時の辻(三)

 鳥羽伏見の戦から十年ほど前、江戸が政局の中心だった。

 安政年間。

 皇国の存亡を左右する最重要の政治課題は、開国通商か、鎖国攘夷か――

 横から十四代将軍継嗣問題が交錯し、ほどけないほどに撚れて、南紀派と一橋派の一大政局に発展する。

 まず南紀派は彦根藩主の井伊直弼を筆頭に、幕政を担う譜代大名の派閥だ。結果責任がともなう執政の立場にあるゆえに開国通商の現実路線を選択し、継嗣問題では紀州徳川の徳川慶福|(家茂)を推す。

 かたや一橋派。

 前水戸藩主徳川斉昭を中心として、主に幕政から遠ざけられてきた親藩と外様大名らによる派閥である。薩摩と土佐もこちら側にいた。将軍継嗣には斉昭の実子、一橋慶喜をたてて対抗する。

 斉昭という人は水戸学にもとづき、頑迷なまでの鎖国攘夷論者だ。余人は烈公と渾名する。

 ところが薩摩は開国路線を志向する側。この点からわかるように一橋派とは、政策理念よりも反南紀派というだけで結びついた野合であった。

 晩年の勝海舟は、斉昭を遠慮なくこう酷評する。


「公は耳が遠い僻人だナ。西山公|(徳川光國)を学びそこなったンだ。あれよりかは慶喜公のほうがよっぽど人物だヨ」


 海舟も十分にひとくせふたくせある人物だが、不仲だった慶喜よりもひどく言うのだから興味深い。

 若き斉昭が藩主を継ぐさいには、家臣らが「あれではいかぬ」と藩の行くすえを危ぶんだ。幕府に継嗣の養子を願いでようとして騒動が起こったほどでもあったが、奇しくも懸念どおりとなった。いや、さらに想像の先を行っていたか。

 子の慶喜も、激しい父親に運命を引き摺られた感が否めない。

 将軍上洛にさきだって慶喜は後見役として京へ上ったが、行く先々で公卿たちから「あなたは烈公の御子であるから必ず攘夷をなされような」と言われ、辟易としたとある。どこか厭世的とも思える淡白な言動と、将軍となったあとの孤立も、父の影が災いしたのかも知れない。親が騒がしい性分だと、往々にして子はそうなるもの。

 結句、直弼の大老就任を契機に、南紀派が政局を制した。

 一橋派の敗因はなにかと問うに、いくつもあるが、そもそも水戸徳川出身の慶喜は紀州徳川の慶福とならべてみると、公武の血筋を受けているとはいえ徳川宗家から遠く、多くの者を納得さすには理屈として無理がある。

 あとは斉昭が、大奥の女たちから酷く不人気であったのも大きく祟った。

 このとき直弼四十二歳。斉昭は五十八歳。年齢に由来する価値観、立場による見解の相違も根底にあった。


「おのれ、彦根の若造め……」


 ことごとく面目をつぶされた斉昭は歯噛みして逆上し、なりふり構わぬ行動におよぶ。

 無断登城――

 要するに、許可なしのまま江戸城へ乗りこんでしまった。これはご法度である。


「掃部頭をだせッ」


 帝の許しもなく日米修好通商条約を締結した件を責めたうえ、慶喜を将軍継嗣とするよう恫喝まじりに迫ってはみたが、淡々と論理的に説く直弼に拒まれ、あえなく失敗する。当暴挙を咎められた斉昭は、藩邸蟄居を命じられ、政局の表舞台から自滅して下りた。

 が、これで終わる烈公斉昭ではない。

 江戸の空に晴天の霹靂が轟く。

 突として、孝明天皇の勅書が幕府と徳川宗家を飛びこえ、こともあろうか臣下の水戸藩に直接下されたのである。あとから戊午ぼごの密勅と呼ばれたものだ。

 その意味あいは重大である。

 幕藩体制二百六十年の歴史において、前例なき異例中の異例。

 内容についても嘆くほかない。

 修好通商条約締結を責め、幕政の改革と攘夷を実行せよという。

 攘夷実行とは、即ち欧米の武力排除を意味する。

 誰がどこからどう見ても、斉昭の主張そのものであるのは明らか。

 徳川御三家とはいえ、一大名にすぎぬ斉昭にそこまでのことができたかといえば、じつは可能な環境にあった。

 それは公卿との縁戚だ。

 水戸徳川は京の公卿と長い年月をかけて縁戚と誼を深めてきた経緯があり、朝廷に太い人脈をもっていた。とくに幕府が警戒していた強烈な一本は、斉昭の正室であり慶喜の母である吉子女王で、彼女は有栖川宮織仁親王の娘。つまり皇族の宮家出身だ。

