霜雪に咲く早梅(一)

 文久三年九月十六日。

 朝からしとしとと雨が降る日だった。

 鈍色の雲で空が覆われた午後。

 新撰組は会津候の招待により、島原の角屋で慰労をかねた総会を開いた。そう、あの角屋である。

 それはいつになく盛大なもので、大名の家中であってもなかなかこうは行かない。

 島原評判の芸妓を数々呼びよせ、角屋の酒樽を片っ端からどんどん空にしてしまう。

 大広間の上座には局長の芹沢と近藤が座する。

 肩がくっつくほどの密度で膳をならべた隊士たちは、愉快げに酒を飲んでいた。

 いまや京都守護職預り新撰組という立派な名まで頂戴している。以前のような無体を働くことは絶対にできない。それこそ会津候の名を傷つけてしまうから切腹ものだ。

 さらに京市中では、追放された公卿を憐れむ者が根強くあり、または長らく長州藩を得意先としてきた商店や座敷も多い。

 長州藩を追放し、京師の中枢にはいった薩摩藩と会津藩にとって、帝と公卿ばかりでなく市中の信頼を得ることも重要な課題のひとつであった。

 やがて日が暮れはじめた酉の半刻。

 宴もたけなわとなったころ。

 すでに当初あった宴席の配置はくずれ、自然とそれぞれ気心の知れた者同士で円座になって飲んでいる。三三五五帰りはじめる者もあった。豪傑ぞろいの新撰組隊士だからとはいえ、皆がみな酒を好むというわけでもない。下戸の者だってある。

 新八はといえば、島田魁をはじめとした二番隊の面々、斎藤一、野口健司に囲まれて愉快にやっていた。二番隊は新八の剣技に憧れるとりわけ元気な若者が多い。いざ捕り物となれば、危険をいとわず真っ先に突入する血気の壮士ばかりだ。隊内では沖田が率いる一番隊と勇ましさを競いあう。

 ところで野口健司という侍は、芹沢の配下として浪士組に参加した水戸脱藩浪士である。

 剣の腕前は際立っていた。それもそのはず、本所亀沢にある神道無念流百合本道場で目録をえた剣士だったからだ。

 百合本道場といえば新八が十八歳から四年間をすごした場所であり、野口とは居た時期こそ入れちがいであったが、二人は同門の近しい兄弟弟子関係にあたる。

 若干二十歳。

 いつも月代を清潔に剃り上げ、水戸藩士家の出自らしい育ちのよさをただよわせる。芹沢によれば水戸にいたころ、野口は前髪をおろすことを頑なに拒んでいたが、浪士組に参加する条件としたらやっとおろしてくれたそうだ。

 体格は長身であるが、やや細身。剣の進退は風にそよぐ柳の如く、しなやかな剣技を身上とした。肌は女子のように滑らかな色白、澄んだ瞳をもつ好青年だ。

 芹沢よりも年齢と出自がちかい新八を、「新兄さん、新兄さん」と呼んで日ごろから慕う。

 さっきから野口は新八のちかくに芸妓を座らせず、横に控えて盃が空いたと見るや、敵娼のように酌をしてくれている。

 新八に対してだけであるが、どこか嬌態さえも漂う。


「なんだなんだァ、野口君。今日も永倉氏にべったりであるな」


 上機嫌に呵呵と笑う野太い声がして、皆でそちらを見上げた。

 土方、平山、平間をひきつれた芹沢が、大鉄扇で肩をたたきながら立っていた。

 その顔はいつになく朗らかで、目尻がやさしげに下がっている。


「野口君。お主、まさかほの字ではあるまいな。さて土方君、これは困ったことになったぞ。古来、衆道のもつれは男女のそれよりも厄介で、国をも揺るがすと聞きおよぶ。局中の憲法に、隊士同士の色恋沙汰は禁止と第五条を書きくわえねばなるまいか」

「そうですな、これは大変。では早速」


 土方がニヤリと嗤って悪乗りをはじめたので、野口は耳と頬を真っ赤にさせ、慌てて否定した。


「なッ……いえいえッ、まさかまさか。私は女子が好きですよ。ハハ……ハハハ。芹沢隊長がおかしなことをおっしゃるから、新兄さんもお困りではございませぬか」

「ううン、いいや。そこまで強く拒むのが、むしろ実にあやしい。だがよいのか、それで。まるで永倉氏など好みではないと振ってしまったようであるが、失礼でもあろう」

「あ、いいえッ。新兄さん、そんなつもりでは、ございませぬゆえ……どうか私を遠ざけないでください」


 野口はどんどん声が小さくなり、頬を桃色に染め、両手に乗せた盃をしおらしい仕草で飲み干した。

 当の新八は、対応にもてあますほかなく、


「お、おう……大丈夫だ、安心せよ」


と答えるしかなかった。

 二人のやりとりを眺めていた芹沢は、豪傑笑いをしたのち、鉄扇のさきで野口の月代をトンと軽く叩く。

 それから新八のまえで片膝を落とした。まさしく家中勤めをする武家だけが見せる、格式を漂わせたそれだった。

 芹沢にしては大変めずらしいことである。おそらく初めて見せた所作だったゆえ、新八と野口は条件反射で恐縮してすぐに威儀をただした。

 騒がしい広間のなか、いつになく神妙な声音で芹沢が言う。


「永倉君。この野口は純朴で若いがゆえ、まだまだ足取りに覚束無いところがある。おそらく永倉君と同門であったゆえであろう。太刀筋とがむしゃ者の心根が貴公とどこか似ておる。水戸の郷里では、心優しきご両親が野口の無事を案じておられる。某はご両親から武者修行のためと託されてきた仕儀ゆえ、監督する責任がござる。これからこ奴が道を違えることがないよう、どうぞよろしく導いてやってくだされ」

