終わりなき旅路(一)

 新八が品川楼へ戻ってみると、中村、蟻通、梅戸、前野らが玄関先までやってきて、すがりつくようにして出迎えてくれた。

 新撰組の者だけでなく、品川楼の用心棒たちまでいる。


「ガムシンさん、大丈夫ですかッ」


 いずれも襷がけ姿になっている。

 島田の言うとおり、これから上意討ちや斬りあいがはじまるような様相だった。

 廊下の向こう側から花魁たちが、身をよせあって心配そうにこちらをうかがっている。


「ハハ、心配をかけてすまなかった。何のことはない、ただの辻斬りだ。江戸も油断がならぬようだ。お前たちも気をつけよ」


 中村が刀を引き寄せて勢いよく言う。


「いったいどこの奴らですか。探しだして斬り捨ててやりましょうッ」

「おいおい、やめてくれ。すでに俺が斬ったから全部始末がついた。それよりも明朝は大名小路のお屋敷へ帰ることになるから、今宵は存分に楽しむがよい。そら、座敷へ戻って飲みなおしてくれ」

「いえ、そんなわけには」

「まことにもう大丈夫だ。俺の不注意で心配をかけて悪かった」

「は、はぁ……」


 盛り上げた血気の始末に隊士たちが困っていたところ、間を縫って佳紫久がスルスルと出てきた。

 無駄のない所作で膝と着物を折りたたみ、指をそろえて慇懃に頭を下げる。


「おかえりなさいませ。ご無事にてなによりでございます。さ、お刀を――」


 着物の袖を手にからめ、両腕をさしだしてきた。

 侍の条件反射がはたらいてしまい、新八も大刀を渡した。


「お、おう。すまぬ」


 佳紫久はまっすぐにたちあがり、廊下を二歩三歩とわたって行く。

 ふたたび振り向いて「まいりましょう」と無言でうながしたので、新八は「おう……」と応じてついて行くことにした。

 それは武家の女子が日常的にやる光景そのものだったので、場にいた誰もが呆気にとられてしまい、ただ二人の背を見送った。

 階段をのぼり、長廊下をすぎて折れたさきに佳紫久の部屋はある。

 今日は奉公人や禿も周りにいない。


「今宵はわがままを言って人払いをしてもらいました」

「そうか」

「仮宅ゆえ大したものがなくお恥ずかしいかぎりですが、どうぞ、なかでお寛ぎください」

「では、失礼いたす」


 とは言いながらも、入ってみればそれなりに豪華な調度品や着物がならぶ部屋ではあった。

 そこは花魁の持ち部屋、というより武家の姫様が過ごす部屋のようにも見える。

 適度に華美さをおさえているので、どことなしか気品があった。

 新八の反応を察した佳紫久が微笑んで言う。


「私をご贔屓にしてくださる皆様は、お武家が多いのです。ですからけばけばしいものより、こうしたあつらえのほうがよろしいかと思いまして」

「なるほどな」

「刀をお手入れするための道具もございますの。私がやってもよろしいでしょうか」

「なんと、佳紫久は刀の手入れができるのか」

「はい、おまかせください」

「そうか。では、悪いが頼むとしよう」


 佳紫久は嬉しそうに頷くと、得意げに道具箱を取り出してきて広げた。

 その姿はまるで、いろはかるたや手毬を引っ張りだしてきた少女のように、無邪気に嬉々としたものだった。

 あとは行灯のまえで新八の刀をゆっくりと抜いて、ほのかな光を刀身のうえで滑らせながら首を上下に何往復かさせた。


「まァ、こちらは……なんとも」

「どうした」

「刀とはここまで痩せるものなのかと驚きました次第にて」

「ハハ、まァな。それは京市中で一番よく使っていたものだ。無銘であるが、頑丈で折れぬ」


 佳紫久は感心したように二度三度と頷いてから、脇を絞って両手で刀を構えて見せた。

 なるほど、刀の扱いに慣れた堂に入った佇まいである。


「――それに持ったときの釣りあいが、とてもよく良く存じます」

「ほう、そんなことまでわかるのか」

「はい、女子でも良いものは良いとわかるのですよ」


 そしてここ数日で一番の愛くるしい笑みを浮かべたのち、慣れた手つきで打ち粉をかけはじめた。


「ずいぶんと慣れたものだな」

「それはもう、かつては毎日やっておりましたから」

「そう、なのか……」


 やはりこの女子は、武家の出で間違いない。何と声をかければ失礼にあたらないのか、新八が言葉を逡巡しているうち、佳紫久は手入れを手早く終えていた。丁寧な所作をもって刀を刀置きに乗せる。

