幕末新撰組(二)

 薩摩藩は開国と公武一和路線の筆頭であったが、それをおしのけたあとの長州藩と尊王攘夷派は、朔平門外の事変があってからというもの、タガが外れたようにますます勢いを増していた。

 天誅予告の張り紙で恐喝された三条実美は、まんまと長州藩の走狗となって朝廷内で声高だ。実美は、みずからの意思で動かせる私兵を設置することさえ構想している。

 文久三年三月十一日。

 孝明天皇は車駕で賀茂下社の上社に行幸し、攘夷成就を祈願した。関白以下の公卿、家茂、慶喜ら在京諸侯も供奉している。

 翌四月十一日。

 こんどは石清水八幡宮への行幸となったが、家茂が病でうごけなかったため、将軍名代として慶喜がこれに同行した。ところが当日になって慶喜も病で体調がすぐれなかったため、石清水の山麓にとどまったのであるが、これがまずかった。

 八幡宮といえば徳川の祖、清和源氏の氏神であり、国家鎮護の神として崇拝されてもいる。その山上で攘夷を任命する節刀を賜ることになれば後戻りできなくなってしまうため、「逃げたのだ、けしからん」と世間で批判まじりに噂された。もはや幕府側が何をやっても批判されてしまうような風潮が京にたちこめている。

 かたや公武一和派の公卿、中川宮の立場も苦しい。ふってわいたように肥前への派遣がきまった。これは菅原道真を連想させる事実上の左遷だった。

 とうとう孝明天皇の御前において、攘夷実行を誓約させられざるをえなくなった将軍徳川家茂は、朝廷や尊攘志士の妨害をうけながらも六月に江戸へもどった。

 ときおなじくして江戸へ帰った一橋慶喜は、世論に敏感であるから、攘夷実行を拒む幕府の重臣らをおしきって横浜港の鎖港方針を確定させた。

 慶喜は、機をみては敏が身上の人である。

 一貫して合理的な行動を淡々と見せた点において、当世では異色をはなっていた。うがった見方をすれば風見鶏。よく受け止めればリアリストであり、思考が柔軟だといえる。この時期の慶喜は、幕府と京の世論を中庸する見解と第三局を模索していた形跡もうかがえる。

 京において帝の意思と世論が攘夷にあるかぎり、たとえ強力な武力を保有する幕府とはいえ、これに抗ってあらがいきれるわけでもない。むしろ公卿や攘夷派に倒幕の口実と大義を渡してしまうことになる。

 それほどに事態は切迫して深刻だったともいえるが、徳川幕府存続のためにいずれが最善手であるかと熟々と考えれば、流動する時の潮目のなかで、慶喜の行動には適時性があったと評価できうる。

 かくして、尊王と攘夷をかかげ急進的に欧米を排除せんと走る者たちと、公武一和のもとで時間をかけながら欧米諸国に対応していこうとする者たちの主導権あらそいが、いよいよ鮮明になってきた。

 そして、時の潮目の大きな転換点はおとずれた。

 同年六月から八月上旬にかけてのこと。

 欧米の商船に砲撃を仕掛けた長州藩は、軍艦による猛烈な反撃を浴びることになり、惨憺たる損害を被った。長州藩にとっては御家存亡の大変な危機に直面した。どんな手をつかってでも切り抜けなければならない。

 ところが幕府は、長州藩に外国船への砲撃をやめるよう諫めてくる。

 そこで八月十三日。

 京師に衝撃がはしった。

 なんと、孝明天皇の大和国行幸と、親征攘夷の詔が発せられたのである。

 親征とは、天子が軍を率いるということだ。

 つまり、孝明天皇自身が軍をすすめて攘夷を実行するという意味になる。もちろんこれは、長州藩と攘夷派公卿による生き残りをかけた苦しまぎれの画策だ。詔が発せられたとはいえ、孝明天皇の聖慮にもとづいたものではなく、でっちあげの偽勅に過ぎない。

 示された行程はこうだ。

 まず、大和国にある神武天皇陵と春日神社へ参拝する。しばらく同地にとどまって親征の軍議をかためたのち、つぎは伊勢神宮まで行幸参拝するという。

 さらにその先でどうするのかは明らかにされていないが、帝の名の下に兵があつまるのを待って東下し、武力をもって幕府に攘夷実行をせまり、動かぬとあらば倒幕までなだれこむ計画でいるのだろう。

