鳥羽伏見(三)

 ところが慶応四年一月四日。

 想定外のことがおこった。

 なぜか帝は、突として錦の御旗を薩長に与え、仁和寺宮嘉彰親王を旧幕軍征討将軍に任じてしまう。

 即ち徳川慶喜は朝敵。討伐されるべき賊徒、大罪人として名指しされた。

 前段にどんな脈絡があったとしても一切関係ない。帝が白といえば白、黒といえば黒に変わる。傍から見ればまことに奇妙な飛躍であるが、国学や水戸学が論理づけた当世共有される伝統的思想信条に基づけば、ごくごく自然なこと。かしこくも帝の勅命は武家が従うべき疑いようのない大義であって、賊は討たれなければならない――となる。

 武家はまずもって勤王ゆえ、賊と呼ばれることを死よりも恐れる。この狭い皇国において行く先々で責められ、末代まで居場所を追われるのは恐ろしいことだ。

 結果、賊軍とされた旧幕軍の士気は、当然に地の底まで急下落する。

 かたや錦の御旗を掲げ、「われら官軍」と手柄をもとめ勢いに乗る薩軍が伏見の千両松まで押し寄せてくる。両者の差はあまりに大きかった。

 最早かくなるうえは一旦淀城へ退却し、膠着状態をつくりだして体勢を立て直すしか旧幕軍に手はない。

 だが、旧幕軍だけでなく諸侯もひどく混乱した。

 前述のとおり周辺諸藩は「徳川と薩摩の戦ゆえ」と中立傍観をきめこむか、あるいは薩長を嫌い旧幕軍に与するかであったが、錦の御旗が出た途端、次々と手のひら返しをはじめる。自ら国賊になりたい者はいない。土佐藩をはじめ諸藩が続々と官軍に合流した。野合といえば野合。なれども「我ら朝命に従う官軍」。日本人らしい行動原理が働いた。面妖な公卿と薩長の狙いが、まんまと的中したのである。

 いかんせん、一会桑政権を担っていた徳川慶喜、松平容保、松平定敬はいずれも二十代から三十代前半。若かったのが災いしただろうか。

 この世は、人とは、うんざりするほど汚いものだ。公序良俗が保たれた平時は抑止されているが、が外れた乱世ほど暗部の作用が顕著になり、清廉潔白な道理がまっすぐ通らなくなる。そして我が身かわいさから「大義と小義」だとか「清濁併せ呑む」などと、臆面もなく場当たり的で破廉恥な論をつかい分ける輩があらわれる。古今東西、道徳観念と世はそれを風穴として、とりかえしがつかないところまで乱れゆく。

 決まってこれに泣かされるのは、末端にある若者たちやまじめな忠義者だ。

 淀城の大手門までひきかえした旧幕軍の兵たちは、にわかに信じられない光景を目の当たりにする。

 なんと淀城をまもる淀藩稲葉家中が、「帝の勅命でござる」と城門をかたく閉ざして旧幕軍の入城を拒んだのだ。そのうえ、川を舟で渡ってくる薩長の軍を城中へ迎えいれる始末。

 稲葉家といえば、あの春日局の血を引き、三代家光公から深い信任をえた家柄。幕府老中をも勤める譜代であって、薩長のように長らく幕政から遠ざけられてきた外様藩ではない。

 わけもわからず前進拠点を失った旧幕軍は、ついに淀城をあきらめ、木津川を南へ渡った先にある八幡山と橋本に陣を敷く。

 北から南下してくる薩軍の大砲は二門。地の利と配置の優位性は旧幕軍側にあるから、まだ何とかくい止められよう。

 しかし――

 往々にして悪いことは雪崩をおこす。こんどは、味方だと信じこみ近くに布陣させていた津藩藤堂家中が、淀川の西向こう岸から旧幕軍のどてっ腹へ、不意打ちに大砲をドンドンと撃ちかけてきた。虎口を逃れて竜穴に入るとはまさにこのこと。

 小早川秀秋のお株を奪うような、有力譜代家の恥も外聞もない背反は、旧幕軍内部に強い衝撃と動揺を与え、戦意を喪失さすには十分すぎるものだった。

 これでは到底戦にならない。

 大砲と鉄砲がとびかう真っただなか、軽輩者ながら身命を賭してまっさきに駆けまわった新撰組の面々は、「御譜代がなんたる体たらくか」と嘆くよりほかなく、旗あげから行動をともにしてきた井上源三郎と隊士十数名を混戦で失った。