 袴の上で嘔吐されたときのことを思い出して、新八は苦笑した。

 佳紫久が不思議そうに小首をかしげる。


「いかがなされましたか」

「い、いや……。それより、借りた着物で斬りあいなどをしてあい済まなかった。さいわい着物は無事であったが、すっかり血の臭いがついてしまったな」

「それは洗えばとれますから、お気になされませぬよう。それにしても、果し合いをなされても返り血一滴も浴びずにお戻りになられるとは、いやはや驚きました。研鑽を究められた剣士の腕前とは、斯くも達せらるるものかと」

「ハハ、これは慣れだ。たいしたことでもない」


 そこへ奉公人が湯を満たした桶と手ぬぐいを運んできた。


「――どうぞ着物をお脱ぎくださりませ」

「なに……」

「お体を清めて目の下についたお傷を手当ていたしますから」

「いや、こんなものは大丈夫だ。気をつかわないでくれ」

「いいえ、大事を控えられた御身なのです。しかも血の臭いをただよわせて抱かれては、私も嫌にございます。ご遠慮をなされますな、ささ」

「お、これ……」


 そう言われてしまっては抗いようがない。

 新八はなされるがまま、着物をはがされて下帯ひとつになった。

 佳紫久は片襷をして、手ぬぐいを絞りながら言う。


「驚きました」

「なにがだ」

「お体がお綺麗でしたので。新撰組といえば、江戸にまでご活躍の評判が届いております。新さまは六年もお働きをなされたうえ数々の激しい戦場を巡ってこられたのですから、もっとたくさんの刀傷があるのではないかと思っておりましたゆえ」

「ううむ、不思議と逃げ隠れする者には流れ弾があたる。先陣を切る者には刀槍のみならず、鉄砲や大砲の弾でさえよけてゆくものだ」

「まァ、お勇ましいですこと。無我無性の境地とは、そうしたものでありましょうか」

「まさしくそれよ」


 やさしく撫でるように、二度三度と肌を拭いてくれる。

 とても心地がよい。

 思えば京にいたころ、お役目を終えたあとに仮宅へ直行した新八の背を、小常もこうして清めてくれたものだ。

 ときに身のなかたまった剣気は、魂までをもどこかへ連れ去ろうとすることがある。

 ところが誰かに体を触れられると、輪郭が膨張した己の魂が体のなかへすぅと帰納する。斎藤一などは、人を斬ったあとは女を抱かなければ――正確には誰かに身を抱いてもらわなければ、眠れぬと言ったことがあった。

 ふと、佳紫久の手が止まる。


「こちらは……」

「これか。これは元治元年七月、長州が蛤御門に押し寄せたときについた傷だ。鉄砲の弾が腰に当たった」

「なんと……」

「なァに、虻か蜂に刺されたようなもの。たいしたことはない」


 彼女は身に刻まれた傷を見つけるたび、一つひとつ由来を問うてきた。


「では、こちらの腕の傷は」

「これは先刻に話していた文久三年大坂、角力取りたちとのいざこざの中でできたもの。隣にいた力さんの刀が当たってしまった」

「まァ、そういえば手だけは傷が多いのですね」

「そうだな。手だけは肌が出ているからどうしてもそうなる。これは元治元年七月、こっちが元治元年六月池田屋でついたものだ」

「刀傷ですからお痛かったのではないですか」

「ハハ、そうだな。斬りあいをしている最中は気にもならないが、終わってから普通に過ごしていると痛くなる。なぜだろうか」

「そして、こちらが先ほどできたもの――でございますね」

「うむ」


 佳紫久は顔を近づけて、焼酎をふくませた懐紙で眼下についた傷を拭いてくれた。

 それはあまりにも慎重な手つきであったので、傷口へ触れられるたび、ピリリと弱い痛みが走るとともにくすぐったかったが、新八は下帯一丁であぐらをかいたまま頑として耐えた。

