充満している。

「杜夫」

 片づけに参戦しようとした杜夫を児玉監督が呼び止める。監督は腕を組んで、眉を潜めて喋り始めた。

「今日の試合について、自分でどう思う?」

「はい、前回より良かったと思います」

「そうだな。確かにボールを怖がらなくなったのは成長だ。バスケというのはボールを持ってプレーするスポーツだ。どんなに走れようが賢かろうが、ボールを持ってプレーできなきゃ駄目なんだ」

「ありがとうございます」

「しかしだな」児玉監督が語気を強める。「いくらなんでも外しすぎだ。さすがにもっと決めろ」

 「監督」杜夫はゆっくりと顔を上げる。「失敗は成功のもとですよ。今日そのことを学びました。それに何回失敗したって僕は平気です。なぜって、ボールは友達ですからね」

 監督は唖然とした表情をした。杜夫の返答が予想に反していたからである。監督は深いため息をついたあと、「もういい、片付けしろ」と言って去っていった。

 監督との個人面談が終了する頃には、撤収作業はほとんど完了していた。杜夫は星哉の姿を探したが、コートや廊下、更衣室のどこにもいなかった。この日も星哉は他のメンバーと帰宅したようだった。杜夫は暗くなった部屋で着替えると、エナメルバッグを肩に掛け、一人帰路に着いた。

 帰り道、杜夫は空を見上げた。この日の富士は雲に隠れてしまっていたが、悠然と見下ろしているに違いなかった。彼は試合中に見た倒立した富士を思い浮かべた。相変わらず失敗やそれに対する反省、憂鬱が一斉になだれ込んではきたものの、もうそんなことで杜夫の魂が痛むことはなかったし、後悔と羞恥が生まれることもなかった。

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