我無性者(四)

 刺客の二人は抜刀し、もう一人は居合術の構えをとっている。

 新八は瞬時に彼らの戦術を読みとった。

 おそらく二人が間合いを詰めて圧力をかけたのち、抜刀する瞬間を見計らって狙うつもりでいるのか。それから手負いになったところへ二人が挟撃でたたみかける。

 そんなところだろう。

 となれば一番使えるのは、居合術をしかけてくる者とみて間違いない。

 いずれも腰は深く、一目して流儀がわからないほど変容している。

 何人も斬って来た剣だ。

 剣術とは、人を斬れば斬るほど、戦場を駆け巡ればめぐるほど、どのような流儀であれ似通って単純になってゆくものだ。

 それは水が上から下へ自然と流れるのと似ている。

 一刀にも森羅万象に則した姿があるということだ。

 つまり剣術の流儀とは、武芸者がそうした姿へ還るための通路ないしは梯子の在り様のちがい、程度のものである。

 数多の修羅場と戦場をくぐり抜けてきた新八の剣も例外ではない。

 そろそろ、神道無念流はおろか過去のほとんどの剣士たちがたどりつけなかった境地に、知らずしらず踏み入れていた。

 あらためて新八は、己がどれだけ酒に酔っているかを確かめる。

 酒はどこかに乗っているだろうが、足元の浮遊感はない。

 これならばいける。

 新八は三人を視界にとらえたまま問うた。


「貴様ら、何者か。武士の情けだ。せめて名ぐらいは聞いておいてやろう」

「…………」


 やはり応答はない。

 名を明かさぬ理由があるということは、畢竟、刺客としてここへ現われたということになる。

 ならば容赦はいらぬ。

 存分に剣を振るい、殺すまでだ。

 新八はぺろりと舌なめずりをして嗤った。

 橋下をゆるりと流れる川が丸太の橋脚をなでて、あぶくがいくつか弾ける。

 大通りをゆく男と女の戯れる声が遠くに聞こえた。

 音が、一つひとつ消えてゆく。

 その時。

 ふと、三人の刺客は予想外の奇妙なものを見た。

 新八がつっと抜刀の構えを解き、棒立ちになって背を向けたのだ。先刻から肌に激しく刺さってきた殺気がぴたりと跡形もなく消え、気配までもが消えた。

 刺客たちは顔をゆがめる。


「ぬぅ……」

「あなどるか」


 一瞬虚を突かれて動揺したが、それぞれ上段と下段に構えた刀を握りなおす。

 呼吸をあわせて一足で踏み入れようとした――

 が、これから斬りかかろうとした影がふっと消えた。


「はッ……」


 抜き身を構えていた二人は、右に左にと姿を求める。

 いた。

 新八はいつのまにか二人の間をすり抜けていて、橋の欄干を蹴り、江戸の星空に高く舞っていた。

 着物を流して、居合術の構えをとっていた男の左肩の上を、ひらりと通り過ぎてゆく。

 衣がフサリとやわらかく下りる音だけがうしろで聞こえた。


「いかぬ、うしろを取られたッ」


 男は逆袈裟を予想して右まわりに抜刀する。

 そこに新八の横面があると予測して体を回そうとしたが、残念ながら、抜刀することすら叶わなかった。

 すでに青白い星の光が弧を描き、右から左へ急旋回したあとだった。

 男は「おかしい――」と悟った。

 視界が八方に回っている。

 まず地面が見えた。

 つぎに無数の丸い光跡を描くみごとな星空が見えた。

 それから目を丸くさせて驚愕する仲間二人の顔と、まっすぐ伸ばした腕で星の光をつかんでいる新八の姿があった。

 そして傍らには、暗闇にひらいた大輪の彼岸花。

 それらが高いところから二回ほどめぐって見えた。

 どれもこれも、生まれてはじめて見る不思議な視界である。


「そうだ、俺は斬られたのだ。これは死に際の景色に違いない。とうとう俺は死ぬのか。それにしても、なんと美しいのか。なんと心地がよいのか……」


 男の視界は急速に暗くなってゆく。

 最後に知覚できたのは、鯉が水面で跳ねたような音だった。