 何百年も執政から遠ざけられ、狭い行動範囲のなかで生きている京の公卿など、伝統的な官位と役職の看板こそあるが兵一人も動かせず、大身旗本よりも小さな石高だから御するに容易い。

 斉昭がこれら人脈を駆使して勅書の下賜を画策したであろうことは、状況からみて明白だったが、もはや手段を選ばなくなったあたり、斉昭の劣勢と焦燥が滲みでている。

 たった一つの慣わしやぶり。されどそれは、厄災が詰まった玉手箱の開放を意味した。上から下まで、個人の懸命な生活と運命を、塵芥のように吹き飛ばす。

 鳥羽伏見の戦もそうだったが、これより帝の名のもとに勅書が乱発され、たびたび争乱の引きがねとなってゆく。

 手続きの透明性や妥当性などあったものではない。謀略の腐臭を覆い隠し、理不尽でさえもまかり通すための梃子として利用される。

 確かに、言われてみればそうだ。

 ひとたび夜に発すれば、あしたには列島全土が勝手に一変する。法をも超越する魔力ないし仕組みをせっかく発明したのだから、一度知ってしまえばやめられなくなるのだろう。

 のちの世に維新と礼讃された一連の出来事は、残念ながら合理的な政治理念や理想、若き志が主役ではなかった。

 それは後づけされた夢物語にすぎない。

 虚飾された先入観をのけて目を凝らしてみれば、あるのは帝の権威にむらがり、陰から権謀術数をめぐらす老人と、捨て駒となって命を散らしてゆく若者たちの構図。

 いつの世も変わらない。

 醜く臭いものほど、きらびやかな美しい言葉で飾りたてなければ、白日の人前には出せないものだ。

 さて経緯はどうであれ、一旦でてしまった密勅はどうなったか。

 当然、幕府は勅書を朝廷へ返納するよう水戸藩に求める。

 対して水戸藩は真っ二つに割れ、揺れに揺れた。

 「返すべき」とする保守派と、「いや、返すな」と強硬に譲らぬ攘夷派とのあいだで激しい内輪揉めが勃発する。攘夷派の代表格は藩家老の武田耕雲斎という者で、斉昭とは若きころから一蓮托生の関係にあって信任は厚い。

 たびたび殺し合いも起きた。水戸藩はつまらぬ内訌により、将来ある有為の人材を無駄に失う。

 事実上の最高権力者として、斉昭はそこまでをも考慮に入れて手をうつべきでだったが、若い者らからつぶされた面目を回復せんとして視野が狭くなってしまったのか。または力を誇示したかったのか。人が老いるとはそうしたものであるから、斉昭に限ったことでもない。

 さておき。

 斯様なわけで、戊午の密勅を水戸の陰謀とみる世論と幕論が定まり、斉昭以下の密勅に関与した一派に沙汰がくだされる。蟄居、獄門、斬首、遠島などの厳罰に処された。

 ほかにも一橋派に名をつらねた大名と公卿、過激な攘夷活動家らまでも、御役御免や隠居、はたまた追放などなど百名ほどが対象となった。

 いわゆる安政の大獄である。

 後世の教科書では、言論を権力で封殺した非道な悪行、直弼はけしからん奴だと記述されもしたが、経緯を見れば無理もない。

 斉昭は無茶をやりすぎた。

 攘夷という空想の産物を叫んで騒擾し、個人の怨恨を晴らすため、世をかき乱したのは誰だったのかという話である。

 不毛な争乱と損失に歯止めをかけようとした大獄処分であったが、期せずして、さらに酷い反動を呼んでしまう。

 放たれた時の振り子は、もう誰にも止められなくなっていた。

 安政七年三月三日。

 季節外れの雪に覆われた江戸城桜田門外。

 水戸の急進的な攘夷派の志士たちがそろって脱藩したのち、井伊直弼の登城行列を襲撃し、暗殺してしまった。

 かの者らの目的は、あくまで直弼の暗殺と幕政改革にある。

 自分達も先祖代々藩に仕え、禄を食んできた武家だ。その身分の根幹は、藩であり幕府であるから、よもや倒幕までは想像がおよんでいなかっただろうが、結果的に幕府の権威と信用を失墜せしめてしまう。

