鳥羽伏見(二)

 当世におこった一連のできごとを、だとかだとか心地よい言葉で修飾する人もある。

 はたしてそうだろうか。

 なぜと呼ばないのか疑問の余地がある。関ヶ原の戦から封印されてきた戦国の風穴を開けたとなれば、聞こえが悪いからであろうか。

 十八世紀から十九世紀にかけて西洋諸国で産業革命がおこり、先端工業技術と莫大な資本は、新たな経済圏の拡張を求めた。覇権国家イギリスを筆頭に西洋の列強は、軍事力の優位性をテコに東洋諸国をこぞって支配下におさめたのち、公然と、凄惨に富を簒奪する。

 こうした世界情勢のなか、極東にある日本も無関係ではいられなくなった。

 だがとても今のままでは西洋に対抗できない。諸藩に分散する人と物と金を一つに集中し、強権をもって動かす中央集権国家に生まれ変わらなければ、軍艦一隻の購入もままならないのが実情。やがてインドのムガル帝国や清国のように亡国となるのが関の山だ。

 したがって統治と海防のありようについて転換が必要になるという意識だけは、どんな立場にせよ、上から下まで誰もが心得ていた。

 そこで当面の問題は、次の政権において誰が主導権を握るか、及び移行の手順にある。つまり政局だ。これらは日本列島内にある人口数パーセントの非産支配階層である武家と公卿による、生き残りをかけた政局の混戦、ないし乱世――とも捉えられる。

 乱世においては正義も悪もない。ただ過ぎてみれば、敗者と勝者があるのみ。世間ではこれを「勝てば官軍」とも云う。

 歴史を俯瞰してみるに、おおかた政争で敗れるときには想定外のことが起こり、決定的な分岐点になるものだ。あとはひたすら後手にまわり、立てなおしができなくなって総崩れに至る。

 まさにこの戦へのぞむ旧幕軍も然様だった。

 慶応四年一月六日現在。

 大勢の旗色は、旧幕軍にとってすこぶる悪い。

 一月三日夕刻に戦端がひらいてからというもの、始終劣勢にある。旧幕軍一万五千、対する新政府軍は四千五百。三倍近い数的優位があるというのに、このありさま。

 なぜか。

 そもそも旧幕軍は、京の手前にある伏見で戦闘に突入する意図がなかった。それに加え、たとえるなら日本の地下水脈のごときな思想信条が、王政復古を境に地表へ噴き出し、政治機構と結びついて作用したことに因る。

 あっという間の十日間だった。

 第百二十一代、先帝孝明天皇の崩御からおよそ一年が過ぎた昨年、極月二十五日。

 若き俊英徳川慶喜と、老練な薩摩の最高権力者島津久光の対立がますます深まるなか、発端というより終局のはじまりといえる事件が、まず江戸で起こる。

 不逞浪士が破壊活動や強盗をくりかえして江戸市中の治安を乱したすえ、薩摩の江戸藩邸へ逃げこんだ。京における会津藩や新撰組と同様、江戸市中の警護をになう庄内藩および庄内藩御預新徴組は、浪士の身柄引渡しをもとめた。が、薩摩藩はこれを断固として拒否したため、それから双方揉み合っているうちに火が藩邸全体にまわってしまい、結句焼き討ちに至る。漆黒の夜空を赤く不気味に焦がす様は、泰平の終わりを告げる地獄の業火か、遠く横浜からも望めたという。

 報せを耳にした諸藩は「いよいよ徳川と薩摩のあいだで戦がおこるのではないか」と緊張し、目を凝らして半身に構えた。

 いっぽう旧幕臣たちのあいだでは、薩摩を敵視する強硬派の論がより一層濃くなってゆく。さながら水が上から下へ流れるような、当然のなりゆきである。

 その前に徳川慶喜は、新政府の諸侯会議へ迎えられるというから、内大臣の辞官と資金源となる領地の返納まで従順に応じたというのに、薩摩と公卿の画策によって反故にされた経緯もあった。損なわれたのは面目だけの話ではない。徳川幕臣八万騎の死活問題だ。

 構図をさらに引いてみれば、日本との将来取引から得られるであろう莫大な利益を皮算用する強欲紳士、覇権国家イギリスの顔が薩長のうしろで見え隠れする。

 手をこまねいてはいられない。諸外国大使の目が新政府へ注がれ、ひとたび正統な政権として承認されようものなら取り返しがつかなくなる。

 欧米の国力や海洋の動向はおろか、国同士がかわす条約の意義を知ろうともせず、やれ「攘夷だ、閉港だ」と騒ぎたててきた連中が、国の舵取りと外交をしたらどうなるか。先にある終着点は、火を見るより明らかだ。

 慶喜は知っている。

 攘夷派公卿の軽薄さを。

 新政府に議定として名をつらねる攘夷派公卿の有力最先鋒三条実美などは、攘夷の非現実性を慶喜が土佐藩主山内容堂とともに順序だてて解説した折、無言のままなんら反論もせずに悄然と漏らした。


「じつは攘夷派の浪人どもが毎日きて、私を脅迫するのです。私の身にもなってくださいッ――」


 慶喜と容堂は、唖然としてたがいの顔を見合わせたもの。

 大同小異、実美ばかりではない。

 攘夷派公卿の内実を見るにつけ、慶喜は「私はほとほと、救いがたいのに困りはてた」とやり場のない嘆きを日記にぶつけてしまうほどであったが、畢竟、公卿どもは我が身の心配が中核にあって信念も構想もない。自衛のため周囲の意見に流され、その長い延長線上に攘夷があるだけのこと。彼らの深層を見抜いていた先帝は、長州の言いなりになる実美ら攘夷派公卿を疎んじたのだ。

 まさしく日本存亡の危機。

 今の流れは望ましくない。はやく方向を整える必要がある。

 慶喜自身は勤王思想の故郷ともいえる水戸学発祥の地、水戸徳川出身であるから、蛤御門の変によって荒廃した帝都周辺での戦を望んでいないが、ただちに動かざるを得ないと判断する。

 敵は君側の奸臣、薩摩。

 十二月九日の王政復古以来、若き帝の側で朝論を私し、果てなく増長するいっぽうだ。

 ここ六年ほど、京政局の中心には薩摩がいた。公武合体と開国を藩論としていたが、尊皇攘夷を掲げる長州から押しこまれた窮地では会津と密約を結び、長州と攘夷派公卿を京から追い出した。

 かと思えば一転、こんどは長州や土佐と密約を結び、徳川宗家と会津桑名を京から締め出さんとしている。あまつさえ、こちらも先帝からひどく疎んじられていた岩倉具視と結託し、諸侯の意見をないがしろにする態度をも隠さない。

 苦々しく感じているのは旧幕臣ばかりでもなく、むしろ今や孤立傾向にある。蓋し、諸藩は旧幕を支持するか、中立の立場を取るであろう――と慶喜は読む。

 十分な兵站を整えぬまま一万五千人もの兵力を急遽動かしたのは、機に乗じた素早い先手を真骨頂とする慶喜らしい判断であり、斯様な時機を勘案したまでのこと。決して無謀でもなかった。

 なればこそ、大坂から北上する旧幕軍はを前面に標榜し、薩摩藩主島津忠義らの身柄ひき渡しを主に求める。

 断じて、帝を頂とする新政府への対抗ではない。

 そのはずだった。

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