「おのれッ」


 大上段から豪快な太刀筋が落ちてきた。

 新八はほくそ笑みながら刀をさばく。

 振りおろされた刀身に己の切っ先を添えて、螺旋に巻きつけた。

 刀と刀が、一点で均衡を保ってくっつく。


「――つながった」


 この状態になると、新八には奴の筋骨が手にとるようにわかる。

 硬直しているのがわかる。

 恐怖しているのがわかる。

 奴の刀と体は、すでに新八の刀の一部となった。活かすも殺すも、柄を握る手の内にある。 

 新八が指先で小さく跳ねあげた。


「うぉッ……」


 奴の首は天に向かってそっくり返り、両手は万歳をしている。

 隙あり。


「鋭ッ――」


 まるで流れ星のごとく、楕円の光跡を描いて加速する太刀筋が、奴の右腕を巻きこんだ。

 乾いた竹が真っ二つに割れたような音が夜闇に響く。

 男の右腕は刀を握ったまま遊泳し、星空を映した川面のなかへドボンと落ちていった。

 刀を下段に構えたままとり残された男は、呆気に取られて突っ立っている。明らかに己を見失い、戦意を喪失している。もはや斬りかかってくることはあるまい。


「おい、お前」

「ひっ……」

「同志が苦しんでいるではないか。何を呆けておる。手当てしてやるがよい。この程度の傷で死にはせぬ。もう剣を持つことはかなうまいが」

「は、はいッ。すぐに……」


 男は情けない返事をしてから刀を鞘に納めると、ぶるぶると震える手で短くなった同志の右腕を紐でしばりつけた。

 あとは肩にかかえて脇目もふらず、何度も転びながら暗闇へ逃げてゆく。

 新八は血振りをさせたのち、澄んだ鍔鳴りを響かせた。


「フン、情けない奴め。死に際に立つ覚悟がないのであれば、刀など抜かぬほうが身のためだ。さりとて――」


 困ったのは事後の始末だ。

 ここはまだまだ泰平の江戸であるから、まさか亡骸を放置して立ち去るというわけにもいかない。

 しかも品川楼は目と鼻の先。そこに遊びにきていた新撰組の仕業であろうと容易に推測がついてしまう。ふたたび新八の脳裏に、小姑のようにくどくどと説教を垂れる土方の顔が浮かんだ。忌々しげに舌打ちを鳴らす。

 ここは乱暴狼藉への正当防衛であったと、しかと奉行所まで経緯を届け出ておいたほうが無難であろう。

 すると、大通り側から誰かの声がした。


「おい、斬り合いだァッ、人が死んでいるぞ」

「なに、おいおい、どこだい」

「何だよ、もう終わっているじゃねぇか」


 喧嘩見物が好きな江戸っ子は、いつも目ざとい。大嫌いな侍同士の斬り合いともなれば、江戸市中の端まで一斉に駆けてゆく。

 声を聞いた町人たちが、大通りからわらわらとすぐに集まってきた。

 横たわる首なしの死体を遠巻きに提灯で照らして、皆が仰天する。


「おわッ、首がねぇぞ」

「あったあった、あそこだ。川にぷかぷか浮いてやがる」


 新八は総髪を五指でかきあげつつ、濁った嘆息をひとつ漏らした。


「糞、何ともやっかいな……」


 ほどなくして、騒ぎを聞きつけた島田がきてくれた。

 提灯を持ちあげて新八の顔を照らす。


「やァ、新さん、これはいかがなされましたか。お怪我のほうは――目の下が少し切れているようですが、とくにないようですな」

「うむ、大丈夫だ。思いがけず騒ぎごとを起してしまった。すまぬ。中村や他の者たちはどうしているか」

「一同、新さんが襲われたと品川楼の奉公人から聞きおよび、にわかに刀をもって戦場へ駆け出す勢いになりました。いらぬ揉め事がおこってはたいへんだと思い、ひとまず私だけが出てきた次第にて」

「そうか、さすが力さん。助かる」


 島田は首のない亡骸の傷口を、提灯で照らしてまじまじとあらためる。


「いやはや、これは何とも見ごときわまりない傷口。瓜の首を斬ったようにまっすぐではありませぬか。骨に引っ掛かった様子もいっさいなし。いったいどうやって斬ったのですか、こちらは」