 はたしてこれは、壮挙快挙か暴挙妄挙か。

 義挙成就の報せを聞いた水戸の攘夷派は、諸手を上げて「みごと天晴れなりッ、天晴れなり進思尽忠の士」と口々に讃えた。

 よって桜田事変は、一部の者による単なる突出ではない。もしも彼らが失敗した場合には、二段三段と後方で控えていたことからも、水戸には組織的な活動があったのだ。

 やはり水戸学が与えた影響は、じつに大きかったといえる。後世に受け継がれてゆく皇国史観、国粋主義、征韓論の礎石となり、天誅に代表される日本型テロリズムの苗床となった。

 疫病、外圧、災害、飢饉などの社会不安を媒介として、水戸学はまたたく間に武家階層や神職らなど、列島全土の特定階層に広まった。たとえば長州の吉田松陰や薩摩の西郷隆盛も水戸学を学び、深い影響を受けている。

 国学や水戸学が示すところの国ないし国体とは、西洋で育まれた自由平等博愛を掲げる国家像ではなく、天地ができてから一統につづいてきた神聖なる帝を人民の父母として頂点におく皇国をさす。

 皇国がそうして長らくつづいてこられたのは、緒外国にたいして優位性をもつ神国の証であって、また武家は帝に君臣の義を果たしてきたからこそ、正統な存在意義があるとする。

 そして、神話時代から続いてきたとされる皇国の歴史を物質化した象徴が三種の神器となるが、これは国の根幹であるから、庶衆の命よりもはるかに重い。

 後世の人が新しい価値観をもって見れば困惑もするが、当世はそうであったというだけで是非善悪もない。

 これこそ当世において、全人口の一割にも満たない支配層で共感されたこの国のかたちだった。

 緒藩では、鎖国攘夷・幕政改革派と開国通商・保守派の血生臭い対立が生じる。

 やがてそれらの山水が小川となり、大河と合流し、海の潮となって渦を巻き、人が集まる江戸と京でせめぎあう。

 その渦中で勇ましく奮う水戸の急進攘夷派のなかに、数百名の大きな塊として玉造勢という集団があった。

 なかでも隊員たちから一目置かれる人物が一人。

 下村継次という男。

 彼は武田耕雲斎から覚えられたほどの際だった逸材で、剣は神道無念流を修行し皆伝の腕前。体は大柄で迫力ある風貌、腹底に響く野太い声。雄弁であり、尽忠報国と書いた大鉄扇を代名詞とする。

 玉造勢は、戊午の密勅返納阻止運動でも存在感を示した急進的な一派だったが、その突出した過激ぶりが災いして、幕府からの苦情をうけた藩によって一斉捕縛された。


「雪霜に 色よく花の魁けて 散りても後に匂ふ梅が香――」


 下村は獄中で死を覚悟して、指を噛み千切り、己の血を墨がわりに辞世の句まで詠んではみたが、思いがけず釈放となる。

 折りも折り、幕府から恩赦がでた。

 攘夷活動家の清河八郎が建言した急務三策、「一に攘夷、二に大赦、三に天下の英才を教育する」を受けてのものだったが、つくづく人生とはどこでどう転ぶかわからない。

 およそ二年の牢獄生活から生還した下村は、浦島太郎のごとく世の変化に驚きもした。斉昭亡きあとの水戸藩では、内輪揉めがさらにひどくなる一方であったため、めまぐるしく移り変わる政局の潮流からとり残されつつある。

 下村が敬愛する武田耕雲斎が、ひそかに言伝をのこしていった。


「一橋様は大樹様よりさきがけてご上洛の由、これより時の辻は京師となるであろう。此度、いよいよ幕府公儀が尊王攘夷と尽忠報国の実を果すため、先兵となる精鋭として攘夷組を広く募る。下村もこれに加わり、上洛するがよい」


 かくして下村は、同志の新見錦ら四名とともに、新撰組の前身となる浪士組へ加わったのだった。

 名を、芹沢鴨とあらためた。

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