 いっぽう、にわかに鼻腔が甘い香りで覆われた。

 まるで春の花がうえから降りそそいできたような心地がして、彼女が動くたび、匂いが濃くなってゆく。

 こうして女子から体を触れられたのは小常以来になるから、だいぶ久しぶりのこと。

 新八も男だ。

 体の奥底から何かがこみ上げてくるような感覚が不意に訪れたが、フンと鼻息を荒げて封じ込める。

 それを見た佳紫久が、くすりと悪戯っぽく笑った。


「新さま。ひとつ、立ち入ったことをお伺いしてもよろしいでしょうか」

「なんだ」

「ゆうべ――新さまは寝言でと呟いておられました」

「な、なにッ、まことか」


 佳紫久はコクリと頷き、うしろにまわって着物をかぶせた。

 新八は袖に腕を通す。


「もしかすると京で共に過ごされた、いい人だったのですか」

「いいや、ハハ、そんなところだ。小常は妻だ。磯子は昨年生まれた我が娘の名である。小常は産後の経過がよくなかったので亡くなった。磯子は乳母の家に預けてきた」

「まァ、そうでしたか……余計なことを訊ねてしまいました、申し訳ございませぬ」

「いいや、構わぬ」


 佳紫久がはじめて間合いを詰めてくれたので、新八も踏みこんで訊ねてみることにした。


「俺が借りた着物。あれは佳紫久のご縁者のものではないのか」

「はい……左様でございます。あれは、亡くなった兄が好んで着ていたもの」

「亡くなった兄上、とな」


 しばし二人のあいだに重い空気が流れた。

 佳紫久は無言でたちあがると、薄暗がりのなかにある箪笥のなかから何か長細いものを取り出してきた。

 新八は驚かずにはいられない。


「おい、それは、刀ではないか」

「はい。兄の佩刀にございます。どうぞご覧ください」

「よいのか」

「高名な武芸者のお方に手にとって頂けましたら、武芸好きだった兄もたいへん喜ぶことでしょう。そうした兄でございました。なにとぞ」

「そうか。では失礼いたす」


 新八は両手で高々と捧げて深く一礼をしたのち、刀をたてて、ゆっくりと鞘を抜き払った。


「おお、これは……」


 中から現れたのは華やかさこそないが、質実な佇まいをした一振りだった。

 新撰組の隊士たちが好んで使うような刀である。


関物せきものか」

「はい。強くて折れにくいからと、大事なお役目ともなれば必ず差していたものにて」

「それにしても、この傷……」


 刀身に刃こぼれがあった。

 それも一つや二つではない。

 大小十箇所はあるだろうか。

 新八の耳朶の奥で、数十本の刀が激しく交わる剣戟がした。

 そっと目を閉じてその音をたどってみる。

 これは、死に際をかけた死闘。

 たくさんの侍たちが其処彼処で鍔迫りあいをして押し合いへし合い、大輪の彼岸花を散らしている様が見えた。

 地鳴りのような怒号と気合。

 パッとはじけ飛ぶ血肉。

 この刀には、まだ剣士たちの無念の剣気がたまっている。

 熱い憤怒の念が刀身に留まっているのがわかった。

 それらが、柄を通じて新八の手に、体に、心に、切々と訴えてくる。

 ハッと目を開けて訊ねようとしたところ、佳紫久が震える声音でつないだ。


「安政七年三月三日。桜田門外――」

「なにッ」

「我が兄は、そこに居あわせました」

「それでは其許は」

「はい、彦根藩井伊家中に仕えていた者の娘です」

「な、なんと……」


 思いがけない名が飛び出してきた。

 新八は、よもやこの女子が井伊家中の者だったとは予想だにしなかったので、麗しい気品と激しい気性が同居している美しい顔立ちを、ただただ絶句して見つめるほかなかった。

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