 鬼の副長こと百戦錬磨の土方歳三でさえ、人目を避けて重く肩を落とし「ふざけるな。何の冗談だよ」と深くうなだれていたが、陣へ生還した新八や主だった隊士らとともにささやかな献杯をした。

 戦況は刻々と流転する。泣き言をぼやいている暇もない。当地から八里南の目と鼻の先には、上様が現在の本拠としている大坂城がある。それだけは断じてならない。

 旧幕軍を率いる松平正資や竹中重固、土方歳三など重役面々の間で緊急の軍議がもたれ、「まずは大坂城までとって返し、上様をお守りしよう」ということになる。

 そこで新八と斎藤が率いる新撰組の精鋭二十名は、淀城の南にある八幡山の中腹に拠り、緩急をつけた遊撃をもって薩軍を引きつけ、決死の殿軍として懸命に時間をかせいできたのだ。

 ついに薩軍が淀城下へなだれこみ、戦火のあがる様が見える。

 西を見れば、橋本宿も同様だった。

 そろそろ潮時。引きぎわを見あやまれば完全に孤立してしまう。敵方の囲いが手薄な今のうちに突破して、速やかに当地から退かねばなるまい。

 斎藤が苦々しげに唇をかむ。


「橋本宿には佐々木さんが率いる見廻組と幕臣三百の兵があったはず。ついに抜かれてしまった」

「この趨勢ゆえやむなし。あとはうまく逃れてくれたらよいが。佐々木殿はそもそも会津の人だから、引かずにまだ留まっているであろうか」


 佐々木只三郎の涼やかに微笑む端正な顔だちが、新八の脳裏に思い浮かぶ。新撰組の前身である浪士組が江戸から上洛した折、芹沢一党のわがままに呆れつつも、懲りずに随行してくれた。会津から旗本家へ養子にはいり、神道精武流を究めた腕前は小太刀日本一と賞賛され、講武所師範をも務めた。京では見廻組を率い、新撰組とともに京市中の警護にあたった。道理をわきまえ、折り目正しき誠実な侍だ。

 このまま死なすにはあまりにも惜しい。世が落ち着いたらいつか手合わせを乞いたい武芸者の一人でもある。新八は「どうか、ご無事で」と胸中に強く念じた。

 さりとて、この戦における会津兵の戦いぶりを見るにつけ、あらためて思う。よくぞここまで、一貫して徳川宗家に忠義を尽くせたものだと。新撰組の猛者たちからガムシンと渾名される新八でさえ、驚かずにはいられない。

 すべては会津松平家の家訓に由来する。会津松平家始祖、保科正之が定めた家訓の冒頭にはこうあった。

 

 一、大君ノ義、一心ニ忠勤ヲ存スベシ。

   列国ノ例をモッテ自ヲ処スベカラズ。

   若シ二心ヲ抱カバ、即チ子孫ニアラズ。

   面々決シテ従フベカラズ。

 

 つまり正之は、大君である徳川将軍家に忠勤しない者は、我が子孫でないから従うなと言っている。

 だからこそ会津は、上から下まで迷いもなく命をなげうって徳川宗家を補佐する。京都守護職などという諸侯の誰もがやりたがらなかった業火中の栗を、大火傷をするとわかっていながらも、覚悟をきめて手を伸ばした。

 それは会津武士が会津武士たる自問自答そのものだったといえる。

 先帝孝明天皇がご生前のころは、一会桑政権へのご信任厚く、勤王と徳川将軍家への忠勤が一点で結びついていた。しかし先帝が崩御して以来、薩摩が態度を翻してすべてが変わり、会津の立場は坂道を転がるように悪くなっていった。

 薩長軍が錦の御旗を掲げたのを見て脱走した新撰組隊士もある。兵が減るのは困るが、勤王の士を強く自認する隊士も多かったから無理もないことだ。

 だが新八は、この難局にあってもなお、闘志が変わらない。

 なぜならば新八が愛する新撰組は、京都守護職会津公御預。

 即ち、会津とともに上様を守ることが新撰組の今なすべき役割であり、存在意義であって、土方歳三ら多くの同志を大阪城まで生還さすことこそが、新八にとっての義。

 だからこそ彼は倦まず弛まず、屈することなく、猛猛しく戦えた。

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