「はい。野口君は可愛い後輩ですから、もちろんそのつもりです」


 さらに芹沢は岩のような手で新八の両手を包みこんで言った。


「頼みましたぞ」

「はて、今日はいかがなされましたか、芹沢隊長。すこし酒がすぎたのではありませぬか、ハハハ……恐悦至極にございますれば」


 ところが、芹沢の目はなおも真剣でいて、さらに続ける。


「――撃剣館といえば、神道無念流にとって初代岡田十松先生が開いた聖地にてござる。その聖地で幼少から研鑽された永倉君は、まさに神道無念流の理合いを凝縮した権化、当流の宝とも呼べよう。よろしいか。神道無念流とは、帝と皇国を守護する剣でござる。すなわち三千世界ひろしといえども、尊王の義士が振るう唯一無二の宝剣でござる」

「は、はい……」

「またわが師は、しばしば斯様に申しておった。剣士には、まれに天与の才が出現する。天与の才が何かと問えば、天に選ばれた者しか持ち合わせぬ宝。残念ながら某にはなかった。しかし永倉君、貴公は違う。天与の才をもって生まれた。これには天道にのっとった宿命、天命が秘められていると某は存ずる」

「そんな……本当に今日はいかがなされたのですか。おそれ多いことです」

「いいや、違う。違いますぞ。何も謙遜する必要はない。否が応にも貴公はそうなのだ。なればこそ、しかと覚悟を思いさだめ神道無念流の先人に恥じぬよう、剣を振るわねばならぬ義務を背負っておられる。永倉君は時の潮目に漂う剣士壮士らの先頭に立ち、その背をもって迷う衆人を呼び、あるべき道へ導かねばならぬ。これぞ大事をなす尽忠報国の士のあるべき姿。よろしいか」


 手が痛くなるほどに強い力だった。

 芹沢の双眸が炯炯と、新八の眼前で力づよく光っている。

 太い声を小さくおさえ、しかしとても熱っぽく、芹沢はもう一度問うた。


「頼む。某に約束してくれ。よろしいかッ」

「はいッ。芹沢隊長の強きお気持ち、わが心でしかと承りました。肝に銘じます。かならずやお約束いたしまするッ」


 新八の返事を聞いた芹沢は、目尻を下げて至極嬉しそうに破顔一笑させ、両肩をつかんだ。


「うむ、よろしい。それでこそ、それでこそ神道無念流の剣士である」


 つぎに芹沢は、盃をひろって立ち上がった。

 それを高々と掲げ、大音声を八方に響かせる。


「各々がたァッ。しかと心得えるがよろしいッ」


 隊士たちは一斉に芹沢のほうを見て、おなじく稲穂のように盃を高く掲げた。


「われら皇国の守護者、新撰組であるッ――」

「「応ッ」」

「さりとて、立派な名を頂いたからといってゆめゆめご油断めさるな。これは始まりに過ぎず、これからの働きが大事となる」

「「応ッ」」

「まずもって何につけても、覚悟が必要だ。ときに我らを嫌い、謗る者もあるであろう。だが恐れるなかれ。決して引くなかれ。いつも時は夢の如くながれ、名は燦然と輝きを増す。必ずや後世の者たちは、我らの忠義と志の正しさを知り、とこしえに武勇を語り継ぐことになるであろう」


 酒と言葉に酔った隊士たちは、「そうだッ」「然様ッ」「然りッ」と熱狂的に声を張りあげた。

 芹沢は両腕を広げ、さらに隊士たちを煽ったのち、すぅと胸を大きく膨らませた。


「――敬天愛人けいてんあいじん


 場の空気が一気に静まりかえり、芹沢の声だけが空間を渡る。


「すべては、神武帝から脈々とつづく神国日本の国体を守護奉り、人民が安んじて暮らせるよき世を開くためである。季節にたとえるならばうららかな春。そののちは瑞々しき夏が訪れる。ゆえによいか。当世の佞者ねいじゃがこねる屁理屈などに惑わされるな。大義をなすことだけ考えよ。そしてその大義に今生を捧ぐことこそが、士道の本懐であるッ。――われら新撰組。霜雪そうせつに咲く魁の早梅とならん。気高き香りのみを残し、みごと散ってみせようではないかッ」

「「応ッ」」


 隊士たちの応答が地響きのように鳴った。

 風雅な装飾をほどこされた天井がびりりと震え、建物を揺らした。

 通りをゆく市中の人々は、何事かと角屋の建物を見上げる。

 芹沢とともに盃をいっせいに空けた隊士たちは、次々と拳を振りあげ、戦国武者のように鬨の声で気勢をあげた。

 もちろん新八、島田、野口、斎藤、藤堂平助もこれに加わる。

 鋭ッ、鋭ッ、応ッ――

 鋭ッ、鋭ッ、応ッ――

 その中央。

 懐手の芹沢は水戸っぽらしく胸を張り、隊士全員の顔を頷きながら見わたす。

 そして縦縞がはいった袴と黒羽織を流し、颯爽と抜けて行くのだった。

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