「ハハ、ちょっとな……。何年かまえに芹沢隊長から習った居合術を試してみた」

「ほう、なるほど。これが神道無念流の立居合の手口ですか。おそるべしというほかなく、斯様な傷口をはじめて見ました」

「実のところ、俺自身も驚いた。立ち上がる勢いと身を回す勢いを螺旋に合わせ、太刀筋を乗せる――たしかにこれを考えた者は、相当な腕前の剣士であったのだろう。存外に刀が奔り、首が容易く飛んで行った」


 首が放物線に飛んでゆく様を想像した島田は、ブルッと身を震わせて問うた。


「それで首があんなところまで」

「うむ」

「くわばらくわばら」


 橋下の川では集まった町人たちが大騒ぎしながら長竿を操り、浮かんでいる首を回収していた。


「ところで新さん、襲ってきた者たちの顔に覚えはございますか」

「ない――と言いたいところだが、ある」

「長州か薩摩の者でしょうか」

「いいや、違う。斬る寸前に顔が見えた。あれはかつて浪士組にいた者だ」

「なんとッ、御陵衛士の残党ですか」


 島田の慌てぶりが酷かったので、新八はクスリと噴き出した。

 昨年、島田は近藤とともに御陵衛士の襲撃を受けて命からがら逃げてきたから、その場面が甦ったのだろう。


「いやいや、それも違う。あれは力さんが京へ来る以前、清河が江戸へ帰ってから浪士組が二つに割れたときのことだ」

「あァ、それは聞いたことがあります。たしか芹沢隊長と近藤隊長の一派と残る者たちのあいだで抗争があったと」

「然様。殿内と根岸の一派だ。あの時、試衛館の者たちで殿内を仕留めたが、根岸らにはまんまと逃げられていた」

「ほう、そんなことが」

「根岸らは過激な尊王攘夷論を唱える者らでな、今にして思えば市中警護をする側というよりは、取り締まられる側。過激志士のように頑なな連中であった。この男の顔には見覚えがある。さっきからどうしても名を思い出せぬが、根岸の配下にあった剣士だ。おそらく一刀流であったろうか」

「なるほど」


 京を離れた根岸らは、一旦は新徴組へ加わったが、すぐに行方をくらましたと聞く。土方も江戸へ来るたびに奴らの行方を追っていたものだが、まさかこうして新八を狙ってくるとは存外だった。

 島田は頭を掻いて深くうな垂れる。


「――おそらく昼の花魁道中で新撰組の名を聞き、やってきて待ち伏せをしていたのでしょう。今にして思えば、たいへん迂闊なことをしてしまいましたな。いまだ江戸市中には、薩摩に通ずる不逞浪士もあろうというのに」

「なァに、むしろ余計な手間がはぶけてよかったともいえる。もう一人は腕を斬り落としてやった。恐れをなして再び襲って来ることもないだろうよ」

「なんと、さすがです。しかし、土方副長には小言を言われそうですな」

「まァ……な」


 川から引き揚げられてきた首が、亡骸の肩口に置かれた。

 それを見た島田が、口に手を当てて笑いをこらえる。


「クククク……こ奴め、何という暢気な顔を。日なたで昼寝をしているように口と頬が緩んでおりますぞ。新さんに斬られたのが、よほど嬉しかったのでしょうか。これも珍しいことにて」

「刀に斬られたのにニヤけて死ぬとは気味が悪い奴だ。知らぬ」


 島田は立ち上がって「フンッ」と背伸びをする。

 岩のような拳で腰を叩いた。


「さて、この後始末は万事私にお任せいただき、新さんは品川楼へお戻りください。体よくこの界隈はかつての知人も多くおります由、奉行所にも抜かりなく届けでておきますから」

「いや、それは力さんに悪い」

「いいえ、よいのです。騒ぎを聞いた佳紫久が、痛く心配そうにしておりましたから、戻って早く安心させてやってください」

「お、おい……」

「ささ、色男さんははやく帰った帰った」


 島田の力は、さすがの新八でも抗いきれるものではない。

 鳥羽伏見の戦では、武装した新八の体ごと高所へ軽々と放り投げられたことがあったほどだ。

 大きな手で押しだされた新八は、五歩六歩とよろめいて苦笑いした。

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