 天皇が禁裏からでて行幸するという意味合いは極めて重い。神武天皇といえば東征して皇国をうちたてた初代天皇である。その陵墓を参拝するということは、そうした意味がこめられている――と人々は容易に察した。

 さすがにここまで話が飛躍してくると、長州藩と攘夷派公卿の暴走であることは明白であり、公卿も諸侯もついていけなくなってくる。世論は攘夷を望んでいるが、身近な戦乱を望まない。危険を我が身から遠のけたくなる。当世の公卿たちは鉄砲と大砲の音、硝煙の臭いをひどく嫌っていた。だからこその攘夷でもあるのだが、その根っこは皇国の行くすえを真剣に思う理想とは程遠く、ひどく情けないものだった。

 当の孝明天皇も臣下の立場を慮って口にこそ出さずにいたが、内心で戸惑っていた。

 そこで動いたのは、起死回生をもくろむ薩摩である。

 水面下で会津に接近し、長州藩とそれに靡く者たちの一掃計画をもちかけた。

 勅書が発せられた日。

 突として、薩摩藩士高崎左太郎が会津藩士秋月悌次郎の別宅をたずね、声音をおさえながら熱っぽく言った。


「ご存知のとおり、近来発せられた奸臣どもの所為による偽勅でござる。帝もこのことには深くご憂慮をお示しになられ、しばしば中川宮様とご相談との由、兵力をそなえた武臣が側にいないがために思うようにならないとお嘆きであられます。我輩はこれを聞きおよぶにつけ、傍観しているのはしのびなく」

「うむ……まったくもって同感」

「――思うに如何でありましょう。この任にあたれるのは、京師にある諸藩のなかで会津と薩摩のほかにありません。願わくは共に奸臣をとりのぞいて叡慮を安んじたいものであります」


 正論である。

 秋月はさっそく黒谷へ急行し、容保にことの仔細と意見を言上した。容保の決断も早かった。京都守護職のお役目は何であるかを鑑みれば、結論はただひとつしかない。

 それを得て秋月と高崎は中川宮邸を訪ねる。中川宮は喜び、孝明天皇を説得するため密かに単独参内した。

 いっぽうで会津藩士と薩摩藩士らは、有力公卿の説得に奔走する。やはり公卿らは長州藩と過激派志士たちの報復をおそれ容易にうなずいてくれなかったが、何とか説得に成功した。

 実はこうしているあいだ、大和国において前例のない動きが起こっている。

 勅書に呼応するかたちで過激攘夷派志士たちが蹶起したのだ。

 天誅組である。

 彼らは四十名ほどの規模だったが、うち半分ほどは土佐勤王党の者たちである。

 中山忠光を将に据え、首魁として土佐勤王党の面々と、あの藤本鉄石が名をつらねる。中山忠光という人は、公卿中山忠能の子であるが、兄弟には正親町公董がいる。そう、新家粂太郎が警護役として長州へ同行した人物だ。すべてが狭い範囲でつながっていた。

 天誅組は、幕府代官所を襲撃、代官らを斬殺。幕府天領の引渡しをもとめて勝手に朝廷の直轄地とする。

 年貢とりたてを減免することを掲げ、地主らの世論にまで配慮する用意周到ぶりだったが、はたして彼らの蹶起趣旨がどこにあったのかといえば、親征と倒幕にほかならない。

 大和国行幸に先んじ既成事実を進行させておき、孝明天皇を迎える。あとは天皇の名においてことを進めようという計画だ。

 後世、七十三年後に起こった二二六事件の道筋ともどこか似ているだろうか。彼らが求めたのも天皇親政による昭和維新だった。

 さてこの頃。

 壬生浪士組の一同は何をしていたか。

 よもや京市中と大和国において、そのような一大事が起こっていようとは知らずにいたが、京都守護職預りの身として無関係でいられるはずもなかった。

 側面から会津を補佐する位置づけで時の潮目に飲みこまれ、深く踏みこんでいくことになる。

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